定年後に自分の人生を振り返り、
私の様な者が充実したサラリーマン生活が送られたのは、
何故だったのだろうかと、時々自問自答することがある。
卒業したのは今の就職氷河期とは異なり、日本経済の伸展期に当たり、
しかも理系ブームのなか薬系男子卒業者が少なかったからだろう。
今年の就職状況も一般卒業者とは異なり、
6年制に成った薬系卒業者は引く手あまたのようだが、いつまで続くであろうか。
それに加えて新人時代の3人の上司が、
幸いにも三者三様の素晴らしい恩師と出会い育てられたからだろう。
これらに付いては「3人の上司」として25年前に○○県会誌に回顧したので、
今日の「インターネット随想」は、少し硬い自己満足のエッセを3回に分け連載する。
私が学校を出たのは、昭和40年の日本経済の進展期であり、
薬学関係の会社は好景気で、公務員などへは振り向かない時代であった。
私も民間会社に誘われたものの田舎に帰り、薬局か病院勤めを考えていた。
ところが大学4年の夏休みに、○○県では不足がちな薬剤師を探しており、
幸か不幸か小生と出会い、公務員生活を送り現在に至っている。
この最初のお誘いの人こそがT先生(元薬務食品課長)であり、
私の運命を決定づけたと同時に、以後は仕事上の間接的上司として、
多大の影響を与え終生忘れ得ぬ人となった。
このようにして○○県庁に入り、△△県衛生研究所の化学課に勤めることとなった。
△△研究所という名前は2~3度聞いてはいたものの、
どんな仕事をするのか、何処にあるのかも知らなかった。
当時の場所は現在の県立病院の横に、戦後出来た小さな木造の死体解剖の建物があり、
そこを夜勤で通る時は薄気味悪い気分にさせられた。
しかも、私の最初の歓迎会は直接の上司、H先生(現T製薬㈱取締役)らの手料理で、
この死体解剖室でしてもらったことを、なぜか今も鮮明に覚えている。
時の所長は陸四郎博士(元大阪大学助教授)で、
明治の有名な国粋主義の思想家、陸羯南の子孫とかで、
見るからにかっぷくもよく、ギョロッとした大目玉と鼻筋の通った、
役者の団十郎を思わせる顔つきであった。
おそるおそる、初めて挨拶に行くと、大目玉でじっと見て、
「ここになくてはならない人に、成ってください」とただ一言、
言われた記憶が脳裏にはっきりと残っている。
最初は無愛想な所長も後には研究室に来て四方山話をしたり、
自宅へ何度か誘われ御馳走にもなった。
陸先生は海軍の軍医大佐で、戦艦『陸奥』に乗っていたこと、
親類に三菱、伊藤忠の大物が沢山いることなど、
名門出身の自慢ばなしを幾度となく聞かされたものだ。
しかし先生は実に温厚かつ雄大で、職員は決して叱らなかったし、
10年ぶりの新人で学卒の私は珍しがられ、
「クロちゃん」という愛称付けて可愛がって頂いた。 (つづく)
(○○県○○会誌、1986.1.1)
●思い出の写真から(53) 富士登山①―富士宮口より登山 (昭和38年)
夏休みが始まり夏山登山も多くなるだろうが、
約50年前の懐かしい富士登山を3回に分け掲載する。
○富士山 (沼津付近から)
○富士本宮 浅間大社大鳥居―バスで新五合目へ
○登山グループー(6合目山小屋)
○一路頂上へ①―(7合目付近)
○8合目付近の稜線