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作家中島敦が文壇にデビューするのは、
死の数ヶ月前のことです。
小説が商業雑誌に掲載されるのを作家のスタートとするならば、
中島敦の作家人生は1年も満たなかったことになります。
デビュー作は「山月記」と「文字禍」。
「古譚」の総題のもとに雑誌「文學界」に掲載されました。
昭和17年、敦33歳のときのことでした。
このデビューに深く関わっていたのは、
実は小説家“深田久弥”です。
昭和11年に2人は知り合い、
敦は書き上げた原稿を何度も久弥に見てもらっていました。
年は6歳ほどしか離れていませんが、
敦にとって久弥は先輩であり師でもあったのでしょう。
深田久弥との出会いは、
敦の人生に転機をもたらしたと言えます。
もし久弥と面識を持っていなかったならば、
生前作家としてデビューすることも、
作品が世に出ることもなかったかもしれません。
必ずしも深田久弥でなければならなかったわけではありませんが、
久弥の尽力によって現在の中島敦があることは確かです。
ところで、深田久弥と言えば山岳研究家としても知られています。
讀売文学賞を受賞した『日本百名山』(昭和39刊)は、
「ほんとにどれだけ繰り返し頁を繰ったことになるやら」(正津勉)と言われるほど、
「狂信者」のバイブル的存在。
昭和11年頃の敦はしばしば登山に出かけ、
富士山にまで登っていることから、2人は気が合ったのかもしれません。
久弥は「打ちとけながらも、礼儀正しく、義理堅」い敦がとても好きだったと、
当時のことを回想しています(「中島敦の作品」)。
また久弥は、小林秀雄や河上徹太郎などの「有力な諸君」がいたにもかかわらず、
なぜ敦は自分のところへ来たのか疑問に思ったようです。
このことについて、彼は次のように述べています。
羞ずかしがりやの君が、その内部をさらけ出した原稿を、
あえて私の所へ持って来たのは、その頃私が書き散らしていたものから察して、
私が一番くみし易い相手と見たからかもしれない。
君の言う「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」に対して、
私が一番当たり工合いのいいクッションに思われたのかもしれない。
人は誰でも自分と同質のものに警戒するが、
その警戒を君は私には不必要と感じたのかもしれない。
(前掲書)
深田久弥と知り合った当時、敦は27歳。
この頃はまだ横浜高等女学校に教員として勤め、
野球をするほど元気な姿を見せていました。
久弥もまた、この6年後に敦が死ぬことなど想像もしていなかったことでしょう。
ましてや、人間が虎になるという怖ろしくも悲しい小説が、
敦の手によって書かれることも……。
(「中島敦と北武蔵(9)」に続く)
死の数ヶ月前のことです。
小説が商業雑誌に掲載されるのを作家のスタートとするならば、
中島敦の作家人生は1年も満たなかったことになります。
デビュー作は「山月記」と「文字禍」。
「古譚」の総題のもとに雑誌「文學界」に掲載されました。
昭和17年、敦33歳のときのことでした。
このデビューに深く関わっていたのは、
実は小説家“深田久弥”です。
昭和11年に2人は知り合い、
敦は書き上げた原稿を何度も久弥に見てもらっていました。
年は6歳ほどしか離れていませんが、
敦にとって久弥は先輩であり師でもあったのでしょう。
深田久弥との出会いは、
敦の人生に転機をもたらしたと言えます。
もし久弥と面識を持っていなかったならば、
生前作家としてデビューすることも、
作品が世に出ることもなかったかもしれません。
必ずしも深田久弥でなければならなかったわけではありませんが、
久弥の尽力によって現在の中島敦があることは確かです。
ところで、深田久弥と言えば山岳研究家としても知られています。
讀売文学賞を受賞した『日本百名山』(昭和39刊)は、
「ほんとにどれだけ繰り返し頁を繰ったことになるやら」(正津勉)と言われるほど、
「狂信者」のバイブル的存在。
昭和11年頃の敦はしばしば登山に出かけ、
富士山にまで登っていることから、2人は気が合ったのかもしれません。
久弥は「打ちとけながらも、礼儀正しく、義理堅」い敦がとても好きだったと、
当時のことを回想しています(「中島敦の作品」)。
また久弥は、小林秀雄や河上徹太郎などの「有力な諸君」がいたにもかかわらず、
なぜ敦は自分のところへ来たのか疑問に思ったようです。
このことについて、彼は次のように述べています。
羞ずかしがりやの君が、その内部をさらけ出した原稿を、
あえて私の所へ持って来たのは、その頃私が書き散らしていたものから察して、
私が一番くみし易い相手と見たからかもしれない。
君の言う「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」に対して、
私が一番当たり工合いのいいクッションに思われたのかもしれない。
人は誰でも自分と同質のものに警戒するが、
その警戒を君は私には不必要と感じたのかもしれない。
(前掲書)
深田久弥と知り合った当時、敦は27歳。
この頃はまだ横浜高等女学校に教員として勤め、
野球をするほど元気な姿を見せていました。
久弥もまた、この6年後に敦が死ぬことなど想像もしていなかったことでしょう。
ましてや、人間が虎になるという怖ろしくも悲しい小説が、
敦の手によって書かれることも……。
(「中島敦と北武蔵(9)」に続く)
そういうことがあって彼女とは少し面識があり、言葉を交わしたことがあります。私が本物の作家とコトバを交わしたり家にうかがったりした初めての経験でした。(ちいさな頃だったのでとても刺激を受けました)
そして彼女から紹介を受けた方も亡くなり今その方の奥様(85歳、病気入院中)をお見舞いがてら先日たづねたら今度来るとき宝くじを買ってきてねと頼まれています・・。話しの落ちが関係ない方向に行きました。モノを書く人その関係者ってどこか破てんこうでおもしろいですよね。前妻の方もそうでした。
面白い話ですね。
意表を突く言葉を言う人は好きです。
言葉の軽い裏切りは心地よくすらあります。
もの書きさん関係の人とあって、
「宝くじを買ってきてね」の言葉は詩的ですね。
深田久弥と間接的な繋がりがあったとは驚きです。
詩人のゼミの方たちは知っているのかしら……
北畠八穂さんは正津先生の『人はなぜ山を詠うのか』によると、
「北畠八穂」としてデビューする以前に、
創作をされていたみたいですね。
それがまたちょっとわけありで……。
本物の作家との出会い。
幼い頃にそんな出会いがあるとは何とも羨ましい。
それにしても「同郷の作家」の響きがいいですね。
友人以上に親近感がわきそうです。