クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

藤島城と木戸元斎

2024年06月25日 | 城・館の部屋
天正19年(1591)年、木戸元斎は直江兼続らとともに、
一揆勢が立て籠もる藤島城(山形県鶴岡市)を攻め落とした。
元斎は同城を破却後、大宝寺城(同市)を取り立てたという。

羽生城主木戸忠朝の二男として生まれた元斎は、
天正2年(1574)の羽生自落後に上野へ移り、のちに上杉景勝に仕えた。
同18年の小田原城合戦の一連の戦いでは、元斎は上杉勢に参陣し、北条方の城を攻略している。
歌人として知られた元斎だが、武才もあったのだろう。
無双の歌人であり、太田道灌から軍の相談役を務めた祖の木戸孝範を彷彿とさせるものがある。

藤島城址は、現在は八幡神社の境内地となっている。
水堀と土塁が現存し、前者の幅は13メートルほどという。
土塁の規模や2メートル前後で、八幡神社の鎮座地が本丸に比定される。

一見館のように見えるが、往古は城郭の様相を呈していた。
すなわち、堀が穿たれ、複数の郭があったという。
なお、藤島城周辺にはいくつの城が配置されていた。
それぞれ連携し、守りを固めていたとみられる。

土塁の向こうに見えるのは高校の校舎。
この藤島城址をきっかけに歴史に興味を持つ学生はいるだろうか。
城址に隣接する高校を見るたびに思うが、
通学する学校の近くに古城があるのはなんだか羨ましい。
何かが始まりそうな予感がする。

ちなみに、藤島城址に建つ文化財説明板には、
列記された城主の中に「木戸元斎」の名が見えた。
確かに、藤島城主5千石を領したと伝える史料がある。
羽生から遠く離れた地で、元斎は何を見ていたのだろうか。
まだ小七郎と名乗っていた永禄4年(1561)、上杉謙信に求められて歌を詠んだことのある元斎である。
謙信は死去し、北条氏は滅び、豊臣秀吉もこの世を去った。
目まぐるしく過ぎ去っていった歳月の流れが去来していたのかもしれない。


藤島城址(山形県鶴岡市)

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