くまえもんのネタ帳2

放置してたのをこちらに引っ越ししてみました。

肉欲

2005-10-31 20:27:45 | ノンジャンル


あぁ、やっと。
やっと長年の夢を果たしたのだった。
彼が差し出したそれを、私はついに唇に受け止め、
愛撫するように優しく口の中で転がした。
なまめかしい弾力。

それはまっ赤な血潮をたっぷりと含んで、今私の口腔内でのたうっている。

これまで、何度もチャンスがあったのに、なかなか現実のものにならなかった、
それがついに。

生暖かいそれを、私はしたたかに飲み下した。
しびれるように体を満たしていく愉悦。

私は、その時、満足すると言うことを忘れ、すべてをむさぼり尽くしかねなかった。
彼のあの一言がなければ。
そう、あの一言が。
「少し取り分けておいてくださいよ。あっちの連中にも食わせたいんでね、良い馬肉でしょう。」

いやぁ、旨かったねぇ。
それにもまして、鮮度抜群のミンククジラの刺身もたらふく食ったのだった。
んも~、感謝感謝。
この前、このブログに、能登の鯨三昧の仕事を蹴ってでも、マタギのバーベキューに参加するって書いたら、わざわざ極上品を持ってきてくれた人がいたのだ。
あぁ~ん、幸せ!

バーベキューだって言うのに、僕たちは生肉ばかり食べてたのだ。
それに美味しい赤ワイン。
なかなか贅沢な品を御馳走になった。

それにしても、馬肉や鯨肉って、若い子たちには今ひとつの人気。
知らないのも無理はないんだけどさ。
いいのよいいの。
美味しい物は、年寄りに任せておけば。
ほっほっほ。


さて、デザートは、若い男どものこれまた引き締まった肉。
そして、年下の男どもの霜降り肉。
若さをたっぷり吸い取って、もう、お肌ツルツル。>ばきっ!

最近自転車でヒップアップしたひさしちゃんの画像は、改めてMATAGI裏ページの方にまとめる予定。
おたのしみに。

あ~、それにしても、酒池肉林。
よきかなよきかな

血のざわめき

2005-10-30 08:30:38 | ノンジャンル

犯罪の影にB型あり
なんて、そんな風に言われる血液型。
何が嫌ってさぁ、それ、あくまでも犯罪の影にであって、主役じゃないのよね。
おまけに♪地獄の果てまでついて行く~蠍座で、
おっも~い運命の土星をしょってるの。
こんなアタシって、やっぱり幸せからは縁遠い存在なのかしら?

好意的な口調で血液型を聞かれても、
「B型」と答えたとたん相手が退くのを見るのは、やっぱりいい気はしない。
しゃくに障って僕も「A型」に泣かされた話しをして、「だからA型は」とかやり返してみるのだけれど、どうも形勢は良くない。「A型」が嫌いとやり返しただけで、自動的に日本人の半分を敵に回したことになるのだからねぇ。
「B型の特徴はね、血液型を信じないこと」なんて、矛盾同着したことを言って退散する。
まぁ、どっちにしても、お互い本気じゃないんだし、互いに出し合った例も、たまたま出会った何人かでモノを言ってるわけで、科学的根拠どころではない。
第一、人間の性格が4種類しかないなんて事は、そもそもまじめに語るほどの価値はない。
なのにあげくの果てには、「サルはB型が多いんでしょ?」と来る。
だからサル並だと言いたいらしい。

いえね、呑んでて、動物にも血液型があるんだねなんて話しになってさ、そう言えばそんなの見たことあるなぁなんて思って調べてみたのだよ。

比較血液型学
東京農業大学名誉教授 農博 鈴木正三 監修
なんて本があるのだねぇ。
で、たぶんそれがネタ本になってると思われるサイトを見つけた。
血液型人間学サイト~ABO WORLD~だげな。

ちょっと抜粋してみると......。
チンパンジー O・A・B・AB
ローランドゴリラ O・B
マウンテンゴリラ O・A  
ニホンザル O・B  
ウシ B  
ブタ A・B  
ウマ O・A B

まだつづく。
犬とかはABO式じゃない血液型の方が重要らしいのだけれど、それは紹介されていなかった。
どうも怪しい。
だって、ネタ本が何なのかちゃんと紹介せずにまるまる使ってるんだよね。
それも、妙にバイアスのかかった引用というかゆがめ方。
で、そこのページの監修者の名前で検索してみると、こんなのが出てきた。
あは、ずっとおもしろいや。

[心理テスト] はウソでした。 - 受けたみんなが馬鹿を見た
村上宣寛著 日経BP社 2005/4 226pp 1,575円


あぁ、あれもこれも受けさせられたことがある。
怪しげな「ロールシャッハテスト」がインチキだというのは、爽快ですらあるけれど、
あの鬱陶しい「内田クレペリン検査」もインチキだったのね。
く、くやしい!
アレで就職を不意にしたこともあるようなないような。
って、そんなんで決まるとこなんて、どうでも良いような所だけどね。
行かなくって、正解よっっ!
この本の内容紹介のところに、さっきの怪しげサイトのことが出てた。
あん、やっぱり。
ちょっと抜粋。

・・・・・・・・・・・・・・・・
「ABO WORLD 」に掲載している「血液型度」をチェックする20の質問を試してみた。私の場合、結果はO型が2点、A型が1点、B型が3点、AB型が1点であった。B型度が 60%である。チェックによると私の血液型度はB型だった。しかし、私の血液型はA型である。能見俊賢なら、私の血液型はA型だが、環境の影響でB型の性格になってしまったというだろう。「ABO WORLD 」には「これは、あくまで遊びですので、当たるとはかぎりません!」と書いてある。本当に当たらない。そこに書かれているコメントを読むと、当たっている場合は「キミは素直な人」、当たらなければ「自分を意外に知らない人」と、どちらに転んでも血液型度チェックが正しいようになっている。

●バーナム効果
 アメリカの心理学者フォアは、心理学受講生39名に対し興味診断テストを実施し、1週間後にテストの結果を知らせた。
それには、
(1) あなたは人に好かれ、尊敬されたいという強い欲求があります、
(2) あなたは自分自身を批判する傾向があります、
(3) あなたには使われていない潜在能力がたくさんあります、
(4) あなたの性格には弱いところがありますが、一般的に克服する能力があります、
といった13の文章が書かれているが、これらはすべて新聞や雑誌の占星術の本から抜き出したものだった。フォアは学生全員に同じ結果を手渡したのである。そして、テストの結果がどの程度自分に当てはまっているかを答えさせたところ、平均で、13の文章中10の文章が正しいと判断された。ほとんどの学生は見事にだまされたのである。これは、誰にでも当てはまるような一般的な性格記述を、自分だけに当てはまるとみなしてしまう現象であるが、アメリカの心理学者ミールは、これをバーナム効果と名付けた。バーナムは、人をだます名人だったアメリカの興行師フィニアス・テイラ・バーナムの名前からとった。
・・・・・・・・・・・・・・・・

なるほどねぇ。
誰にでもあてはまることを言う、というより、
誰でも信じたいことを言うってのは手だよね。
で、当たっている場合は「キミは素直な人」、当たらなければ「自分を意外に知らない人」。
なるほどねぇ。
外したことで、返ってありがたみを増すコメントかぁ。
やるじゃないの。
でもこれ、案外簡単に応用できそうですね。>ぼかすかっ!


ところで、僕の血液型は
ABO式ではB型
MN式ではMN型
Rh式ではRh+型

学生の頃、実習でこの3種類の検査をしたことがあるのだよ。
簡単なキットで出来る。
MN式はウサギの血清に対する反応パターンで分類する方法。
Rh式は、カニクイザルの血清に対する反応パターンで分類する方法。
要するに、いろんな物に対する血液凝集反応のタイプ分けが血液型なのよね。

性格が血液型だけで決まるのなら、僕の性格は比較的簡単に検査できるこの3種類の血液型と、その他の血液型、それにまだ研究の進んでいない血液型、それからまだ発見されていない血液型などによって決定されていることになるね。W


人生の秋

2005-10-29 14:38:33 | ノンジャンル

ルネ・マグリッドの絵の中の馬が出てきそうな、耳を澄ませば、かすかに蹄の音が聞こえてきそうな、そんなユリノキの黄葉です。


静かな秋の日差し。
あんまり良い天気だったんで、二日酔いの重い頭を肩の上に乗せて、新宿御苑に散歩に行ってきたんですよ。
ついこの前来た時には、広大な芝生の上空をガラスの破片でもばらまいたみたいに赤トンボたちが飛び交っていたのに、この日はまるで「沈黙の秋」が来たかのように、1匹も飛んでいませんでした。
季節の移ろいというものを、いやと言うほど感じさせられます。
あの透明な羽の煌めきが懐かしい。
秋の到来を告げる、光の破片たちが。

と、向こうの木陰に何かが煌めきながら漂っていく.......。



それは、トンボよりも儚い、シャボン玉の光でした。



風、風、吹くな.....。
あのシャボン玉の歌が、儚い命を詠ったものだと聞かされたのを思い出したけど、無邪気に戯れる子供にはそんなこと関係ありませんね。
一点の曇りもない喜び。

51回目の秋、僕の喜びはうっすらと灰色の憂鬱をまとって、燻銀のようだった。
真新しい金属の断面のような強烈な輝きを持つ若い頃の喜びとはちがって、それは何となく手のひらの上で転がしてゆっくりと眺めていたいような、眺めていると細かい傷やら錆やら灰汁のついたあとなんかがいろんな思いを呼び覚ましてくれる、そんな綾に彩られた鈍い光を放っているような気がする。
いや、他にも、よだれだの、もっと怪しげなあとも見つかるはずだ。


過ぎ去った夏の記憶は、木立に囲まれた花壇にもまだ残されていた。
アメジストセージの向こうで灼熱の記憶を歌うカンナの深紅の花弁。
連中は、まだまだ当分の間、炎天に熔けかかったアイスクリームの思い出を謳歌し続けていることでしょう。
汗をぬぐいながら歩いたあの季節のことが、今はもう何世紀も昔の事みたいです。


愛の三段階
静かな愛情の持続の中で、二人してゆっくりと成熟していけたら、それはどんなに幸せなことだろうか。

紅葉の始まったソメイヨシノの向こうに、人影を見つけてシャッターを押した。
クリムトの「人生の三段階」を、何となく思い出していた。
彼の「The Three Ages of Woman」は、しかしあまりにも容赦がない。
年老いた女の苦悩はロダンにもあったけれど、若さにだけしがみついて生きてきた人間への痛烈な批判なのだと思ったりもする。
娼婦の晩年。
それはどんなに不毛で恐ろしい人生だろう。
自分の老醜を深く恥じながら体を湾曲させた、老女の姿。

若く美しい肉体は素晴らしい。
だけれども、それは常に限りある魅力でしかない。
若さは、手のひらからサラサラとこぼれ落ちる砂のようだ。
他人事ではない。
歳を重ねてもなお、成熟することを拒み、若者に擬態して闊歩する二丁目の風俗。
年取った者に対する嘲笑は、それを投げかけた者に必ず返っていくというのに。


年とともにワインのように立派になると思っているやつもいる。
だが酢になるのが現実だ。
(映画 パルプ・フィクションより)

ゆっくりと成熟を目ざしたいと思う。
けれど、内面的な魅力を培っていったからと言って、それがそのまま性欲の対象になる、性的魅力になる、若さの代用になるなどと言うつもりはない。
魅力ある人間は、良い友達になれても良い恋人になれるとは限らないのだから。
ただそれが、僕の心を、年老いた娼婦の悲惨から少しだけでも遠ざけてくれたらいいなと、そう願うだけだ。


早口禁止ことば

2005-10-27 19:48:18 | ノンジャンル


せかせかと、モノを言う。
いろいろと伝えたいことがあると、ついつい早口になってしまう。
勢い滑舌(かつぜつ)がわるくなって、相手がこちらの言うことを聞き取れず、あらぬ誤解が生じることがある。

例えば、こんな言葉。

青菜に塩(あおなにしお)
 青菜に塩をふりかけるとしおれることから、力が抜けて弱まるようす。

これを、お酒を飲んだ席で連発してはいけない。
どうなるか?
ちょっと試してみよう。

あおなにしお、あおなにしおあおなにしお、あおなにしよー、あ、おなにーしよー!

しおれうなだれ、力が抜けて弱まることうけあいデス。

肉体の持つ礼節

2005-10-26 19:23:39 | ノンジャンル
人の写真を撮るようになって、いろいろと考えるようになった。
以前書いたのは、僕は写真を通じて、僕の幻想を撮っているに過ぎないと言うことだった。
ときとして、2人の全くの別人を撮った写真でさえ、ほとんど第三者と言っても良いような人物に写っていたりする。それは、モデルになってくれた2人の人間の普段の表情とはほとんど無縁と言っても良いような、僕が思い描いている架空の人物の影なのだ。

僕は、人がポーズをとっている、そんな写真を撮りたいとは思わない。
何か一連の動作の中のほんの一瞬。
表情から表情へと変化していく時の、名付けがたい移ろいの瞬間、
そんな命の刹那を撮りたいと思っていたりする。



先日、「体道●日本のボディービルダーたち」という本を見せてもらった。
1966年11月23日に発行されたものだ。
三島由紀夫がその本に寄せた序文に「肉体文化」という言葉があった。
「われわれは肉体文化の伝統を持たず、力に対する民俗的信仰は、何か超自然的なものへの信仰の影を宿してゐて、肉体それ自体、人間の裸体それ自体の文化的価値は、たえて認められることがなかつた。」
この序文は、彼がぼくたちに残していってくれた、肉体という物体、目に見える形、人間の外形を通して、ぼくたちが何を捉えうるのかと言うことに関する、精神的遺産のようにも思うのだ。
今はもう手に入れることなど困難な本なので、その序文を紹介しておこうと思うのだよ。

体道●日本のボディービルダーたち
著者 矢面 保

序  三島由紀夫

矢頭保氏がこのたび、日本で最初といふべきボディ・ビルダーの写真集を出す。この本にもあとがきを書かれる筈の玉利斉氏に、十一年前手ほどきをうけてこの道へ入った私が、かうやって序文を書くことになったとは、光栄でもあり感慨無量でもある。

 私はかねがね、日本にボディ・ビルダーの専門的写真家がないことを嘆いてゐた。レオナルド・ダ・ヴィンチが解剖学の知識によってルネッサンス美術の人間性復活の技術的基礎を獲得したやうに、人間の筋肉に関する精密な実際的知識がなくては、ボディ・ビルダーの写真作品を、写真芸術にまで高めることはできない。その久しい待望が、矢頭保氏の出現によって充たされたのである。なぜなら、矢頭氏は、氏自身ボディ・ビルダーであり、筋肉の精華の何たるかを知り、その微妙な生理を知悉し、一方、写真家として、光りと影が生み出す形象の無限のニュアンスを知り、……かくてこの写真集に見られるやうに、日本ではじめて、男性の筋肉の、力、均整美、光輝、憂愁、そしてその詩のすべてを表現することに成功したからである。

 思へば、ボディ・ビルディングとは、もっとも日本の文化伝統に欠けてゐたものの、新しい移植であった。われわれは肉体文化の伝統を持たず、力に対する民俗的信仰は、何か超自然的なものへの信仰の影を宿してゐて、肉体それ自体、人間の裸体それ自体の文化的価値は、たえて認められることがなかつた。明治時代に、裸体彫刻が猿股を穿かされかかつた逸話は、数多く知られてゐる。

 戦後の日本の肉体解放は、主にセックスの面で表面に現はれたが、別の、精神史的な面における肉体解放は、表立ちもせず、意識されもせず、深く探究されることもなかった。セックス以外の面では、人々の心には、暗い古い儒数的な肉体蔑視が、色々に形を変へてひそんでゐた。西欧化が表面上行きわたつたかのように見える現代日本で、かつての古いギリシアの知恵、一 太陽の下における精神と肉体の均衡を、至上の人間的価値とみとめ、精神におけると同様に、肉体にも、何か美しく高貴な、内在的にして同時に超越的な、文化価値を賦与するといふ知恵 一 は、全く忘れ去られてゐた。そしてそのままに、まつしぐらに、工業化の必然的傾向である人間の細分化、機能化、専門化、要するに非人間化へ向って、なだれ込みつつあるのである。

 いくら我田引水でも、私はボディ・ビルディングが、この欠陥をすべて是正する救世の福音だと説かうとするわけではない。

 しかし、この十数年間、ひそかにバーベルを相手に黙々と汗を流し、この写真集に見られるやうな、かっての日本人が夢想もしなかった逞しい均整のとれた体躯を育て上げてゐた一群の青年たちがゐたのである。竹山道雄氏が随想の中で書いてゐるやうに、日本人の青年の肉体は、かうして見ると、古代ギリシアの美学的基準に忠実な点では、おどろくべきものがあり、ラフカデイオ・ハーンが、かつて、日本人を「東洋のギリシア人」と呼んだことも思ひ合せられる。

 日本文化の特徴は、外来の文化をまづ忠実に模倣して、その極点で転回して、日本化してしまふといふ過程に見出される。ボディ・ビルディングの日本における戦後の普及は、もちろんアメリカの影響であり、その背後には、あの広大な光りと富に溢れた国のローマ帝国的な古代異教文化の復活が感じられるが、日本のボディ・ビルディングには、今や、それなりに、日本の過去に欠けてゐた肉体文化の補填といふ意味以上に、何か、肉体における日本的精神的価値の復活といふ、今まで考へられなかった異質の観念の結合の意味が、合まれてゐるやうに思はれる。

 もともと「葉隠」にもあるやうに、武士の倫理における外面性の重視は、武士の良心に深く関はってゐた。登城するときに、昨夜の二日酔がのこって青白い顔をしてゐるよりも、元気よく見せるために、頬に紅粉を引くことが奨励されてゐた。又、戦の門出に兜に香をたき込めたり、切腹の前に死化粧をしたりすることは、武士のたしなみとされてゐた。あらゆる外面的礼儀が日本人から失はれた現在、日本人は、同時に自分の良心の採り処を失ったのである。それは武士道に永いこと育てられたわれわれの心の、ふしぎな逆説的結果である。

 そのとき登場するものは何だらうか? すべての古い衣裳が失はれた今、日本人の唯一の外面的規範を代表するものは何だらうか? それこそ、力強い、逞しい、男らしい肉体ではなからうか? そしてその肉体に代るほど、堅固な拠り処となる思想も観念も、われわれはもはや持ってはゐないのである。そのとき、このやうな、礼節正しい、すがすがしい力にあふれた肉体は、はじめて日本人にとって、一つの文化的価値となるのではなからうか?

 最後に、この集には、矢頭氏によって撮られた私自身の、ボディ・ビルダーとしての写真も入ってゐる。日本の建築には、逆柱といふものがある。あまり建築が完璧であると魔が射すといふ迷信から、わざと一本、逆さの柱を立てて、建築の完璧性を崩すのである。私の写真を矢頭氏が入れた真意も、この逆柱にあるのだらうと私は睨んでゐる。
かくてこの写真集も魔障の影をのがれ、人々の祝福のうちに、幸運な落成式を迎へることになるであらう。