くまえもんのネタ帳2

放置してたのをこちらに引っ越ししてみました。

緑雫碧水滴翠

2009-10-29 11:16:00 | ノンジャンル


  緑深き地底より湧きいで
  田畑の隈々を経巡る血管
  緑濃き家並屋並を湿らせ
  地下鉄の軌道を緑に染め
  嬰児の眼差しを潤ませて
  碧緑の千歳緑の八千草の
  暗緑の照葉樹森の山鳩の
  翼に宿る曙を濡らし輝く
  我はかそけき水霊の一滴



「私はまた旅に出た。――
所詮、乞食坊主以外の何物でもない私だつた、愚かな旅人として一生流転せずにはゐられない私だつた、浮草のやうに、あの岸からこの岸へ、みじめなやすらかさを享楽してゐる私をあはれみ且つよろこぶ。
水は流れる、雲は動いて止まない、風が吹けば木の葉が散る、魚ゆいて魚の如く、鳥とんで鳥に似たり、それでは、二本の足よ、歩けるだけ歩け、行けるところまで行け。
旅のあけくれ、かれに触れこれに触れて、うつりゆく心の影をありのまゝに写さう。
私の生涯の記録としてこの行乞記を作る。」
        行乞記(一)種田山頭火



  山の花は山の水に活けてをき
            山頭火

沈黙のあわいに

2009-10-29 03:15:00 | ノンジャンル


  脳髄の地平線
  肉体の水平線
  無意識の底の
  夜明け前の光
  言葉の流星雨
  天空の子午線
  自動書記の夢




  群盲の放物線
  忘却の漸近線
  白日夢の彼方
  知覚の水面に
  漂う現の泡沫
  記憶の測地系
  自動書記の夢




  恋情の双曲線
  覚醒の接線の
  情念の幾何学
  陽光の翳りに
  晶出する茫洋
  永遠の消失点
  自動書記の夢



秋岳彷徨

2009-10-19 13:06:00 | ノンジャンル


フランスの分子生物学者フランソワ・ジャコブは、神話、魔術、科学を問わず、あらゆる説明体系は同じ原理を共有していると指摘した。いずれの体系もみな、物理化学者ジャン・ペランの言う「目に見える複雑な物を、目に見えない単純な物で説明」しようとしているというのだ。




全く唐突な話なんだけれども、それは、こんな風にとらえることも出来ないだろうか。
「芸術は、目に見えない複雑な物を、目に見える単純な物で表現しようとしている」とかなんとか。
「目に見える」を「耳に聞こえる」としてもかまわないのだけれどね。
流動的でとらえどころのない頭の中のよもやまを、形式というか形ある物へとフィックスする作業、そんなのを芸術と呼んでも良いんじゃないかとかね。

まぁ、こんな話はきっと昔の人が既に書いてることなんだろうけどねぇ....





学生の頃、たまたま読んだ心理学の本の中の一行が、また何の偶然かその直後に読み出した長編小説のテーマだったりしたときも、同じようなことを考えたっけ。
心理学という科学は、人生のよもやまからたった1行を抽出する。が、小説という芸術は、その1行を生きてみせる。

ま、それはさておき......




高山帯を徘徊しながら、写真を撮ったりその辺にある物でワケワカな悪戯をもくろんだりするとき、まぁそれでも少しは物を考えたりもするのだ。
例えば、「美」って何よ?とかね。
A(^_^;




しばしば美の基準の一つに黄金比なんてのが持ち出されるけれど、何でも黄金比で片がつくなら、美の歴史なんてとっくにマンネリに陥って終わってる。

もっと新しい調和のバランス、あるいはもっとアンバランスな何かに潜む新しい美なんてのをみんな探してるよね。
べつに、新しい何かを探し求めたりしないんなら、黄金比で片がつくとも言えるんだろうけれど。




美しい物を黄金比だけで説明しようとして来た、言ってしまえば一種インチキな美の説明の歴史は、「黄金比はすべてを美しくするか?」なんて本が詳しく紹介してくれていて、何とも胸がすく。
僕がこの本を買った理由は、もちろんタイトルの最後についている「か?」が決め手だった。

なんてこと話したところで、一向に「美」について語ってるわけではないのだけれど。
ってか、そんなことを僕がどう思おうが、皆さん興味ないだろうし。
僕自身、素人の僕が考えたことが、たいした結論にたどり着くはずもないことぐらいわかってるので、こんな本を見つけて読み始めたところだったりして。




それにしても、この手の本ってどういう訳だか偶然見つけるんだよね。
ところでこの「美の歴史」を書いたご当人は、最近「On Ugliness」ってな本を出したそうで、「美しさはしばしば退屈だ。バービー(Barbie)人形のような美しい鼻は高いだけだが、醜い鼻は無限の多様性をもっている」とか「醜さは、美しさよりも興味深いテーマだが、バーブラ・ストライサンド(Barbra Streisand)の特殊な魅力ほど複雑ではない」とか「世界を美醜で分かつことはできない。その間には、例えばわたしがいる」なんてことをのたもうて居るようで、楽しそうなのだ。




On Ugliness」の日本語訳っていつ出るんかしらん?

......いつもの事ながら、またまた話しが迷走してるんで、戻しましょ。




ちょっとだけ「美の歴史」から抜粋してみようかねぇ。
***************
「われわれを導くもう一つの基準は、近代に定められた美とアートの密接な関係は、われわれが考えるほど明白なものではないという事実である。ある種の近代の美学理論はアートの美のみを認識し、自然の美を過小評価したが、他の時代には事態は逆であった。美は自然のもの(月光やみごとな果実や美しい色彩など)が有する特質であり、アートの課題はただ単に、事物が「みごとに」なされること、それらの事物が計画通りに目的に役立つようにすることであった

中略

にもかかわらず、美とアートの関係はしばしばあいまいに表現された。なぜなら、自然の美は好まれるけれども、アートは写し取られた自然自体が危険であったり、嫌悪すべきものであっても、自然を美しく写し取ることができると認識されたからであった。
***************




なるほど、例えばあなたの手元に安全に自然の美を届けるのは、アートの役目なのね。




でもまぁ、自然の美しさは膨大で、すべてをお届けするなんて事ははじめから不可能な話しなので、ごく一部だけかいつまんでってなことになるのよね。
風景のどこをどう切り取るか。
とってもパッシブなやり方だとも言えるのよねぇ.....。

そこに既にある美を摘み取ってくる。
山菜摘みと大して変わらない行為。
A(^_^;




んでね、そんなパッシブなやり方ばっかりやってると、何というか悪さを仕掛けたくなるんだよね。




とは言っても、おっこちてる葉っぱをチョコチョコッと並べるだけのことだけどね。
これをご大層な言い方に変えるなら、ミニマリズムとかってな話しになって、手抜きとは言わないのが大人だったり。>汗
もちろんこれが何かを象徴してるなんて言い出したりはしませんよ。
えぇ、見たまんまです。
意味?
意味なんて必要?




山を徘徊してると、いろんな物に出くわすんだよね。




続けてこんなのを見ちゃうと、何となく色々考えちゃうかも知れないけど、意味はないのよね。
たまたま山の中で見かけた石でしかないわけ。
でも、こんなのが日本庭園の中にはさりげなく据えられてたりして、そう言うのは陰陽石ってやつで、ちゃんと意味があったりする。




こんなのも、野外美術館なんかに据え置かれていたら意味が発生するんだろうけれど、これ、ただの朽ち果てた道標でしかないんだよね。
でも、見ようによってはなかなか素敵なオブジェでしょ?
そうねぇ、ただ山の中で朽ちていく道標を見て、面白いとか美しいとか意味ありげだとかあとでウダウダ言うにしても言わないにしても、シャッターを押した段階で何か別の物として抽出されちゃってるって言われれば、確かにそれもそうだしねぇ。

わざわざ汗水たらして、こんなものを3000m級の尾根筋まで見に行きたいと思う奴も居ないだろうけど、こうやってWeb上でチョコッとクリックしてただで見られるのだったら、クレームの対象にされるほどの価値もない「美?」の提供ぐらいにはなってるのかなと。




これなんかは、計らずしてダダの作品っぽいかななんて、くすくす笑いながらシャッター押したんだけどさ。
これ、道の縁に並べられた石らしいんだけど(登山者の動線を誘導しようとしたのかな?)、並べた人の意図に関係なく皆さん跨いで歩いちゃってるんで、結果としてそこはかとなくシュールなランドアート風オブジェに成り下がっちゃってるんだよね。w
本来の意味が無視されたり風化させられたりなんかして無意味になっちゃったりしても、それなりの価値が与えられちゃうのって、一種エコなのかしらん?
ころんでもダダでは起きないってやつ?>ボカバキッ!!

ってなわけで、こんな風に本来の存在意義が否定されちゃったり風化しちゃうことで、アートっぽい風格を醸しちゃうこともあるわけで。
これを意図的にやると、デュシャンの「泉」になったりするんかしらね?




してみると、写真を撮るという行為ははなはだ暴力的だとも言えるような気がしてくる。
だって、意識的にしろ無意識的にしろシャッターを押すだけで、被写体の外観を本来の有り様や機能からひっぺがえすことができてしまうんだからねぇ。
そして撮った本人の好むと好まざるとによらず、受け手側は別の意味を感じ取ってしまったりするんだから。

.....あぁ、愚考がとまらない。




これだって、一体どのくらい前からここに乗っかってるのかわからない。
ただの石ころなんだけど、何とも謎めいた造形物のような形に見えるよね。
もちろんこれはただの自然石なんだ。
だから、何か意味ありげな形に見えたとしても、それは僕たちの中に備わっている認識の仕方にバイアスがかかっているからに他ならない。

僕たちは、ただそこにある物に対して、常に勝手に意味を与え続ける存在なのかもね。




かと思うとこんな風景もある。
これは前にもちょっと紹介した針の山なんだけど、はたしてそう見えるかどうかは見立てのお約束を聞かされないと今ひとつ伝わってこなかったりする。
確かに一種超自然的な雰囲気は醸されてるんだけど、地獄絵図の感覚を呼び覚ますほどのことでもないような気がするのよね。

意図的に構築したからと言って、それが必ずしも受け手に伝わるとは限らないあたりが、何とも気楽でイイ感じ。




これは、同じ御嶽山にある賽の河原の風景。
この小石一つ一つを積んでいった人々の思いや願いの堆積の方が、僕には重すぎる感じだわ。>汗




で、ちょっとばかし悪戯を仕掛けてみたくなる。
重たすぎる祈願の堆積の中に、ささやかながら無意味の風穴を開けてみたくなるのだ。
おあつらえ向きの岩が僕をそそのかす。
そこに先人と同じように小石を積むのだけれど、その心はちょいとだけへそ曲がりだ。




どこまでも軽々しく、重さのない軽率な積み重ねを願う心。
バランスド・スト-ンのやり方で小石を立てて、ふっととまった小鳥のように重ねてみる。
どのみち数時間と持たないだろう、ささやかな茶化し。
それは、モニュメントのように長い時間を占有し続けたりしないから、稜線上のたおやかな風景を下界から持ち込んだ人間の欲望の堆積でゆがめ続けるなんて事もない。




ささやかな悪ふざけでも、旨くいくとエスカレートするものだ。
美しい山上の湖の岸辺に、気付かれないようにランドアートのパロディーを作ってみる。




尾根筋の地層の変わり目に、赤い石の層と青い石の層の交点を見つけた。
そこにささやかな注釈を試みる。




そこらに転がっている小石を、高々数m移動させるだけ。
見過ごしてしまう地質の違いをこんな風に際だたせて、だから何の意味があるのかと聞かれても、意味なんて無いのだが。




火山の尾根筋には、妙な物がふんだんに見つかる。
この石は、溶岩が急激に冷えて表面が固まり始めたあと内部からのガス圧でふくれて割れ目が入った物だ。
ちょうどパンが膨らんでひび割れるのと同じ理屈。

その割れ目に、すぐ脇になっていたナナカマドの実を挟み込んでみる。




1979年の噴火はマグマ物質が直接地表に噴出したのではなく,水蒸気が爆発的に噴出した水蒸気爆発だったってな記録があるから、この石はもっと前に出来た物。一番新しくても5200年前か1万年前の火砕流に含まれていた物のようだ。

そんな石に、やっと50年ちょっとをこの地球に暮らしているだけの大型哺乳類の僕が、こんなオイタを仕掛けてるんだから不思議と言えば不思議な話、いや、取るに足らない全く馬鹿げた出来事に過ぎない。
いったい何の因果なんだかねぇ.....A(^_^;




干上がった流れの岩の割れ目に溜まった水に、ナナカマドの紅葉を浮かべてみる。




なかなか美しいと僕は思うのだけれども、はて、その「美しい」というのはいったい何なのかしらねぇ、いったい。




それにしても、こうやって生きてるのって、不思議だしステキなことだよねぇ。
この星に来てみて正解だわ、ホントに。
A(^_^;


乙女心とうわの空

2009-10-09 02:11:00 | ノンジャンル
「乙女心とうわの空」???
まぁ、それを言うなら「乙女心と秋の空」なのだけれど、学生時代にかなり天然の入ってる後輩がふと口にした言葉があまりにも真実をついていた?ので、記憶に残っていたのだった。




次第に色づいていく雲海を陶然と眺めていると、傍目からはただうわの空のアホ親爺にしか見えないだろうねぇ。
地質年代的な造山運動の果てに、なぜ今この瞬間こうして此処に僕が立っているのか、なんてしょうもない事を考えていても、周囲に悟られる心配もないから何とものんびりした気分に浸れるのだよ。

そんなとき、頭の中で静かに響き続ける曲がこれだったり。


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Arvo Pärt の My Heart is in the Highlands 。
Hilliard Ensemble の David James がカウンターテナーを歌っている。
他にもいろんな人が歌ってはいるけれど、敬虔な祈りに達しているこの演奏が僕には一番ピッタリ来る気がする。映像で紹介されている男性は、この曲を作った作曲家のArvo Pärtだ。
年をとっていくことと道を切り開いていくこと儚い一生になしえることなど、ほんわか考えさせてくれて、お気に入りの映像なの。




Pärt の静謐さは、この完璧な静寂の中で一層引き立つようにも思えるのだよ。

歌詩はバーンズによるもの。1789年に作られたんだねぇ。
ロバート・バーンズはスコットランドの詩人で、彼の詩によるスコットランド民謡は、わりと馴染みなはず。
日本でもAuld Lang Syneは「蛍の光」として、Comin Thro’ The Ryeは「故郷の空」として歌われている。
ちなみに今年は彼の生誕250周年なんだよね。




僕は高原の端に立って、これを口ずさみながら歩いていたんだけれど、詩に出てくる Highlands ってのはスコットランドのハイランド地方のことで、僕みたいに単純に「高原が好き~!」ってな話しではないのね。
ちなみに、ハイランド地方の風景はこんな感じ
Pärt にかかると、「我が魂はいと高きところに」なんて具合に聞こえてくるから、何ともステキだ。


歌詞を引用してみようかしらん。





My Heart's In The Highlands (1789)

My heart's in the Highlands, my heart is not here,
My heart's in the Highlands, a-chasing the deer;
Chasing the wild-deer, and following the roe,
My heart's in the Highlands, wherever I go.
Farewell to the Highlands, farewell to the North,
The birth-place of Valour, the country of Worth;
Wherever I wander, wherever I rove,
The hills of the Highlands for ever I love.

Farewell to the mountains, high-cover'd with snow,
Farewell to the straths and green vallies below;
Farewell to the forests and wild-hanging woods,
Farewell to the torrents and loud-pouring floods.
My heart's in the Highlands, my heart is not here,
My heart's in the Highlands, a-chasing the deer;
Chasing the wild-deer, and following the roe,
My heart's in the Highlands, wherever I go.

我が心はハイランドにあり
我が心はハイランドにあり,我が心は此処にあらず。
我が心はハイランドにありて鹿を追う。
野の鹿を追いつつ,牡鹿に従いつつ,
我が心はハイランドにあり,我何処へ行くも。
いざさらばハイランドよ,いざさらば北の国よ。
剛勇の生地よ,価値ある者の国よ。
我何処を彷徨うも,我何処を漂泊うも,
ハイランドの山を我永遠に愛す。

いざさらば山々よ,高く雪におおわれたる。
いざさらば大豁よ,また下なる緑の谷よ。
いざさらば林よ,また生い茂れる森よ。
いざさらば急流よ,どうどうと流るる川よ。
我が心はハイランドにあり,我が心は此処にあらず。
我が心はハイランドにありて鹿を追う。
野の鹿を追いつつ,牡鹿に従いつつ,
我が心はハイランドにあり,我何処へ行くも。

 中村為治訳「バーンズ詩集」(岩波文庫)より




上のリンク先には「スコットランドをこよなく愛したバーンズは,詩にスコットランド方言を積極的に用い」ているなんてことも紹介されてるんだけれど、どの辺がスコットランド訛りなのかまたまた調べてみたら、この詩の場合は最後の方の1行にあったんですねぇ。

Burns Original
Farewell to the straths and green valleys below,

Standard English Translation
Farewell to the broad valleys and green valleys below,

「straths」はエキサイトの翻訳で調べると、ちゃんと「広い谷」として訳されてくる。

ところで、スコットランド方言ってのは?
ゲール語だとかなり違うんだろうから、英語に似ているというゲルマン語系のScots語「スコッツ語」なのかしらん?
ゲール語の線が全く消えたわけでもないのだけれど、webだけで調べるのはやっぱり限界があるねぇ。
同じサイトからこんな記述も見つけたし。
ちょっと抜粋

**************
スコットランドゲール語は言語としてアイルランド語に酷似するが文法、用法、単語のいずれにも違いがある。ポルトガル語とスペイン語と同じように区別される。 スコットランドゲール語は大きく二つの地域(北ハイランド地方、西ハイランド地方)の方言に分類できるが、各地方の中で場所によって言葉や発音の違いがたくさんある。違いはあっても、日常のコミュニケーションにおいては、全く問題がない。なぜかというと、50年代にゲール語のラジオ放送、70年代にテレビ放送が全国放送となったので、ゲール語が広く理解されるようになったからだ。
**************

つまり比較的最近まで、ハイランド地方でも言語弾圧が行われていたのね。日本でも北海道や沖縄でその手のことは行われてきてたわけだし、よその話しってな気分にはなれないねぇ。




チョイと昔の話し、2丁目の今はない行きつけのバーで、ちょっとしたもめ事に巻き込まれたと事があったっけ。

そこのダブルマスターの一人はカナダ人なんだけど、ある時、当時僕が付き合ってた相手がイギリス人の友人ってのを連れてきたことがあったのよ。前もってのカレシからの紹介では、そのイギリス人の友人はとてもグローバルな考えの持ち主で非常に公正な判断を常に下せるってなね。
が、初対面でいきなりこんな事を言い出した。

「おまえはスコットランド人だろう?」
僕もマスターも、彼が何を言い出したのかとまどった。
で、マスターが「私は、カナダ人ですけど....」
と、さらにそのイギリス人は、
「いや、おまえはスコットランド人のはずだ、隠してもわかる!」
......なんて押し問答がしばらく続いて、みんなで「まあまあまあ」って割って入って何となく一段落させちゃったんだけどね。

こんな地球の裏側まで来て、なんなのあの人?って思ったのさ。
確執の根深さがうかがい知れて、ちょっとうんざりだったんだけど。
何が公正な判断だよ、とか思ったしね。
┐('~`;)┌




ハイランド地方の事をもう少し調べてみると、もう少しだけ「My Heart's In The Highlands」の詩の意味が飲み込めるような気がしてくる。
詩の背景を知るのって、やっぱ大事なのかもねぇ....じゃないと、上っ面の美しさだけで満足しちゃうかもだから。

またまたちょっとだけ、今度はここから抜粋

**************
ゲールの「中心地」は西方へと後退し、ゲール語を母国語としていたコミュニティでも最初に東部の人々が、次に中央ハイランドの人々がゲール語を放棄するようになりました。また19世紀中期にアイルランドでじゃがいも飢饉が起こり、コレラが蔓延したため、ハイランド地方の人口はさらに減少することとなりました。当時進められていたハイランド放逐は多数の人々に飢餓や死を招きました。また第二次ハイランド放逐では、家族は自主的に移住。さもなければ強制退去の措置が取られました。子供達や老人が数多く亡くなりました。
**************

......あぁ、こんな話しをするつもりじゃなかったんだけど。
A(^_^;


「音楽には、ただそれ自身のみを表現する機会を与えなければならない。
言葉が現れてくると、たちまち音楽の豊かさを貶めてしまう。」
http://sekihi.net/stone/8360.htm">アルヴォ・ペルト

気を取り直して、最後に、その美しさにいつの間にか放心してしまう、こんな音楽と映像に浸ることにしようかしらん。

My heart's in the Highlands, my heart is not here
そうよアタシはいつもうわの空


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