「記憶違い」というのは、ときどきホントに奇妙な振る舞いをする。
たとえば、今日のタイトル。
なぜだか僕はとっても長いこと「なだいなだ」を「必要な、そして必要な」という意味だと勘違いして生きてきた。しかもそれをロシア語だと思いこんでいた。
大学の頃、彼の「レトルト」という小説を読み、心理学と比較して、科学と小説のあり方の違いに感心したものだった。
つまり、科学は1行への凝縮に向かい、小説はその1行がどのようなバリエーションを産むかを見せてくれる。
言い換えれば、科学は1行の法則を見いだすために、その他を夾雑物としてそぎ落とすが、小説は、もっぱらその1行をいかに生きるかというものだという風に、僕は捉えたのだった。
音楽で言うなら、例えば対位法や和声楽と実際の作品との関係かな。
もっとも、それは往々にして見当違いを導いたりもする。
ドビュッシーの「遊戯」についてある評論家が13の和音(ドミソシレファラ=音階のすべての音を3度間隔で積み重ねている)を多用しているとかなんとか指摘したことについて、ドビュッシーは、そう言うお勉強をされることは感心だけれど、私がしたかったことはそう言うことではないから、と答えてたりする。
そりゃそうだ。
外から眺めてわかる構造がすべてじゃないのよね。
もちろん、その「レトルト」に関する僕の関心の仕方も、全くあらぬところを見てるんだから、お話しにならないと言えばそれまで。
どんどん話しがずれていく。
で、「
なだいなだ」はペンネームで、スペイン語の "nada y nada" ナニモナイ ト ナニモナイの意味。
全然違うじゃん。
ぼくはその「必要な、そして必要な」を、ラジオの対談だかで聞いたような記憶もあるし、なだいなだ氏が「自分の名前は良くとんでもない誤植をされて....いやだいやだ....なんてのもあるんですよ。」ってなことを何かに書いていたその中で読んだのかも知れないなんて、まあ、結局のところ記憶違いなんですけどね。
言ってみれば、人はその時々に読み取りたいことだけを読み取っていく、とまぁ、そんな風に開き直ってしまうと、作り手と読み手の間には深い川が流れているってな事を意識しなきゃぁいけないのかもねって思ったり。
もっとも、僕自身も、このブログで何かを伝えたいなんてな情熱を持ってる訳じゃないので、あんまり変な誤解さえ受けなければ、楽しく曲解される分にはどうとられても良いじゃんみたいなところがある。
何度も書いてきたけど、ここに書けないことの方がホントに面白いネタだし、肝心なことは常に書かれていないのだってコトネ。
で、そう言う面白いネタにぶち当たりたいと思うんなら、ネットなんか見てないで、例えば2丁目を泳いでみなさいよっ!と言いたい。
「おいらのこと、わかってホシイ」とか、そんなこっぱずかしい事。キモイわ
日常をシャッフルして、迷路の中で迷う楽しさ、そんなのが好きなのよね。
だから、決して日記じゃなくってネタ帳なんだってば!と言い張りたい。
少なくとも、僕にとっては相互理解のツールではない。
言うなれば、相互誤解のツールとか、相互曲解のツール。
いや、ブログが双方向性に乏しいから、僕は一方向的に曲解されることになる。
楽しいね。
正直言うと、途中で読むのが面倒になることを望んでいたりもする。
そして、その試練を乗り越えたとしても、その先にシャングリラへのドアがある訳でもないのよね。
99パーセント絶望的な状況でも、希望を失わないのがオプティミストだ
ホイジンガ
なんて言って、僕の場合、実はただの無責任なだけなんだけどさ。
それでも読みに来る人がいるってのは、ありがたいことなんでしょうね。
さてと、妙な自己矛盾に陥ったところで、本題に入ろう。>ぼか!
リチャード・バックの本に「イリュージョン」ってのがあるんだけど。
そう、あの「カモメのジョナサン」書いた人の本。
とか言っても、もう憶えてる人も少ないんだろうね。
映画にもなったけど、やっぱり見てないのよ。
なので、またまた映画の話しではないの。
その、僕の大好きな「イリュージョン」って本の中に、こんな下りがあったと思うのだ。
「知りたいことがあったら、新聞でも何でも良い、適当に開いてごらん。そこに答えが書いてあるから。」
と言うような話し。
これを読んだとき、へぇ~、おなじ事を感じてる人がいるんだねぇって思ったものだった。
実感として感じたことある人って、結構多いんじゃないかなぁ?
真剣に答えを探してる時って、何でもヒントになるきっかけを持ってるのかも知れない。
あるいは、人間って、しょせん自分が読みたいようにしか、ものを読み取れないって事かも知れないのだけれど。
それはそれで、まぁ、便利なような、不便なような。
ふはははは
もうちょっと夢のある言い方をするなら、こんな感じかな。
♪カ~テンを開いて 静かな木洩れ陽の
やさしさに 包まれたなら きっと
目にうつる すべての事は メッセ~ジ~♪
やさしさに包まれたなら
荒井由美
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/6e/f7580f79340fb3f1364c75e554c56c50.jpg)
小坪の夏が懐かしい
競パンは、もってないのよ。
必要なものって、さんざんムキになって探してるときにはなかなか見つからなかったりするけど、ある時ひょっこりとやっこさんの方からやってくる事って良くあるでしょ?
先月、それが起こった。
あ、これだ!と思って、さっそく注文したのだ。
ネイティブ・タイム
北山耕平
実はこれ、おそらく今まで何度も素通りしてたもの。
なぜか目に留まらなかったんだよね。
そう言う点では、機が熟したというか、自分の方にやっと受け入れ態勢が整ったというか、そんな感じなんだろうね。
数日後に届いて、さっそくむさぼるように読んでいる。
それはもう、今の僕には、音楽のように美しい、静かな悲しみと力をたたえた言葉の連なりのように感じられるのよね。
不思議。
届いた箱を開けてビックリした。
なんて分厚い本。
僕は歴史なんて全く興味のない人間だったのに、こんな分厚い本、読めるのかしら?
計ったら、厚さ4.5cmもある。
日本人のチンコの平均的太さと同じじゃないのさ。>ぼかっ!何サバ読んでるのよっ?
もっとも、仕事に追われてるので、5mm読んだところで、いったん本を閉じた。
最初見たときの懸念はどこへやら。
すいすい読み進めてしまう。
思えば、学校の授業でやってる、ああいう進め方がなじめなかったってのもあるんだろうね。
国語の授業の時だって、関係ないページを拾い読みしてるときが一番楽しかったなぁ。
喉のかわいていない馬を水辺に連れて行くことは出来るが、無理矢理水を飲ませることは出来ない。
そう、ノドがかわいていたのだね。
ネイティブ・タイム
北山耕平
「自分たちが誰だったかを思い出すこと 前書きにかえて」から抜粋
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前略
地球上に存在するネイティブ・ピープルにとって伝統的な「足ることを知る生き方」「ものを持たないために富を放棄する考え方」が主流だった時代には、今のわたしたちのような「足らないことにたいする不安によってドライブされる生き方」「現実以外に崇高なものを求める世界観」はあくまでも「対抗文化」として存在するだけで、それがメインストリームになることは数万年近くなかったと思われる。しかしこの相対する二つの生き方は、さながら陰と陽の関係のように、おそらく人間の歴史のはじめからあり、両者は写し鏡のように危ないバランスをとりつづけてきた。なぜなら誰もが最初は地球のネイティブだったからだ。
中略
わたしたちは日本人になる前は「日本列島の人間」として自由であり、解放されていて、スピリットとともに生きていた。草や、樹や、石や、空を流れる雲の話す声を間くこともできた。母なる大地をおとしめることもなく、自然には神秘的な力が存在することを知っていた。今、アメリカのネイティブたちが、アメリカ人になることによって何か大切なものを失いつつあるように、わたしたちは、日本人になることによって ‐‐―‐良い日本人であることに一生懸命のあまり‐‐―‐ 決定的に何かを失ってしまった。わたしたちの精神が母なる日本列島の根っこから切り離されてしまったのだ。わたしたちは母親を喪失したかに見える。神話は奪われ、改ざんされ、気がついたときには父なる太陽が母親だと教育されていた。わたしたちはひっくり返った世界を正しいものとして教育されて育った。
母なる大地にたいする尊敬を失ってアルコール漬けになっているネイティブ・ピープルほど、地球上で哀しいものはない。差別をたくみに操る征服者たちにより、物理的に、経済的に、また精神的に奴隷のような暮らしをあまりにも長期にわたって強いられてきたために、いつしか生きることにプライドも見つけられず、年寄りも、子どもも、女性も、自然も、生も、死すらも、そうしたものをすべて敬い大切にすることもなくなってしまった。かつてわたしたちは「最初の生き方を知る」人間として、人間は人間以外のあらゆるものと調和を保っていかなくてはならないということを知り、すべての生命を敬いつつ地球で生きていたのに、今は、そこから最も遠いところにいる。
みんなもうすうす気がついていると思うが、日本列島の自然は沈黙しつつある。その声を間く者たちはいったいどこにいるのだろうか? ファッションのようにネイティブ・ピープルの文化やシャーマニズムやアニミズム的なライフスタイルを取り入れて、意味のない空虚な言葉で自分を飾りたてるのではなく、それを生きることをはじめなくてはならない。誰かの力に頼ることもなく、自らが自らの意思で、自分の精神と大地とを結びつける作業にとりかからなくてはならない。
そのための第一歩が、わたしかちから取り上げられて久しく、学校教育においても完全に無視され続けてきた、もうひとつの歴史を学びなおすことにほかならない。彼らの歴史を学ぶのではなく、わわわわの歴史を取り返さなくてはならない。歴史はもともと無数のピースからなるジグソーバズルみたいなもので、そのピースを選ぶ人によって、そこに描き出される絵も当然ながら異なる。学校で教わる歴史はわたしたちを日本列島から切り離して「日本人」に改造してしまうためのものでしかない。わたしは日本列島とその周辺部における先住民の歴史や、先住民的な生き方をしてきた人たちの歴史や、先住民であるがために差別されてきた人たちの歴史と、自然の歴史の中から、捨てられかけていた無数のピースを拾い集め、もうひとつの絵を描く作業をこれまで続けてきた。そしてようやくおぼろげながら一枚の大きな絵が見えるかもしれないというところにたちいたった。
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人ごとではないよねぇ。
それはさておき、こんなのを読んで、ご先祖様が住んでいたなんて言う厳島をさまよい歩くのは、なかなか素敵な経験だったのよ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/71/6f3275193efb13ab6096dd462ce84e76.jpg)
ふぅ、さすがに長かったね。
お疲れです。