くまえもんのネタ帳2

放置してたのをこちらに引っ越ししてみました。

風六尺浜辺之徒花

2006-02-26 20:06:54 | ノンジャンル

新宿御苑なんかの温室に咲いているモクセンナって言うマメ科カワラケツメイ属の木の花です。
マメの仲間の花って言うと、普通はこんなウメの花みたいな格好じゃなくて左右対称のエンドウの花を想像しますよね。


こういう、左右対称の花って言うのは、花粉を遠くまで運んでくれるハチみたいな昆虫だけが蜜を吸えるようにって進化して出来た物で、比較的あとから地球上に現れたんだそうですね。
だから、古いタイプのマメ科植物が多く残っている熱帯地方では、こういう左右対称の花よりもウメの花みたいに咲く(放射相称花)モクセンナタイプの方が多いんだそうです。

ま、そんな事はどうでも良いんですが、このモクセンナ、実は思わぬ効用があってもてはやされてるんだそうです。
そう、肥満防止。
なんでも、食事で取り込まれた脂肪分の消化吸収に関与するリパーゼの働きを阻害する成分が入ってるそうで、おかげでカロリーの高い脂分たっぷりの食べ物を食べても、太りにくくなるという代物。
美食趣味の方には朗報です。

ところで、おなじカワラケツメイ属の植物に、エビスグサっていうのがあります。
別名はケツメイ(決明)で、種はハブ茶として利用され一昔前までは家庭の常備薬的地位にありました。

このハブ茶、子供の頃ばあちゃんの付き合いで、何だかよく呑まされた覚えがありますよ。
眼球の内部・外部の炎症に使用します。高血圧症の頭痛、便秘にも用いられるんだそうだけど、きっと整腸、便秘、腹部膨満感を防ぐために飲んでたんだと思います。
子供の頃、実家近くの畑なんかにもたくさんエビスグサが植えられていて、黄色い可愛い花を着けてましたねぇ。
懐かしいわぁ...........


って、もうばれちゃったかな?
その種子はケツメイシ(決明子)と呼ばれ、何だか最近若いこの間でも人気があるんだとか?
とは言っても、ハブ茶ファンが増えたって話しじゃないようですね。



シリアナが続いた後は、やっぱりこれ!
それにしても、とんでもないタイトル。
とてもじゃないけど、お店に行って「ケツの穴中級編ください!」なんて言えません。

もっとも、僕らの世代はタイガーマスクで育ってるから、虎の穴とかもじってるんだろうなぁって、そりゃ少しは懐かしさもあるんだけどさ。
それでもやっぱり、小心者のホモにとっては「シリアナ」とか「ケツの穴」なんて、人前では恥ずかしくて言えないものなのよね。

むむむ?ひょっとしてこれって、ノンケのセクハラっ?
きい、くやしいっっ!!

ま、それはともかく、なんでまた若い子がケツメイシだなんて婆くさい名前を着けたんかしらんって思ったらさぁ、4人中2人は薬科大学出身で薬剤師の免許を持ってて、うち1人は現役の薬剤師として今もなお週5で活躍中なんだって?
知らなかったわぁ。


ふぅ、前置きが長くなった。
せっかくの2万ヒットってなわけで、ご多分に漏れず記念画像とか何とか。
去年の夏、クマッチョさんに、米津浜で写真を撮ってもらったりなんかしたんで、それを何枚か載せようかなと思うのよね。

だから、見たくない人はここでバイバイね。
ぐひひひひ



山三昧の後で、野良焼けを解消しようと出掛けたんですが、薄曇りで結局焼けませんでしたの。
ランニングの痕が、悲しいです。


一昨年の誕生日前後にひょんなきっかけで六尺をもらって以来、何とか締められるようにはなったんですが、そこはほれ、初心者。
他人様の六尺姿を見るのは好きなんですが、自分でとなるとめっぽう手際が悪い。


浜風で六尺がはためき、うまく締められません。
どうしても端っこがつかまらない。
気分は
「Oh! モウレツ!」
って、これ知ってるのは50歳代以上かしらね、やっぱり。


ところが、何だかうまく締められない。
ゴソゴソほどいて、再チャレンジ。
んもぅ、かっこ悪いったらありゃしない。

教訓、初心者は風の強い浜辺で締めないこと。>そう言う問題じゃないのだがね



なんかまだ変で落ち着かないんだけど、まぁ、僕なんかが少しばかし妙な締め方してたところで、誰も気にしないから良しとしましょう。


ちょちょいと直してもらって、記念に1枚。
これで日焼けできれば最高だったんだけど、六尺焼けで風呂に行く気概もないので、これで良かったのかもね。

2005年7月17日 15:43 初めての米津浜、六尺体験でした。


しりあなのふしぎ

2006-02-23 03:01:03 | ノンジャンル
SYRIANA(シリアナ)ってのは、イラン、イラク、シリアの三国がひとつの 民族国家になるという事態を想定した架空の国のコードネーム。実現すれば、その領土は古代 ペルシャ帝国に匹敵するという。CIAで使われている、中東再建プロジェクトを指す専門用語なのだそうだ。

ところで、これをSIRIANAでググッてみた人がいた。
すごい結果だったというので、さっそく僕も試してみた。

うぉ~っ、すごいっ!
Bandiera siriana - Wikipedia
Bandiera siriana=シリアナの旗がでてきたよ。


って思ったら、なぁんだ古いシリアの旗だったのね。
はやとちり。
Vecchia bandiera siriana (1946-58, 1961-63)
= Old Syrian flag


La bandiera della Siria e` stata adottata nel 1980.
= The flag of Syria be adopted in 1980.

イタリア語なんて良くわかんないから、ここで英語に訳してもらうのよね。
http://freetranslation.paralink.com/

ま、それは良いとしてぇ~、SIRIANAとSYRIANAは、どういう関係なのよ?
で、調べてみると、英語圏ではSYRIANA、ラテン語圏ではSIRIANAってなわけなのね。
つまりSIRIANAは、ローマ字表記って事。

ふ~ん、ローマ字なのかぁ~。
って事はさぁ.......。


http://www.google.co.jp/で検索するとき
「ウェブ全体から検索」じゃなくて「日本語のページを検索」でやってみるとどうなるんかしらん?

「SIRIANA」えいっ!

「まぁ。なんということでしょう!」>ビフォーアフター風に
そこには全く違った世界が開けているのでありました。


.........それにしても、ノンケってのも結構ケツ使うのねぇ。
快楽のためのあくなき探求ってやつなのかしらん?
ショウガつっこんだりフリスクつっこんだり、はてやバイブだの指だのシャワカンだの。
あきれるほどに、あっけらかんとやってるねぇ。
僕たちホモの方がよっぽど地味なんでないかい?
もっとも、ホモでも、ケツを使えないことが男としての最後の砦みたいに構えちゃってる、そんな子いるよね。
そういう子ってそれだけが根拠で、自分はタチだなんてとんちきなこと考えてたりするのよね。
ケツの使えないウケだってべつにいいじゃん。
あ、無駄に喧嘩うっちまったい。
僕なりに考えてるタチの定義はね、相手を喜ばすことを自分の無上の喜びとすること、なのよ。
これについては、またそのうち書こうかなと。

まぁ、どうでも良いことなんだけど、どっちも使えた方がお得なような気もするんだよね。
そう。ケツも感じるってのは、ただ単に男のオプション機能ってことですよね。
なにも恥ずかしがることはない。
もっと、ノンケ諸君を見習わないといけないのかもしんないですなぁ。
ふひひひひ。

P.S.
今、ふと思いついて、「シリア」&「国旗」でググッてみた。
そしたら、★2つのシリアの国旗が出てたよ。
なんかさぁ、すっごく無駄な遠回りをした感じ。
物を知らないとこういうアホらしい苦労が絶えませんわ。
とほほのほ

レバノン内戦については、ここを参考に。
pax siriana、シリアナのパックではなくて、シリアによる平和とかについて、だいたいのことが読めますね。

ついでに、映画シリアナについて面白いコメントを見つけたので紹介しておこうかな。
以下抜粋
~~~~~~~~~~~~~~~~
アメリカの国益を守ると称して張り巡らされた非情な陰謀の存在は明白に描かれている。しかもその是非は、最後の主人公の行動が明らかにしているという作品だ。
因に題名のSyrianaとは、ワシントンのシンクタンクなどで「中東再建のための仮説」という意味合いで実際に使われていた用語だそうだ。
しかしこの言葉は、Siria→Syrian→Sirianaと語尾変化したものと考えられるもので、その言葉で考えるとこの用語は、「シリア化する」というような意味にも取れる。ところが実際は、シリアという国は親米の国ではない。
従ってこの言葉が使われる理由も判然とはしないものだが、ただし最近になって、シリアの反米の指導者的存在だった人物が、突然執務室で自殺したというような報道を見ると、かなり深い意味合いを感じるのは僕だけではないだろう。
なお、本作はシリアを舞台にしたものではなく、劇中シリアという国名は出てこなかったと思われる。
また本作は、アメリカでは12月第1週に全米6館だけの限定公開で封切られたが、その興行成績が1館当り11万ドル以上という驚異的な数字となったもので、アメリカ人の関心の高さも伺わせたものだ。
~~~~~~~~~~~~~~~~
現実の方が、遙かにミステリアスと言うことですかね。
ついでに、ろ~ま文書ってのを検索してみたけど、これはさすがに肝心なのは出てこなかったね。
くわばらくわばら。

20000ヒット記念はシリアナ

2006-02-21 14:11:25 | ノンジャンル
なんちて。
見たかぁないでしょう。
でも、見て欲しいなぁ。
がはは。


でもね、僕は見たいなぁって思ってるのよ。
しかしまぁ、まさかカタカナ書きで上映されるとは予想してませんでしたわ、このタイトル。
もちろん、漢字でなんて事はあり得ないんですけどね。
どんな字よ?>ぼかっ!

でも、あ~た、公衆の面前で言える?
「ねぇ、何が見たい?」
「ん~、シリアナかなぁ。シリアナ、シリアナ!!」
「え?.......しりあな?.....だれの?」
「ジョージ・クルーニーのシリアナが、ものすご~く見たい!」
あたしにこんな事言わせるなんて、羞恥プレーよねぇきっと。
あ~ん、でも、ジョージ・クルーニーのシリアナ、見たぁ~い!
モジャモジャなんだろうなぁ。
ドキドキ!

せめて、SYRIANAにして欲しかったような。
どう思います?
ひひひ

静止画像は、こちらで堪能できます。

もちろん、僕のシリアナ画像はありません。
これからもよろしくね。
かしこ

必要な、そして必要な

2006-02-18 17:06:29 | ノンジャンル
「記憶違い」というのは、ときどきホントに奇妙な振る舞いをする。
たとえば、今日のタイトル。




なぜだか僕はとっても長いこと「なだいなだ」を「必要な、そして必要な」という意味だと勘違いして生きてきた。しかもそれをロシア語だと思いこんでいた。
大学の頃、彼の「レトルト」という小説を読み、心理学と比較して、科学と小説のあり方の違いに感心したものだった。

つまり、科学は1行への凝縮に向かい、小説はその1行がどのようなバリエーションを産むかを見せてくれる。
言い換えれば、科学は1行の法則を見いだすために、その他を夾雑物としてそぎ落とすが、小説は、もっぱらその1行をいかに生きるかというものだという風に、僕は捉えたのだった。
音楽で言うなら、例えば対位法や和声楽と実際の作品との関係かな。

もっとも、それは往々にして見当違いを導いたりもする。

ドビュッシーの「遊戯」についてある評論家が13の和音(ドミソシレファラ=音階のすべての音を3度間隔で積み重ねている)を多用しているとかなんとか指摘したことについて、ドビュッシーは、そう言うお勉強をされることは感心だけれど、私がしたかったことはそう言うことではないから、と答えてたりする。
そりゃそうだ。
外から眺めてわかる構造がすべてじゃないのよね。

もちろん、その「レトルト」に関する僕の関心の仕方も、全くあらぬところを見てるんだから、お話しにならないと言えばそれまで。
どんどん話しがずれていく。

で、「なだいなだ」はペンネームで、スペイン語の "nada y nada" ナニモナイ ト ナニモナイの意味。
全然違うじゃん。
ぼくはその「必要な、そして必要な」を、ラジオの対談だかで聞いたような記憶もあるし、なだいなだ氏が「自分の名前は良くとんでもない誤植をされて....いやだいやだ....なんてのもあるんですよ。」ってなことを何かに書いていたその中で読んだのかも知れないなんて、まあ、結局のところ記憶違いなんですけどね。

言ってみれば、人はその時々に読み取りたいことだけを読み取っていく、とまぁ、そんな風に開き直ってしまうと、作り手と読み手の間には深い川が流れているってな事を意識しなきゃぁいけないのかもねって思ったり。

もっとも、僕自身も、このブログで何かを伝えたいなんてな情熱を持ってる訳じゃないので、あんまり変な誤解さえ受けなければ、楽しく曲解される分にはどうとられても良いじゃんみたいなところがある。
何度も書いてきたけど、ここに書けないことの方がホントに面白いネタだし、肝心なことは常に書かれていないのだってコトネ。
で、そう言う面白いネタにぶち当たりたいと思うんなら、ネットなんか見てないで、例えば2丁目を泳いでみなさいよっ!と言いたい。

「おいらのこと、わかってホシイ」とか、そんなこっぱずかしい事。キモイわ
日常をシャッフルして、迷路の中で迷う楽しさ、そんなのが好きなのよね。
だから、決して日記じゃなくってネタ帳なんだってば!と言い張りたい。
少なくとも、僕にとっては相互理解のツールではない。
言うなれば、相互誤解のツールとか、相互曲解のツール。
いや、ブログが双方向性に乏しいから、僕は一方向的に曲解されることになる。
楽しいね。

正直言うと、途中で読むのが面倒になることを望んでいたりもする。
そして、その試練を乗り越えたとしても、その先にシャングリラへのドアがある訳でもないのよね。

99パーセント絶望的な状況でも、希望を失わないのがオプティミストだ
                  ホイジンガ

なんて言って、僕の場合、実はただの無責任なだけなんだけどさ。
それでも読みに来る人がいるってのは、ありがたいことなんでしょうね。
さてと、妙な自己矛盾に陥ったところで、本題に入ろう。>ぼか!


リチャード・バックの本に「イリュージョン」ってのがあるんだけど。

そう、あの「カモメのジョナサン」書いた人の本。
とか言っても、もう憶えてる人も少ないんだろうね。
映画にもなったけど、やっぱり見てないのよ。
なので、またまた映画の話しではないの。

その、僕の大好きな「イリュージョン」って本の中に、こんな下りがあったと思うのだ。
「知りたいことがあったら、新聞でも何でも良い、適当に開いてごらん。そこに答えが書いてあるから。」
と言うような話し。
これを読んだとき、へぇ~、おなじ事を感じてる人がいるんだねぇって思ったものだった。
実感として感じたことある人って、結構多いんじゃないかなぁ?
真剣に答えを探してる時って、何でもヒントになるきっかけを持ってるのかも知れない。
あるいは、人間って、しょせん自分が読みたいようにしか、ものを読み取れないって事かも知れないのだけれど。
それはそれで、まぁ、便利なような、不便なような。
ふはははは

もうちょっと夢のある言い方をするなら、こんな感じかな。

 ♪カ~テンを開いて 静かな木洩れ陽の
 やさしさに 包まれたなら きっと
 目にうつる すべての事は メッセ~ジ~♪

 やさしさに包まれたなら
 荒井由美


小坪の夏が懐かしい
競パンは、もってないのよ。


必要なものって、さんざんムキになって探してるときにはなかなか見つからなかったりするけど、ある時ひょっこりとやっこさんの方からやってくる事って良くあるでしょ?
先月、それが起こった。
あ、これだ!と思って、さっそく注文したのだ。

ネイティブ・タイム
       北山耕平

実はこれ、おそらく今まで何度も素通りしてたもの。
なぜか目に留まらなかったんだよね。
そう言う点では、機が熟したというか、自分の方にやっと受け入れ態勢が整ったというか、そんな感じなんだろうね。
数日後に届いて、さっそくむさぼるように読んでいる。
それはもう、今の僕には、音楽のように美しい、静かな悲しみと力をたたえた言葉の連なりのように感じられるのよね。
不思議。

届いた箱を開けてビックリした。
なんて分厚い本。
僕は歴史なんて全く興味のない人間だったのに、こんな分厚い本、読めるのかしら?
計ったら、厚さ4.5cmもある。
日本人のチンコの平均的太さと同じじゃないのさ。>ぼかっ!何サバ読んでるのよっ?
もっとも、仕事に追われてるので、5mm読んだところで、いったん本を閉じた。
最初見たときの懸念はどこへやら。
すいすい読み進めてしまう。

思えば、学校の授業でやってる、ああいう進め方がなじめなかったってのもあるんだろうね。
国語の授業の時だって、関係ないページを拾い読みしてるときが一番楽しかったなぁ。

喉のかわいていない馬を水辺に連れて行くことは出来るが、無理矢理水を飲ませることは出来ない。

そう、ノドがかわいていたのだね。



ネイティブ・タイム
北山耕平
「自分たちが誰だったかを思い出すこと 前書きにかえて」から抜粋
~~~~~~~~~~~~~~~
前略

 地球上に存在するネイティブ・ピープルにとって伝統的な「足ることを知る生き方」「ものを持たないために富を放棄する考え方」が主流だった時代には、今のわたしたちのような「足らないことにたいする不安によってドライブされる生き方」「現実以外に崇高なものを求める世界観」はあくまでも「対抗文化」として存在するだけで、それがメインストリームになることは数万年近くなかったと思われる。しかしこの相対する二つの生き方は、さながら陰と陽の関係のように、おそらく人間の歴史のはじめからあり、両者は写し鏡のように危ないバランスをとりつづけてきた。なぜなら誰もが最初は地球のネイティブだったからだ。

中略

 わたしたちは日本人になる前は「日本列島の人間」として自由であり、解放されていて、スピリットとともに生きていた。草や、樹や、石や、空を流れる雲の話す声を間くこともできた。母なる大地をおとしめることもなく、自然には神秘的な力が存在することを知っていた。今、アメリカのネイティブたちが、アメリカ人になることによって何か大切なものを失いつつあるように、わたしたちは、日本人になることによって ‐‐―‐良い日本人であることに一生懸命のあまり‐‐―‐ 決定的に何かを失ってしまった。わたしたちの精神が母なる日本列島の根っこから切り離されてしまったのだ。わたしたちは母親を喪失したかに見える。神話は奪われ、改ざんされ、気がついたときには父なる太陽が母親だと教育されていた。わたしたちはひっくり返った世界を正しいものとして教育されて育った。

 母なる大地にたいする尊敬を失ってアルコール漬けになっているネイティブ・ピープルほど、地球上で哀しいものはない。差別をたくみに操る征服者たちにより、物理的に、経済的に、また精神的に奴隷のような暮らしをあまりにも長期にわたって強いられてきたために、いつしか生きることにプライドも見つけられず、年寄りも、子どもも、女性も、自然も、生も、死すらも、そうしたものをすべて敬い大切にすることもなくなってしまった。かつてわたしたちは「最初の生き方を知る」人間として、人間は人間以外のあらゆるものと調和を保っていかなくてはならないということを知り、すべての生命を敬いつつ地球で生きていたのに、今は、そこから最も遠いところにいる。

 みんなもうすうす気がついていると思うが、日本列島の自然は沈黙しつつある。その声を間く者たちはいったいどこにいるのだろうか? ファッションのようにネイティブ・ピープルの文化やシャーマニズムやアニミズム的なライフスタイルを取り入れて、意味のない空虚な言葉で自分を飾りたてるのではなく、それを生きることをはじめなくてはならない。誰かの力に頼ることもなく、自らが自らの意思で、自分の精神と大地とを結びつける作業にとりかからなくてはならない。

 そのための第一歩が、わたしかちから取り上げられて久しく、学校教育においても完全に無視され続けてきた、もうひとつの歴史を学びなおすことにほかならない。彼らの歴史を学ぶのではなく、わわわわの歴史を取り返さなくてはならない。歴史はもともと無数のピースからなるジグソーバズルみたいなもので、そのピースを選ぶ人によって、そこに描き出される絵も当然ながら異なる。学校で教わる歴史はわたしたちを日本列島から切り離して「日本人」に改造してしまうためのものでしかない。わたしは日本列島とその周辺部における先住民の歴史や、先住民的な生き方をしてきた人たちの歴史や、先住民であるがために差別されてきた人たちの歴史と、自然の歴史の中から、捨てられかけていた無数のピースを拾い集め、もうひとつの絵を描く作業をこれまで続けてきた。そしてようやくおぼろげながら一枚の大きな絵が見えるかもしれないというところにたちいたった。
~~~~~~~~~~~~~~

人ごとではないよねぇ。
それはさておき、こんなのを読んで、ご先祖様が住んでいたなんて言う厳島をさまよい歩くのは、なかなか素敵な経験だったのよ。


ふぅ、さすがに長かったね。
お疲れです。


消息

2006-02-17 19:21:39 | ノンジャンル


 生命は
      吉野 弘

 生命は
 自分自身だけでは完結できないように
 つくられているらしい
 花も
 めしべとおしべが揃っているだけでは
 不充分で
 虫や風が訪れて
 めしべとおしべを仲立ちする


 生命は
 その中に欠如を抱き
 それを他者から満たしてもらうのだ
 世界は多分
 他者の総和
 しかし
 互いに
 欠如を満たすなどとは
 知りもせず
 知らされもせず
 ばらまかれている者同士
 無関心でいられる間柄
 ときに
 うとましく思うことさえも許されている間柄
 そのように
 世界がゆるやかに構成されているのは
 なぜ?


 花が咲いている
 すぐ近くまで
 虻の姿をした他者が
 光をまとって飛んできている


 私も あるとき
 誰かのための虻だったろう
 あなたも あるとき
 私のための風だったかもしれない



ふとしたことで、だいぶ昔に別れてしまった人の消息が知れた。




僕もかたくなだったし、彼も邪悪だったし。
僕は貧乏だし、彼は金持ちだし。
そしておそらく、僕も彼も子供だったのだ。
僕たちは言葉少なだった。
手探りで、互いを捜していたのだ。
自分たちの飛び出しているところとくぼんでいるところを探り合いながら、二人がぴったりと重なるパズルのピースになろうとしていた。
どうすれば、二人が隙間無く、一つの存在になれるのか?

そして、その答えは見つけられないまま、しばらくして僕たちは別れた。
そして、しばらくの間は友達で居たのだけれど、彼には新しい恋人が出来、そして相変わらずの彼の毒とその新しい恋人の毒気に辟易しながらおもしろがりながら、少しずつ遠ざかってしまった。

彼を邪険に扱った人たちに対する彼の絶妙な意地悪のやり口は、端から見ていてもなんだか容赦がないというか、猫が小動物をいたぶっているような無心ささえあって、こんな子とはとっても付き合いきれないと思わせるものがあった。
自分をきちんと受け止めてくれる人がいないことを悲しく思うあまり、棘のある言葉をぶつけてしまっていたんだと、今はそう思う。
しかしまぁ、あのじゃじゃ馬を乗りこなす男が、ホントにいつか現れるのかどうか......。
彼は、寂しかっただけなのだ。

別れてからも何年かの間、「愛が欲しい」なんて、電話がかかってきたりしたっけ。

いつだったか、久しぶりに電話をしてみたら、番号が変わっていた。
それ以来、もう何年も連絡を取っていない。
それでも、「愛が欲しい」と言い続けていた彼の消息は気になっていたのだ。
「愛が欲しい」と言うくせに、僕が差し出した精一杯の優しさをことごとく取り落としてしまう、そんな彼のことを。

僕はいったい、どうしてあげれば良かったんだろうか?

つい昨日も、何となく彼のことを思い出して、幸せにしてるんだろうかなんて思ったのだった。
幸せになってるんだったらいいなぁ、どうしてるんだか知りたいなぁ、なんてね。


前にも書いたけれど、願い事ってのは、かなってしまうものなのだ。
だから、願い事をするときは慎重にしなければいけない。
で、さっそく今日、偶然にも彼の消息を知ってしまったのだった。
この頃、なぜだかすぐかなうので、ちょっと困っている。
そんな状況の変化に、僕自身馴れることが出来ないで居る。

たまたまとある有名な一般向けのWebページを眺めていたら、彼の名前があった。
カタカナ書きだったけれど、すぐに彼とわかる特徴のある名前。
リンクを辿ってみる。
そして、そこにはやっぱり彼の写真があった。
以前より甘え上手になったような、そんな表情。
元気そうで何より。

彼の書いている記事は、なかなか人気があるらしい。
軽やかな言葉と華やかな香り、世界中を飛び回り美味しい物を食べ歩いている。
どうやら、幸せなようだ。

こんなに魅力的なおしゃべりをする人だったっけ?
読み進めながら、ふとそう思った。
僕は、彼の中の素敵なものを発見できないまま別れてしまったんだなぁと、そう思った。
そして、それはそれで良かったんだなぁともね。
彼をこんなに幸せにしている人ってどんな人なんだろう?

今は、彼の言葉が、僕を潤してくれる。
彼のサイトは、僕のお気に入りになった。