一夜明けて、昨日の記事を読み返してみると、実に初歩的なミスをやらかしたことに気がついた。
とほほ。
やっぱり、書いて一晩寝かせて、もう一度読み返すという作業は必須ですなぁ。
時間をおくことで、妙な思いこみの呪縛から、多少なりとも自由になってるからねぇ。
で、その、初歩的ミスとはこれ。
花園神社の紋は、裸麦ですね。
二条大麦も六条大麦も小麦も、ツブツブの先っちょに長く伸びたヒゲがあるのだけれど、この紋章の麦にはそれがない。
昨夜は、2列に並んだ籾に目を奪われて、その細い線のあるなしを見落としていた。
裸麦なら麦ごはんや味噌などに使われていて、他の大麦類と同様、日本での栽培には長い歴史がある。
ってなわけで、この紋章が明治以降に作られた可能性は、綺麗さっぱりと消えた。
はぁ~ん、すっきり。
でもね、実のところ、花園神社の歴史は全然すっきりではなく、今の名前に落ち着いたのはなんと昭和40年(1975)。
昭和40年っていうと、作家・戸川幸夫が沖縄・西表島で頭骨と毛皮を発見したヤマネコが新種と鑑定された。「イリオモテヤマネコ」と命名された年。
いや、もっとわかりの良い例を挙げよう。
ドリカムの吉田美和と漫画家のさくらももこが生まれた年。
網走番外地シリーズ第1作、メリー・ポピンズが公開された年。
ブルーフィルム、フィーリング、モーテルなんて言葉の流行った年。
そして、アメリカが北ベトナム爆撃を開始し、黒人運動指導者マルコムXが暗殺された年。
僕は11歳。
NHKに僕の田舎は「文明不毛の地」と名指しにされ、子供心にも「本当にそうだ!」と思った年。
「こんなくだらない街、いつかきっと出ていってやる!」と。
徳川家康の江戸開府(1603)以前、徳川氏が武蔵野国に入った1590年より前に、大和吉野山から勧請され、新宿の総鎮守として重要な位置を占めていたと言われる花園神社の歴史から見れば、ごく最近のことなのだ。
それに、神社の場所も移されている。
これは昨日もチョコッと書いたんだけど、もう一度地図を見てもらおうかな。
花園神社は寛永年代(1624~1644)までは現在の場所より約250メートル南、今の伊勢丹デパートの付近にあったんだそうな。
しかし、寛政年代に朝倉筑後守という旗本がこの周辺に下屋敷を拝領したため、社地は朝倉氏の下屋敷の中に囲い込まれてしまった。そこで幕府に訴えたところ、現在の場所を拝領することになったと言う話し。
ここからは長いので、箇条書きに。
初めて史料に花園神社の名が登場したのは、享和3年(1803)。
ただし、「花園」という名称が正式なものになるのはずっと後代のこと。
江戸時代には地名にちなんで四谷追分稲荷とも呼ばれていた。
三光院稲荷と呼ばれたのは、明治維新以前には神仏習合により神社と仏教寺院が同時に祀られることが多く、花園神社も真義真言宗豊山派愛染院の別院である三光院が合祀され、住職が別当(管理職)を兼ねる慣わしだったためであるといわれている。
明治元年 (1868)3月に維新政府が祭政一致の方針に基づき神仏分離令を発布し、廃仏毀釈が進む中で三光院は花園神社と分離され、本尊は愛染院に納めて廃絶となった。
この「廃仏毀釈」というのは、日本の文化に実に悪影響を与えたもののようですねぇ。
明治に入ると、「村社稲荷神社」が正式名称とされました。これは神名帳を提出した際に、誤って花園の文字を書き漏らし、「稲荷神社」で届出をしてしまったからだそうです。
なんとまぁ、トホホな話しじゃございません事?
まだ続く。
大正5年1月25日、東京府知事に対し社号の改名願を提出。同年2月26日に許可され、「花園稲荷神社」となった。
さらに昭和40年に、それまで末社だった大鳥神社を御社殿建替えと共に本社に合祀したことから、ようやく「
花園神社」が正式名称となりました。
ふぅ。
いずれにしても、花園神社のメインはお酉様の大鳥神社ではなくて、さらに古い歴史を持つおいなりさんの方なのだね。
それは、靖国通り側、つまり、伊勢丹側からの鳥居をくぐったすぐ中の様子からもわかると思うのだ。
どう見ても、おいなりさんだよね。
つまり、花園神社は縄文チンコパワーがメインのエネルギー源になってる場所なのだ。
ところで、現在の場所は適当に決められたのかというと、僕はそうじゃないと思っている。
地形的に見て、現在の位置に縄文遺跡はいかにもありそうな場所なのよね。
でも、参考のために載せたアースダイバーの地図には遺跡のマークが付いていない。
実の話し、この本を買って僕が真っ先に確認したのは、この地図の精度だった。
今年の夏頃まで遺跡の調査をしていた場所が、青梅街道を中野坂上の方へと下っていった所、淀橋の手前にある。
今はもう埋め戻されてしまって、その弥生遺跡は見ることが出来ないけれど、その地点がアースダイバーの地図に記載されていないことを、僕は真っ先に確認したのだった。それで、この地図全体の精度のおおよその察しがつくというのもなのだ。
少なくとも、2年前よりも最近の成果は載っていない。
それに、その本の著者自身も書いている。
「東京の裏庭を掘れば、縄文遺跡がごろごろですよ」
未だに発見されない未調査の遺跡なんてのがひしめいているのが、この東京なのだ。
そして彼はこうも書いている。
「縄文時代の人たちは、岬のような地形に、強い霊性を感じていた。そのためにそこには墓地をつくったり、石棒などを立てて神様を祀る聖地を設けた。
そういう記憶が失われた後の時代になっても、全く同じ場所に、神社や寺がつくられたから、埋め立てが進んで、海が深く入り込んでいた入り江がそこにあったことが見えなくなってしまっていても、ほぼ縄文地図に記載されている聖地の場所にそって、「無の場所」が並んでいくことになる。つまり、現代の東京は地形の変化の中に霊的な力の働きを敏感に関知していた縄文人の思考から、いまだに直接的な影響を受け続けているのである。」と。
僕は、こんな散策を通して、僕の中の縄文人的感覚を呼び覚まそうとしているのかも知れない。
何が見つかるのかって?
浅草寺と新吉原の例をあげるまでもなく、聖域と色町はセットになっているものだ。
二丁目と花園神社もそう。
死と性はいつも仲良く手を繋いでいる。
死を強く意識すれば、生きることの儚さを肌に感じ、愛も深みを増すというものだ。
そして、当然の結果として、感覚はとぎすまされ、より深い快楽を手に入れる。
僕は、今回の台湾旅行でそれを実感した。
死を忘れた人間というものは、どこまでも強欲になる。
そして、愛の喜びから遠く離れた所で暮らすことになる。
同時に、本当の陶酔からも。
つまり、強欲な人間というものは、ただ生きていくだけで、その不毛な感覚によって日々罰せられているようなものなのだ。
そんな話しは、まぁいい。
ちょっと一休みしよう。
やっぱり、裸はのんびりするねぇ。
無らいの土方の日に撮ってもらったのだ。
お目汚し、ご無礼。