山に出会うとき、ふとそんなことを思う。
霧の中にどこまでも続くザレ場を一歩一歩踏みしめているときも、
不意に膨大な時間の堆積を感じて耳を澄ましてしまうことがある。
周囲1mほどがやっと見える濃い霧のただ中の尾根筋で、
自分の耳に届くのは、
ただ呼吸と鼓動の音だけなのだけれど。
27日未明、午前3時から北岳に向かうことになった。
渓流を渡り、ブナの林を抜け、
明日の午後には、ホシガラスの遊ぶ森林限界にいるだろう。
時間の堆積なんて言われてもピンと来ないだろうね。
でも、山の中に一人で立っていると、それはとてつもなく確かな感覚になる。
果てしなく続く小石の斜面に立つときほど、今ここにいることの不思議を感じさせられることはないんじゃないかな。
夜通し冷やされた岩盤が、朝日を浴びて熱膨張する。
やがて日が沈み、夜露が岩を冷やす。
そんなことが何万回、何億回となく繰り返され、やがて岩に亀裂が入り、その亀裂に水がしみこみ氷り、果てしない時間のあとにひとかけらの岩が転がり落ちる。
そんな風にしてできた岩のかけらが、果てしなく続く斜面。
そこを、明日、たまたま僕が踏みしめていく。
どんな必然性があって、明日の午後、僕はその石を踏みしめるというのだろう?
Remember that the air shares its spirits
with all the life it supports.
The wind that give our grandfather
his first breath also receives his last sigh.
~Chief Seattle~
大気はそれが育むあらゆる生命とその霊を共有していることを忘れないで欲しい。
我々の祖父たちの最初の息を与えた風はまた彼の最後の息を受け取る。
~シアトルの酋長~
こめかみで脈打つ僕の血潮。
その血液の中には、遙か昔、恐竜の小便だったこともあるかも知れない、
水の分子だって含まれている。
あはは。
風は息の化石だと言った詩人の言葉を思い出す。
僕は明日、北岳の山頂で、恐竜やナウマン象の肺から吐き出された空気の分子を、深々と胸に吸い込むのかも知れない。
いや、今だってそうかも知れないね。
ねぇ、生きてるって、不思議だと思わないかい?
去年の今頃、北岳の山頂で携帯で撮った写真だよ。