ルネ・マグリッドの絵の中の馬が出てきそうな、耳を澄ませば、かすかに蹄の音が聞こえてきそうな、そんなユリノキの黄葉です。
静かな秋の日差し。
あんまり良い天気だったんで、二日酔いの重い頭を肩の上に乗せて、新宿御苑に散歩に行ってきたんですよ。
ついこの前来た時には、広大な芝生の上空をガラスの破片でもばらまいたみたいに赤トンボたちが飛び交っていたのに、この日はまるで「沈黙の秋」が来たかのように、1匹も飛んでいませんでした。
季節の移ろいというものを、いやと言うほど感じさせられます。
あの透明な羽の煌めきが懐かしい。
秋の到来を告げる、光の破片たちが。
と、向こうの木陰に何かが煌めきながら漂っていく.......。
それは、トンボよりも儚い、シャボン玉の光でした。
風、風、吹くな.....。
あのシャボン玉の歌が、儚い命を詠ったものだと聞かされたのを思い出したけど、無邪気に戯れる子供にはそんなこと関係ありませんね。
一点の曇りもない喜び。
51回目の秋、僕の喜びはうっすらと灰色の憂鬱をまとって、燻銀のようだった。
真新しい金属の断面のような強烈な輝きを持つ若い頃の喜びとはちがって、それは何となく手のひらの上で転がしてゆっくりと眺めていたいような、眺めていると細かい傷やら錆やら灰汁のついたあとなんかがいろんな思いを呼び覚ましてくれる、そんな綾に彩られた鈍い光を放っているような気がする。
いや、他にも、よだれだの、もっと怪しげなあとも見つかるはずだ。
過ぎ去った夏の記憶は、木立に囲まれた花壇にもまだ残されていた。
アメジストセージの向こうで灼熱の記憶を歌うカンナの深紅の花弁。
連中は、まだまだ当分の間、炎天に熔けかかったアイスクリームの思い出を謳歌し続けていることでしょう。
汗をぬぐいながら歩いたあの季節のことが、今はもう何世紀も昔の事みたいです。
愛の三段階
静かな愛情の持続の中で、二人してゆっくりと成熟していけたら、それはどんなに幸せなことだろうか。
紅葉の始まったソメイヨシノの向こうに、人影を見つけてシャッターを押した。
クリムトの「人生の三段階」を、何となく思い出していた。
彼の「The Three Ages of Woman」は、しかしあまりにも容赦がない。
年老いた女の苦悩はロダンにもあったけれど、若さにだけしがみついて生きてきた人間への痛烈な批判なのだと思ったりもする。
娼婦の晩年。
それはどんなに不毛で恐ろしい人生だろう。
自分の老醜を深く恥じながら体を湾曲させた、老女の姿。
若く美しい肉体は素晴らしい。
だけれども、それは常に限りある魅力でしかない。
若さは、手のひらからサラサラとこぼれ落ちる砂のようだ。
他人事ではない。
歳を重ねてもなお、成熟することを拒み、若者に擬態して闊歩する二丁目の風俗。
年取った者に対する嘲笑は、それを投げかけた者に必ず返っていくというのに。
年とともにワインのように立派になると思っているやつもいる。
だが酢になるのが現実だ。
(映画 パルプ・フィクションより)
ゆっくりと成熟を目ざしたいと思う。
けれど、内面的な魅力を培っていったからと言って、それがそのまま性欲の対象になる、性的魅力になる、若さの代用になるなどと言うつもりはない。
魅力ある人間は、良い友達になれても良い恋人になれるとは限らないのだから。
ただそれが、僕の心を、年老いた娼婦の悲惨から少しだけでも遠ざけてくれたらいいなと、そう願うだけだ。