くまえもんのネタ帳2

放置してたのをこちらに引っ越ししてみました。

Gaten is cool!?

2007-04-26 02:05:43 | ノンジャンル
NHKのcool japanって言う番組で、イタリア人が作業着のニッカボッカをcool!と言ったのにビックリ!
見た人いるかしらん?

何でもあちらでは、パンタローネ・ディ・ラヴォーロとか呼ばれる最新ファッションなのね。NHKの番組では、日本のニッカボッカがヒントになってファッション業界に取り入れられていく過程なんかも紹介していたっけね。
直接の関連記事じゃないけど、おもしろいのがあったのでちょっと抜粋。

トーキョーガイド日記」から
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「パンタローネ・ディ・ラヴォーロ」---つまり作業着屋で売っているあのニッカボッカ型の工事用作業ズボンのことなのだが---あれなら軽く10本買えてしまう値段である。アントネッラが一度自分用に買っていって以来、彼女の友人たちの間では、この工事用ズボンや地下足袋がファッショナブルなアイテムとして、ちょっとしたブームになってるらしい。自分にも買ってきて欲しいというリクエストが後を絶たないのだそうだ。だから、まるで「仕入れ」といった感じで何本も買っていく。嬉々としてこのズボンを着用した、工事現場ないでたちのイタリア人がウーディネ周辺で急増しているかと思うと笑える。
~~~~~~~~~~~~~~~~

笑わば笑え!


とは言え、街角で見かけるこんな風景を僕はcool!とは思わない。
もちろん、cool!なおやじがcool!な着こなしのガテン系だったりすれば、そりゃぁまぁcool!とか思いますけどね。

実を言うと、僕はガテン系に対してフェチがなかったりする。
けれど、ガテン系ファッションをcool!だと思ったことは、今から30年ぐらいにあったりする。
それは昼下がりの山手線内でのことじゃった。

パンク系のおそろしくcool!な、おそらくはイギリス娘が、原宿駅で乗り込んできた。
地下足袋にニッカボッカ、シンプルなブラウスにガテンなベストをひっかけて、耳にはタコ!!
そう、ピンクとブルーの透明な樹脂製のタコのオモチャを(おそらく子どもがお風呂で遊ぶためのような)片耳に3つほどイヤリングの金具で飾っていた。
金髪のポニーテールと、彼女が身につけるとなぜだかメソポタミア文化の香りさえしてくる耳元のタコ。
そして、僕をノックアウトしたのは、彼女が小脇に抱えていた花かごだった。
ススキ、オミナエシ、小菊、ナデシコ。
そんなのが、オフィーリアの花篭よろしく、つい今しがたイギリスの片田舎で摘んできたような風情で収まって居るではないか。
彼女によって摘まれた日本の秋の七草と土方着は、見事にその歴史からも摘み取られて、シェイクスピアの国の娘を飾るお洒落な小物とウェアになっていた。
It's so cool !


30年あまりも経った今ごろになってやっと、ガテンcool!が海外で定着しつつある。
番組を見たときの驚きは、そんな感じのものだった。


さて、アウトドアで季節労働者な僕は、普段の仕事ではこんな気張った格好はしていない。
ってか、微妙に業種がずれてるから、こんな格好しなければ仕事が出来ないというような必然性がないのよね。でも、こんな様な出で立ちではあるけれど。


もともとが暑がりで汗かきなもんで、こんなハイネックなんか着て仕事した日にゃぁ、ものの10分もしないうちに悶絶死してしまうに違いない。
それでも、心なしか浮かれて見えるのは、たぶん土方着で揚がっているからではなくて、イタリア女どもが目の色をかえて作業着ショップで漁っているところの「パンタローネ・ディ・ラヴォーロを身にまとっている私」ってのに揚がってるんだと思うのよね。
うひひ

さて、ここでまたちょっと違った側面からガテン系を眺めてみようかしらね?
そう、久々に「ほぼ日」の「新宿二丁目のほがらかな人々」から、ちょっと長めの抜粋を。

まずは、「男どうしで足をひっぱんの。」から。
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つねさん でね、うちらから見たらどれも、ゲイっぽいのよ。
ジョージ ゲイに見えるー。
ノリスケ メトロセクシュアルな感じなのね。
ジョージ そう。ちょっとこざっぱりしたイケメン系のね!ナイスバディ系のコたちが集まってて。
つねさん ちょっと無精ヒゲっぽくって。
ノリスケ 流行りだからねー。
~~~~~~~~~~~~~~~~

で、続いて「「LEON」的にはどうなのよ。」から。
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ジョージ この前「LEON」の編集長がテレビに出てて。
ノリスケ 「情熱大陸」?
ジョージ 「情熱大陸」じゃなくって、昼間の亭主改造のやつ。
つねさん へえ。出てたんだ。
ジョージ あれに出てたの。すごかったよ。
ノリスケ トム・フォードみたいなカッコしてる人でしょ?
ジョージ そう。すごかった。だって、普通のノンケのお父さんつかまえてきて、
一番最初に髪の毛短くしましょう、
ヒゲ生やしましょう、
それもきっちり生やしちゃだめです、
今オシャレなヒゲは3ミリだから。
ですって。
ノリスケ ふふふ。
ジョージ ねえっ! ほんとよ?
ノリスケ ゲイになっちゃう!
ジョージ そお。でね、「日焼けしましょう」
ノリスケ それじゃあゲイになっちゃう!
ジョージ で、日サロ行って、身体鍛えないといけませんってジムにも行かせて。
ノリスケ ますますゲイになっちゃう!すっごい時間とお金と手間かかってるね。
つねさん ほんとだよね。
ジョージ あれってね、普通1日でできるのに、その回だけは1週間かかったの。
つねさん うはははは!
ノリスケ 1週間でできたらスゴイ!3週間は要る!
ジョージ ちょっとぴったりめの白いシャツを着なきゃいけないし、胸ボタンを3つ開けなきゃいけないのね。
つねさん はあ。
ジョージ あと何だっけ。しゃべり方も色々教えてるんだけど、どう考えてもオカマが、不自然にきばって男のしゃべり方マネしてるみたいな。
つねさん だわぜ! なわけ?
ジョージ そう、だわぜ! みたいな感じ。面白かったーっ。そういう人が一生懸命編集してる雑誌を見るとオカマになるのよね。
‥‥あの人はオカマじゃないのよね?
ノリスケ 絶対違うと思いますっ。
ジョージ 憧れた相手がトム・フォードだから‥‥?
ノリスケ ああなっちゃったのよ。
ジョージ ああなっちゃったのかあ。
つねさん やっぱり憧れる相手を間違えたらゲイっぽくなるってこと?
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まぁ、ついでだから、メトロセクシャルについてもお付き合い願おうか。
メトロセクシュアル -美を追及するおしゃれな男の時代-」から。
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メトロセクシュアルの特徴は、次のような点にあります。
(1)21世紀の中心的存在、都会生活を好む
(2)高い美的センスを持ち、自分の時間やお金を惜しまず投資する
(3)自らのフェミニンな面を受け入れ、場合によればアピールする
(4)旺盛な好奇心を持って、様々に挑戦する

 3.時代の流れ
 男性の好みといえば、最初は車、時計そして靴だった。そこに個性を見出し、他との差を見出し、満悦するのが一般的だった。ところが、そうした形あるものから、目に見えない部分へと時間とお金の投資が変化し、男性の意識の変化を感じさせるようになった。
 女性のように美しくなりたいというのではなく、むしろ男気のある男性でありたい
しかし、飾り気のない、汗臭い昔流では満足でいない。清潔に努めるところに大きな違いがあるのです。だから、メトロセクシュアルのキーワードは、『清潔感』ということになる。
~~~~~~~~~~~~~~~~
云々。

でもね、これにフェティッシュが加わると、汗の香りも揚げ要因ってな事になる。
でだ、僕たちは、シャワーを浴びてこざっぱりしたあと、汗フレーバーの香水をシュッと一吹き、ミストの中をふんわりとくぐり抜けてから二丁目に繰り出すことになる。>なわきゃないけど。
えぇ、おヨゴレ系の隠された神髄は『清潔感』ということですね。

実は、今日とあるコンビニでこんなステキなコーナーを見つけた。

下着ひとそろいと、タオル。
汗をよく吸い、乾きやすそうなシャツ。これ涼しそうで良いわぁ、ホントにcool!
微妙に可愛い靴下。
「ガテン認定 ー現場の人々の声から出来ましたー」だって。
なかなかの売れ行きのようで、タオルなんかも最後の1枚だった。
ふむ、『清潔感』ね。
良いんでないかい。


さっそく買ってみた。
なになに?
「こだわりの日本製」
「頭に巻きやすい長さ」
「選択処理してあり、開封後すぐに使える」
「頭に巻くと竜柄がサイドにキマる」

うむ、Gaten is cool!


存在の耐えられない軽さ

2007-04-17 15:21:55 | ノンジャンル
映画の話しではありませんよ、もちろん!
でもねぇ、この「存在の耐えられない軽さ」って、良いタイトルだと思いませんか?
軽い僕のことですから、この映画もまたタイトルだけで満足してしまって見ていないんですよ。
どんなお話しなのかなぁ?
ちょっと調べてみよう。

ここにあった。
原作の冒頭には、ニーチェの引用があるそうな。
ちょっと抜粋。

*************
 
「われわれの人生の一瞬一瞬が限りなく繰り返されるのであれば、われわれは十字架の上のキリストのように永遠というものに釘付けされていることになる。このような想像は恐ろしい。永劫回帰の世界ではわれわれの一つ一つの動きに耐えがたい責任の重さがある。これがニーチェが永劫回帰という考えを『もっとも重い荷物』と呼んだ理由である。
 もし永劫回帰が最大の重荷であるとすれば、われわれの人生というものはその状況の下では素晴らしい『軽さ』として現れうるのである。」
「もっとも重い荷物というものはすなわち、同時にもっとも充実した人生の姿なのである。重荷が重ければ重いほど、われわれの人生は地面に近くなり、いっそう現実的なものとなり、より真実味を帯びてくる。それに反して重荷がまったく欠けていると、人間は空気より軽くなり、空中に舞い上がり、地面や地上の存在から遠ざかり、半ば現実感を失い、その動きは自由であると同様に無意味になる。」
「一度だけおこることは、一度もおこらなかったようなものだ。人がただ一つの人生を生きうるとすれば、それはまったく生きなかったようなものなのである。」

    ~ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』より
*************

うむぅ~、もうそろそろ読んでみても良い年頃になったのかなぁ、面白そうじゃん。

んで、もちろんそんな話しではなくってぇ~。

永遠の長さからみたら、一瞬も一生も違わないんだなぁってなことから最近興味が深まってきたのが、インスタレーションって言うジャンル。

「存在し続ける一瞬」とでも言えばいいだろうか?
「瞬間を永遠のように扱う方法」と言った方が良いだろうか?



色々あるけど、この頃とみにはまってしまったというか、入れ込んでいる作家?がアンディ・ゴールズワージーとニルス・ウドだ。

上の写真はニルス・ウドの、花の終わったヒマワリの萼に赤い木の実を乗せて流れに浮かべた、一瞬の作品。

ニルス・ウドのインタビューが載っていたので、ちょっと抜粋。

~~~~~~~~~~~~~~~~
「人間は自然の円環の一部」。そう言う彼に、人間が自然の力を回復する技法を教わりたかった。

中略

ANSWER:
いい質問ですね。でもとても難しい質問なので、私の考えや作品のつくり方を説明しながら答えることを試みてみましょう。

私は子ども時代、北バイエルンのある谷の、城塞の中という、街から全く切り離された自然の中で育ちました。野外で過ごすことが多かったせいもあって、四季の移り変わりや、自然に対する深い知識を身につけていくことができました。自分自身が自然についての知識をまず持つこと。そうすれば正しく自然を評価し、自然を愛することができる、それが私が作品をつくる時の前提です。私の作品はあらゆる種類の自然現象が対象になります。そこに生えている植物の葉や花、風や雨、雪、気象現象、海や川の流れが対象でもいいのです。

自然の中に入りこんで作品をつくる時、頭の中はゼロの状態、全くコンセプトはありません。作品は、そのような自然状態に対して私が「反応して」つくったものなんです。例えば、森の中を歩いて行くと白樺の枝が雪の重みでアーチになっているところに出くわす。その状態は、私がそこに来る前からあったものです。私は、そこで雪玉をつくり、その倒れた木の枝につけたんです。それを写真に撮って作品にするわけですが、それが終わると溶けて流れたり、風に吹かれて、儚く消え去ってゆく。その短命さというのも重要な要素です。
~~~~~~~~~~~~~~~~

さて、アンディ・ゴールズワージーの作品?の中に、空中に乾いた泥土を投げ挙げると言うのがあったりする。
空中に花開いた土埃が、すなわち彼の作品。
もちろん、これを子どもの遊びや気まぐれから切り離す手続きとして、当然写真というメディアの存在は重要だ。

写真が発明されてからと言うもの、僕たちは常に飛び去る矢を止めておくことが出来るようになった。
が、彼らの作品の場合には、写真は二次的な記録手段に過ぎない。
問題はその行為そのものにあると言うこと。
実際にその場に居合わせる、それが大切なのだけれど......。
行為は写真になることで、その美しさと強度を獲得することも否めない。


アンディ・ゴールズワージーの本が5冊届いた。
うれしい。

Andy Goldsworthy:
A Collaboration with nature
Wood
Time
Wall: At Storm King
Passage

この中で一番のお買い得はTimeかな。



で、この人の作品を初めてまとめてみることが出来たのはいつだったか、はっきり思い出せなかったんで調べてみた。

1994年2月19日-3月27日 世田谷美術館

当時は世田谷美術館のすぐ近くに住んでいたもんで、彼の作品展があると知って、足繁く通った記憶がある。
でも、彼の存在を知ったのはいつの頃だったのか?
1994年よりも前と言うことのなるのだけれど、もうとんと思い出せない。


ちなみに、1987年の彼の作品が、世田谷美術館に収蔵されてるんですね。


面白いのは、所蔵品のページに記載されているロジャー・アックリングと言う人の「イースター・トレド山脈」という作品の素材名が「木片、太陽光線」となっているあたり。
A(^_^;

作品は生命と同じで、その生息地から切り離されると同時に死んでしまい、ひからびた標本になってしまう。



さて、そんな作品たちを眺めるうちに、僕なりに考えた物を作りたくなってきた。
作りたくなってきたと言っても、かれこれ10年越しの計画のごく一部に取りかかることが出来るようになったのだけれども。
もっと積極的に人と自然が関わり合うことで成立する、そんな作品を。
僕が坐っている切り株もその一つなんだけれど、種明かしはそのうちにね。


ところで、これはアンディ・ゴールズワージーの作品、雪が降ったら作ってみたいなんて思ったりしませんか?




ふつ~に差別?

2007-04-09 14:40:43 | ノンジャンル


4月7日の毎日新聞の記事、読んだ人も少なくないんじゃないかしらん。
内閣府が行った、障害者に関する世論調査の結果
<社会の中に障害者への差別や偏見があるか聞いたところ、8割強が「ある」と回答。若い世代が特に敏感で、20~40代はいずれも9割を超えた。>
ってな話し。

もうちょっと詳しく抜粋ね。
**************
「世の中には障害者に対して障害を理由とする差別や偏見があると思うか」との質問に「少しは」の31%も含め82.9%が「ある」と回答。「ない」は15.1%だった。

 「ある」と答えた割合を年代別にみると、▽20代=97%▽30代=95.3%▽40代=96.2%で、それ以降は年代が上がるごとに▽50代=87%▽60代=75.2%▽70歳以上=58.2%と減っている。

 また、法改正で差別などの禁止が明記されたことについては、「知らない」が59.3%で「知っている」の40.7%を上回り、十分に浸透していないことがうかがわれる。
**************

もっともこのアンケート、「俺様は差別してるぞっ!」とかそう言う答えを集めたんじゃなくて、「社会の状況をどう見るかを聞いた」んだそうな。





ってことは、あれですか?
「差別?え?滅相もない!あたしゃ差別なんてしたことありませんよ!でもまぁ、世間様ではわりと普通に差別してるんじゃないですかねぇ。」
みたいな答えをしてるって事かしら?

20代から40代が、90%越えてるってのも、味わい深い話しだわねぇ。
「差別?良く聞いてくれました。オイラなんかホントしょっちゅう差別されてるんですよ。いつも損ばっかり!!オイラみたいなまっとうな人間ですらそうなんだから、ハンディーのある人たちなんか当然差別されてるでしょう。」
とか、そんな感じの答えも結構ありそう。

70歳以上=58.2%って低さも、妄想がふくらむねぇ。
「分相応ちゅうことをわきまえんヤツが、差別なんぞと抜かしおるんじゃい!」みたいな。

いずれにしても世間的には、今日日の日本、差別ってふつ~に行われてるってなことになるんかしらん?

ってことはさぁ、呑気に2丁目なんか歩いてたら、そりゃもうしっかり差別されちゃってるって事なの?

二丁目なんかぶっつぶせぐらいな事言ってる新知事でさえもが、今日の毎日新聞なんかで「人生で初めて、一部のメディアに、かなりアンフェア(不公平)に陰湿に根拠のないバッシングをされた」
「都民の知的なレベルの高さが(私を)理解して、良識を示してくれた」
A(@o@;
って言うくらいなんだからw、世の中、差別とかふつ~になっちゃったんだろうねぇ。

大丈夫なん?二丁目???



さすがに脳天気なアタイも、ちょっくら心配になって、ちょっと検索してみたら........。
大丈夫なん?二丁目???

例の「裏新宿」にこんな記事があった。
とほほ。

以下抜粋。
**************
 「3選を目指す石原慎太郎知事(74)に日本最大のゲイタウン「新宿2丁目」から反発の声があがっている。石原氏が昨年、五輪招致に絡み、新宿2丁目の景観を条例で規制すると発言したのが発端。歌舞伎町が石原都政下で“浄化”された過去があるだけに、今度は「2丁目つぶし」が始まる可能性もある。ゲイバーなどは「死活問題になりかねない」と規制への危機感を訴えている。(ソース部分引用。後略)」


二丁目振興会の人が出てますが、ところでこのソースになっている新宿2丁目とか歌舞伎町の景観を規制するという雑誌記事はだいぶ前なんで、公示前のちょっと意図的な記事の出し方という印象もありますね。

「2丁目のゲイバーの多くは未明まで営業している。(新宿二丁目振興会の)福島氏は「もし営業時間が規制されるなどした場合、死活問題になる店も出てくる。2丁目は世界一のゲイタウン。ゲイにとっては、単なる繁華街でなく『最後のとりで』のようなコミュニティーでもあることを、石原さんには忘れないでほしい」と続けた。(ソース部分引用()内当方注記加筆・前後略)」


「未明まで営業」これって本来的にはグレーゾーンなんだから、振興会が新聞で言っちゃうのは言質が残っちゃってデメリットだと思いますが…。僕も昨日は2丁目で飲んでましたが、実質的にはあの街は朝のほうが賑やかです。歌舞伎町⇔ゴールデン街→2丁目と流れる構造が出来てますからね。
**************

大丈夫なん?二丁目???
言質残しちゃって......。




と、ここまで書いておいて、こんな記事を抜粋してみたりする。
A(^_^;

JMM [Japan Mail Media]
内閣府の社会意識調査は実情を反映しているか?

以下抜粋。
**************
ここは、健全な懐疑の目を向けることが必要かと思います。調査票も一緒に公開されていますので、自分がこの調査票に回答することを考えてみました。

 まず、このようなアンケート形式では、ほとんどの質問が抽象的で具体性に欠けますので、出てくる答えも実際の問題解決のためというよりは、TVや新聞といったメディアからの知識をもとに、無責任に答えたものとなるように思います。

 選挙の投票行動は、政治的な見返りを期待し、選ばれた代表は受け入れざるを得ないという意味では選ぶ側に責任がありますが、これはアンケートに過ぎないので、責任のない気楽な答えを繰りかえすことになりそうです。

 また、質問が具体的でもう少し言葉の定義まで踏み込んだものであれば、結果も建設的な理解が可能であったかもしれません。
杉岡秋美
**************

「選挙の投票行動は、政治的な見返りを期待し、選ばれた代表は受け入れざるを得ないという意味では選ぶ側に責任があります」かぁ~、えらいことになったねぇ。

世の中は
桜ばかりが美しい
とな。

しりたくないの

2007-04-01 02:05:23 | ノンジャンル
出張先でたまたま読んだ漫画がえらく面白かったんで、紹介しようかなと。









なんか、良い味でてると思いませんか?





まだ出張中なのよぉ~。
疲れたわぁ~、眠いし。
こっちの気温は、今夜明日とー6度まで下がるんだって。
きゃぁ~、困るわぁ~!


ま、そんな日記書いてもしゃあないよね。
以前にも書いたことあるけど、僕って日記を書いたこと無いのよねぇ~。
ってか、書けまへん。

芥川龍之介の侏儒の言葉(しゅじゅのことば)に、こんな言葉があったように思う。
うろ覚えだけど。

曰く「大衆が知りたいのは真実ではなく紛々たる事実である。例えば、キリストの愛の思想がどのようなものであるかという事にではなく、キリストが私生児であったのかどうかにだけ興味を持つのである。」とかなんとか。

で、このブログを読んでいる人たちは、もちろんそんな紛々たる僕の日常なんかには興味がないのだろうから、もっと上等な物を書かなきゃぁいけないのかしらねぇ?とか思って、書かないのよね。
ってか、根気がないだけ。
A(^_^;

日常の些末なことを書いたり読んだりすることは、本当にその人の人となりを知り理解を深めるのに必要なことだろうか?

数日前に仕事上のストレスと疲れから何となく腎臓のあたりが軽く痛んでいたとか、今朝方屁をこいただとか、そんなことを知って僕の何がわかるというのだろう?
あなたの何を理解できるというのだろう?

それとも、個人に対するそんな程度の知識を、理解と呼んだりするのかしらん?

僕は親しい友人達の毎日の些末な出来事を、いちいち知りたいとは思わない。
いや、むしろ知りたくない。
時々飲み屋であって楽しく会話する知人の日常を知りたいとは思わない。
そんなことは知らない方が円滑に進む付き合いを、大切にしたいと思っている。

例えば、吉永小百合はトイレに行かないと、そんなことを漠然と信じていたいタイプなのかも知れない。
A(^_^;


いずれにしても、人それぞれが適正と感じる距離感ってのは大事だと思うのよね。

「mixi疲れ」を心理学から考える』なんて記事を読んで、要するに日常的な距離感が保てなくなって、間合いを詰めすぎて息が出来なくなったしまった人たちのことを何となく考えさせられて苦笑したりなんかしている。

ちょっと抜粋してみようか。

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 自分の日記にあしあとやコメントが付くと、周囲から認められたという「認知欲求」、自分を受け入れて欲しいという「親和欲求」が満たされ、それが快感になるという。好意を持っていたり、尊敬している相手からあしあとやコメントが付くと、さらに高い快感が得られるため、快感を求めて日記を更新し続けるという“中毒”症状につながる。

 加えて「好意の返報性」も働く。人から受けた好意に対して同じだけの好意を“お返し”し、心のバランスを保とうとする作用で、mixi上では、自分のページにあしあとをつけたり、日記にコメントをつけてくれた人に対して、あしあとやコメントを返そうとする行為として現れる。これによって相手にも好意の返報性が働き、自分の日記にコメントやあしあとが付きやすくなるため、応酬がエスカレートしていく。

 つまり「コメント欲しさに日記を書く」→「コメントが付いて嬉しくなる」→「コメントをくれた人の日記にもコメントを返す」→「自分の日記へのコメントが途絶えると、コメント欲しさに新たに日記を書く」──というサイクルが際限なく続くのが“mixi日記中毒”の正体と言える。
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実生活が不毛なのかしらん?
何だか良くわからない現象ではある。
なんちて