くまえもんのネタ帳2

放置してたのをこちらに引っ越ししてみました。

やっぱりS字がキモチイイ!

2007-11-27 15:10:33 | ノンジャンル


クリスマスの時期が近づく頃に花屋さんの店頭を賑わす花と言えば、やっぱりなんと言ってもポインセチアでしょ?

あのダークレッドの花って、日本のお正月を飾る一種晴れやかな金赤とは違った情念を感じさせる色彩だと思いませんか?
ベルベット状の重ったるくぶ厚い花びら(実は葉が変化した苞って呼ばれるところ)は、よ~く見るとなんとかローズとまではいかないまでも、なかなかセクシャルな色合いでもあるのよね。
実際、ポインセチアの花びらを傷つけると、白い乳液がジワァ~っと滲んでくるし。
花言葉も「私の心は燃えている」だって言うし、ついFFプレイを連想しちゃうんだよねぇ。

そんな良からぬ連想をしてしまうのも、クリスマスカラーの赤は、もともとが血の色の象徴なのだから無理もないというか......。
血の色と言っても、それはキリストのそれを指して居るのだけれどもね。
我ながら、不謹慎よねぇ......。

ついでに言うと、永遠を象徴する緑と純潔とかその辺のことを象徴する白、それに今あげた赤がメインのクリスマスカラーなんだってね。




もう2週間も前の話なんだけど、旅行に出掛ける前にクリスマスの飾りをすませておいたんですよ。
と言うのもね、この時期、ぼやっとしてると良い材料が無くなっちゃうからでもあるんだよね。

今さら言うのもなんだけど、もちろん「S字がキモチイイ!」って言っても、S字結腸に当たるから云々ってな話しの展開ではないのよね。





土台と花の部分のパーツをドッキングさせて、だいたいの形を整える。
まだ、一番上の花の向きが変だねぇ。



接続部分も足下が見えちゃうから、枝の向きを変えて調整する。



で、とりあえずウィンドーにおいて全体のバランスとか収まり具合を見る。
ここのショーウィンドーは、上からの光で賄わなくっちゃいけないから、花の向きなんかを微調整して要所要所に光がまわるように調整する。



てっぺんの花も、全体の流れを意識しながらそれぞれの向きや枝の長さを整えていく。



外から眺めてみると、またてっぺんの花の向きが変だねぇ。
このアレンジメントは、ホガースラインって言って全体が緩やかなS字型のカーブを描くスタイルなんだよね。
18世紀の英国人の画家「ウィリアム・ホガース=William Hogarth」って絵描きにちなんで着けられた呼び名なんだけど(まんまやないけ!)。
ん~、まだシッポの方も跳ね気味かなぁ.....。
搬入の時に曲がっちゃったんだね、直さなくっちゃだわ。
ってか、もうちっとスマートなラインにしたかったなぁ....ブツブツ。



ディスプレーの仕事って、この時期が一番大変なんだろうねぇ。
って言うのは、クリスマスの飾りはまぁ、1月ぐらい前から都合の付く日に飾れば良いんだろうけど、問題はお正月飾りへの切り替えなんだよね。
クリスマス空けに一斉に飾り換えなきゃいけないでしょ、日本の場合。

とはいえ、べつにこれだけで食ってるわけじゃないんで、僕の場合アレなんですがね。

ひどい所になると、25日に飾り替えろとか言うんだよ。
いくら無宗教とはいえ、耶蘇教の祭りの尻馬に乗って儲けておいて、一番大事な日にそのための飾りを外せと言うのはあんまりじゃないかと思うわけよ。
そゆこと言うお店の仕事なんか、絶対に受けないんですけどね。
えぇ、せめて26日にしなさいって。
それがヤなら、他の人に頼めってね。
A(^_^;
高飛車?
いえいえ、ケジメだと思うのよ。



これは、カウンターの花。
邪魔にならないデザインにしないとね。



これはドイツで流行った、立華の影響を受けたスタイルを応用してるのよ。
下の花の向きを、もうちょっとこっちに向けないといけないね。
こういうのって、置く場所の微妙な高さの違いとか、お客の動線や視線の流れなんかに合わせて調整していかないとねぇ。
あたふた....



ってな感じに、他の作業をチョコッと挟んでからもう一度さっきのを見てみると、またまた手直ししなくちゃいけないところが見えてくるんだよね。

最後に外を行き交う人からどう見えるかとか、店内を歩いたときの見え方の変化とか、そんなところに注意しながら微調整して出来上がり。

だいぶ気持ちの良いS字になったんじゃないかしらん?


あるいは、曖昧さと言うことについて

2007-11-26 01:50:31 | ノンジャンル


これ、すごくな~い?
先日、京都大阪方面に1週間ほど出張してたんですがね、その時、京大近くのラーメン屋さんで何気なく頼んだチャーシュー麺がこれ!
これで幾らだと思います?

さすが、学生街だけのことはあるってか、なんと800円でした。
若い頃なら喜びを持って難なく平らげる逸品なんですが、えぇ、長旅でバテ気味のオジジにはちと荷が勝ちすぎでしたかね。
って、完食しましたが。







なんでまた、京大の近くに出没したのかって言うとね、お庭が見たかったからなんですよ。
ここね、予約制なの。


石庭なんて、辛気くさい趣味だって思うでしょ?
えぇえぇ、ジジィの趣味なんてそんなんですよ。

ここの学芸員に勧められて、ついでにもう2カ所の庭も見に行って来ちゃいました。


荒々しい波の表現とか、なかなか素敵でした。
っていっても、こんな表現が江戸時代の石庭ではすでに確立されてたって言うんだから、ビックリですねぇ。


例えば、こんなの。


それにしても、物を知らないってのは恐ろしいことで(とはいうものの、途中で物知らずだと気がつかなければ、それはそれでどうって事無く人生を過ごすこともカンタンなんですがね)、午前中に見に行ってきたお庭のすぐまわりにもっと色々素敵な庭がいっぱいあったんだと、その学芸員に教えられましてねぇ....あはは、やだやだ。
まぁ、またの機会にでも。
A(^_^;

それにしても、思ったわけですよ。
枯山水から植物を排除せざるを得なかった訳なんてのをね。

石と砂と苔。
これで自然の縮図を構成して表現してしまう。
そのためには、具体的なサイズというか形態を持った植物ってのが邪魔になるんですねぇ、きっと。

石庭の石は、じっと見ていると、大きな山のようでもあり島のようでもあり、何となくスケール感が曖昧になるってところがミソなのね。
まぁ、今風に言えばフラクタル性を効果的に見せるためには、サイズに依存する形が邪魔になるってなところです。
サイズに依存する形とか言われてもピンと来ないでしょうから、例を挙げて言えば、庭石の横に人間が立ってるというような状況ですね。
人が横に立ってると、石の大きさはもう一目瞭然というか、比較対象があるからイマジネーションが具体的な大きさから離れていくことができなくなっちゃう。
巨大な山に見立てることがしにくくなる訳ね。
素に引き戻されるの。
これは草花とかはっきりした枝ぶりの木も同じ効果なわけ。

苔や低い刈り込みだと、それを森のように感じることもできる(刈り込みは本来の樹木の形をしていないからねぇ、本来のスケール感が曖昧になりやすいよね)んで、山だの海原だのってイメージへの移行が邪魔されないんだよね。


これで話しを終わりにすると、片手オチだよね。
サイズに依存しない形ってのも少しは説明しないとねぇ。

海岸線のジグザグとか山肌のデコボコとか川のウネウネとか、地図や写真の倍率を変えても変わり映えしないよね。
ジョウロで水を流したあとのえぐれは衛星から見る揚子江の流れとよく似てたりする。
岩山のデコボコと庭石のそれも大して変わり映えがしない。
まぁ、そう言うのがサイズに依存しない形、つまりフラクタルなんですね。
早い話、自然界にあるありきたりな形の有りようとでも言えば良いんでしょうね。

ここのサイトでフラクタルと戯れてみるのも良いかもしれません。
色んな発見がありそうです。

それにしても、思ったわけですよ。(しつこい?)
自然石を愛でるって、すごい文化だねぇってさ。
石と砂と苔。
スケール感を曖昧にする素材だけを意図的に残して、大自然を象徴したんですねぇ。




2007-11-20 00:36:47 | ノンジャンル


  庭



  枯山水もナルシスも
  美が
  余りにもそれを満たしてしまったものは
  もはや他者を受け入れることができない

  季節の移ろいも
  やわらかな日射しも
  彼の美しさを際だたせるだけの
  一瞬の通過に過ぎない

  花を活けることのできる壺は
  それ自体が完成して居てはいけない
  他者を受け入れる隙が
  破綻が
  不完全さが無ければ
  ひりつく様な欠乏がなければ

  他者に満たされて始めて
  一つの全き美が立ち現れる
  動かし難い一つの美ではなく
  折々の花との変幻自在な美を手に入れる

  花咲き乱れる庭は
  シャコンヌの
  通奏低音の上に繰り広げられる
  変奏だ
  果てしないアラベスクだ
  その旋律たちは
  もつれあい発展し成長し
  夢見がちに歌う
  岩や流れや小道でしつらえられた
  通奏低音の上に


サバの季節

2007-11-08 02:40:42 | ノンジャンル


そう、秋はなんと言ってもサバの季節。



「サバ?」
「そう、サバ!」
じゃないでしょ!

クリスチャンヌ・ルグラン
それはCha Ba Da Ba Da


Comme nos voix ba da ba da da ba da ba da
Chantent tout bas ba da ba da da ba da ba da.
Nos coeurs y voient ba da ba da da ba da ba da
Comme une chance comme un espoir

Un Homme et une Femme
って「男と女」ざんしょ!
だいいちba da ba da daって
全然サバじゃないじゃん!


まぁ、つまらないおちゃらけはこの辺で。

秋サバは、脂がのって.....もう良いって!




秋の気配が濃厚になってくると、こんな朴念仁でも詩心をくすぐられたりするのだ。
で、いつもなら西脇順三郎なのだが、去年の秋から何だかサバもいいなってね。

それにしても、詩人の心は、そのまま自然観察者の眼差しだ。
ささやかな発見が、いかに日々を潤していることか。
そこには、科学と芸術との境目はない。





  詩人

  詩人は、限りある日々を
  生きている。
  すべての人間とおなじように。だが、
  なんと多様な、日々だ!

  一日のさまざまな時間、四つの季節、
  太陽が翳ったり、風がつのったりは、
  いつも違った、気晴らし、みちづれ。
  変わることのない彼の情熱にとっては。
  朝、起きたときの天気は、
  その日いちばんの出来事、
  目覚めのよろこび。
  なによりものなぐさめは、荒れ模様の
  ひかり。たえずざわついている、
  よい天気の日々。
  群衆のながい行列みたいに、
  青空も、あらしも、長くは続かず、
  不幸の天使と、勝利の
  天使が、かわるがわるに降りてくる。
  夕焼けが赤いと、彼はまた愉しくなり、
  雲が出ると、彼の幸福の
  色も変わる。
  心も変わるときがある。

  詩人は限りある日々を
  生きている。
  すべての人間とおなじように。だが、なんと、
  なんと、すばらしい日々だ!
             ウンベルト・サバ




秋のソナタ

2007-11-06 21:20:27 | ノンジャンル


もちろん映画の話しではない。>いきなりかいっ!!

そう、ベルイマンのではなく、レイ・ブラッドベリの「秋のソナタ」。

一度は作曲家たらんことを夢見た人間なら、涙無くしては読めない物語。
僕が作曲家を目指した?
いや、夢みたというか妄想したというか、かりそめにもビオラ弾きの端くれ、和声と対位法の霊妙と神秘を肌で感じるパートを弾いていた人間なら、誰しも一度は作曲や編曲に手を染めるものなんだそうだ。

ん~、こんな話しをするときは、あの「田舎の日曜日」でかかる晩年のフォーレがふさわしい。
あの鈍色の光を放つ苦悩と孤独の色合いに揺らめく、情念の音楽。

とか書いておいて、あっさり話題を変える。

いえね、2日続けて、昔弾いたことのある曲を聴いてしまったもんだから、ちょっとオセンチモードにはまりかけたのよ。
うひ。

ひとつは、ショスタコービッチの5番
もう一つは、フィンランディア。



■2007年11月4日(日)
交響曲第5番「革命」、第6番
管弦楽:サンクトペテルブルク交響楽団
Академический Симфонический Оркестр Филармонии
指揮は井上道義

■2007年11月5日(月)
ヘルシンキ大学男声合唱団 ~シベリウス没後50周年記念特別公演~
指揮はマッティ・ヒュオッキ
シベリウス/失われた声、船旅、讃歌「苦難の中の御子」、異国にいるわが兄弟、わが心の歌、恋するもの、湯浅譲二/芭蕉の俳句による「四季」、シューベルト/セレナード、ロッシーニ/踊り(ナポリのタランテラ)、ハンニカイネン/アンニの歌(日本語歌詞:美智子皇后陛下による) ほか

5番は、やっぱ演奏するのが一番楽しいかしらね。
日比谷公会堂って、あんまりにもデッドな音響でビックリでしたわ。
残響なしって感じ。
いやぁ~、弾きにくいだろねぇ......。
曲としては結構好きな方で、色々考えさせられます。
デッドな分、曲が持ってる緊張感が極限まで強調されたから、それはそれで良かったかな。


ヘルシンキ大学の方は、アンコールの時に団員が全員客席通路に移動してきて歌ってくれたのが、ビックリするぐらいの一体感で、とっても良かったわぁ。
フィンランディアのあのコーラスに合わせてビオラパートを口ずさんでも、ハーモニーにちゃんと溶け込んでしまうので、誰にも気がつかれずに満喫できました。
いえ、ビオラパートって、本来そんな感じのパートなんです。
歌えば歌うほど綺麗に溶け込んで目立たなくなるの。