くまえもんのネタ帳2

放置してたのをこちらに引っ越ししてみました。

ア~ト?な日々

2009-09-12 23:56:00 | ノンジャンル


リアルな世界が多忙を極めると、どうしてもバーチャルなネットの方はお留守になりがち。
皆さん経験ありますよね?

友達の紹介で沖縄の陶芸教室にまぜてもらって、こんな花器を焼いたり。
って、これじゃ何だかわかんないか。


沖縄で拾ってきたサンゴと一昨年ぐらいにどこかで買ってきたハスの実、それからほんのりピンクのカリフラワーみたいなのはベンケイソウの花。
枯れてる物、死んでいる物と、今を盛りに花開いている物、これらを同じような形の繰り返しで組み合わせていくと、ほ~ら、生と死の境目は曖昧になっていく。

ってか、生と死は星野道夫が言うみたいに、同じ一つの物の別の側面に過ぎないのかも知れないのよね。




色々遊べるようにってデザインしたのが、なかなか気に入ったできあがりで、あ~だこ~だと活けて遊んでいたり。
そう、対になってる花器なのよね。




で、向きを変えたり色々組み合わせて遊びたいところなんだけど、何せ季節労働者?じゃないですか。
暇がなくてねぇ....

1月も更新しなかったのって久しぶりだわぁ。
そろそろ死んだとか噂になってたりして?
いや、オスカーワイルドだったかが言ってたよね、
「噂になるよりも悪いことがある。噂にさえならないことだ。」
これね。
こっちの方が、僕的にはぴったり来るかな。
ほら、良くあるじゃないですか。
毎日歩いている商店街の一角で建物が取り壊される。
毎日見ていたはずなのに、そこに何が建っていたのか、とんと思い出せない。
存在と不在の境目なんてそんなものなのだ。

ま、それはさておき。






ランドアートってさぁ、やっぱりロケーションに影響されるじゃないですか。
都心でチマチマ作るおもしろさ、自然のカケラを発見する楽しさってのもあるんだけど、海に繰り出して遊んでみたら、やっぱ山でもって気になるじゃないですか。
でもね、大自然ってもともともともとアーティスティックだったりするじゃない?

昔読んだモーリス・ラヴェルの伝記にあった一節を思い出す。
「小鳥は素晴らしい歌を歌うが、芸術家ではない。芸術家というのはその美しさの秘密を理解し意図的に操れる人のことを言うのだから。」
確かそんな下りだった。

とはいえ、自然はいつだって素晴らしい。




そこに宗教の力が加わると、こんな風景とかが既に昔からあったりで、僕なんかの出る幕無いんですよね。
これ、山全体に自然石が立てられてるだけなんです。
巡礼の人たちが、一つ一つ手近な石を拾ってきて立てていったの。
何十年も何百年も。
針の山を表しているんだそうな。
離れた稜線から眺めると、ハリネズミの背中みたいな山なの。
ランドアートなんてハナから意識してないけど、そんじょそこらのへたれなモニュメントなんかよりよっぼどアーティスティックな空間だ。




それに全くの自然の造形で、こんなのだってあったり。
もうね、作為見え見えなその辺のモニュメントなんて気持ち悪くて見てられ無くなっちゃうし、僕ごときが何か作るなんておこがましくって。
汗汗汗




とかなんとか、殊勝なこと言ってみたところで、突然激しい雷雨に襲われて雹が積もったりなんかすると、つい悪戯の虫が騒ぎ出しちゃうんだよねぇ.....。




もちろん自分に課した戒律は忘れない。
ちゃっちいもの、ほんの数時間、いやほんの一瞬で形を失うもの。
そして、何物をも象徴しないもの。




無意味な儚いものこそが、永遠をあらわせるなんてことを西脇順三郎が言ってたよね。
そう言われるとそんなような気もするので、しょうもない悪戯の言い訳に引っ張り出してみたり。
A(^_^;




まぁね、色々ご託を並べたところで、日があたり始めて30分もすれば、小石の並びに気付く人なんかいなくなる。
たとえ次の雷雨までは流されずにちんまり並んでいるとしてもね。

存在することと存在しないことの違いは何?




山行く人々が積み重ねるケルン、それを真似て僕もこんなのを作ってみた。
小指の頭くらいから握り拳ぐらいまでの赤茶けた溶岩を岩の稜線に沿って並べてみる。
山の風は横殴りに強い。
これまたほんの数週間、いや数日もしないうちに、跡形もなくなるだろう。




すぐ後ろには、古くからの聖地となっている巨大な岩塊がある。
そしてその後ろには発達し始めた雷雲が。

同じ形の繰り返しと、極端に違うサイズ。
カメラを通すことで、サイズの違いの意味が曖昧になる。
そしてそれ以上に、一瞬を永遠のように扱えるカメラって、ホントに面白い装置だと思うね。

瞬間は永遠の別の側面なのだから。

ところで、「飛ぶ矢はとまっている」と言うけれど、あらゆる瞬間の矢が常にそこにとどまり続けるためには、僕たちの目に映っている現実の矢は全速力で飛び続けている必要がある。
さもないと、僕は商店街の一角の空き地ほどにも存在しないことになるのだよね。
ま、それも味わいの一つ。
「Webに存在しないこと=世界に存在しないこと」では決してないのだから。
A(^_^;