太平洋戦争末期、20万余が亡くなった沖縄の地上戦から76年。
1945年6月23日は日本軍の組織的な戦闘が終わった日。
沖縄は、きょう「慰霊の日」をむかえる。
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米軍が
沖縄本島へ上陸したのは、1945年4月1日。
これを迎え撃つ日本側第32軍は、この戦いを持久戦と位置づけしていた。
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計画・立案した第32軍の作戦参謀主任の八原大佐によれば、
「鉄(砲弾)に対して土(壕)で防ぎ、引き付けて殲滅する」という戦術、
「短刀闇討ち、差し違い戦法」と名付け、水際作戦には撃って出ないことにした。
第32軍司令官の牛島中将と上司の長参謀長も、これを了とした。
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だから、嘉手納海岸から上陸した米軍は、一発の銃弾も受けないのに驚き、
「これは、エープリル・フールか」と目をまばたき、
「島を間違えたのではないか」と司令部に問い合わせる部隊もいたらしい。
第32軍は、
首里の丘に壕を造り「天岩戸戦闘司令所」の看板を建て、
牛島司令官、長参謀長、八原大佐らが並んで、続々と上陸用舟艇で揚がってくる米軍を眺めた。
持久戦とは言え、いざ島の中央部まで米軍に占領され、飛行場まで奪われてみると、
攻撃を催促する指示が、上部の第十方面軍司令部や海軍筋からも出始める。
作戦参謀主任の八原大佐は、総攻撃は消耗戦で勝ち目は無いと、自説にこだわったが、
無理を承知で総攻撃作戦を立案せざるを得ない事態に立ち至る。
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日本側の攻撃は米軍の圧倒的な攻勢で、ほぼ壊滅的な結果となり、損害は増大するばかり。
やがて、首里の壕へも米軍が迫ってきて、司令所の維持も困難な事態となった。
5月27日、首里を撤退した第32軍は、島の南端、摩文仁へ。
摩文仁の司令所へ敵機の銃弾が飛来し始めるのが、6月19日。
牛島司令官は参謀たちに退却を命じた。
6月23日未明、牛島司令官と長参謀長の二人は自決。
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八原大佐は二人が自決する前、長参謀長から“起死回生の妙薬”という丸薬と
百円札五枚を貰い「脱出しろ」と指示される。
私服に着替えた八原大佐は、摩文仁の壕をはなれ、やがて米軍の捕虜となる。
終戦ののち復員した。