九品人の落書帖

写真をまじえ、身の回りで見聞きしたことを、つれづれなるままに!

テコでも動かない?

2018年08月29日 | 日記
 Eテレ『ヨーコさんの‘言葉’』より引いた。
               □

 夫婦喧嘩というものをよくやる。
 それも車の中で。
 道に迷うのね。
 すると私は、性格が悪いから、
 相手が無能でウスノロで頑固だと
 思うのだと反省する事だってあった。
               □
 しかし、見たことも無い田んぼの真ん中では、
 ただ逆上するのみ。

 「さっき、電信柱に‘桜ヶ丘四丁目’って書いてあったよ」
 「いや、地図によれば、ここは△△駅前のはずだ」
 「あんた馬鹿じゃないの」
 

 「ここが駅ですか?」
 「駅がジャガイモ畑なわけ?」
 「バカやろう。文句言うなら地図に言え」
 「だから、さっきのガソリンスタンドで聞けばよかったのよ」
 相手は憮然として一言もものを言わないという事もあった。


 二十の息子とその恋人に聞いた。
 若い人達は、違うのかと思ったのである。 
               □
 「この人、道に迷ったら人に聞く」
 「全然、絶対に聞かない。人に聞いた方が早いと思いません?」

 「あんた。何で聞かないの」
 「やじゃん」
 「何で」
 「やじゃん」
 「だから何で、やなの」
 「自力で這い上がりたいじゃん」

 「そんな大袈裟な事じゃないですよね」
 「けど、地図と正しく道がピタッと合った時、
 すげぇ気持ちいいぜ」
 「それに俺、道に迷うの嫌いじゃなくて」
 「何それ、男のこけんなわけ」
 息子は、しばし沈黙し「それもある」と、
 少し恥ずかしそうに笑うのである。

 男って、地図という観念と言うか
 抽象化された世界に現実を近づけたいのか。
 ピタッと合うことを信じているのか。
 観念と現実が合わないと、
 狂暴になるか、憮然とするか、なのだ。

 女は現実あるのみ。
 信じるものは、ここはここである、という認識で。
 それもテコでも動かない。


 
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ネコほど人間にとって丁度よいものがあるだろうか?

2018年08月22日 | 日記
 Eテレ『ヨーコさんの‘言葉’』から引いた。
               □

 生き物の中で、ネコほど人間にとって、
 丁度いいものがあるのだろうか。
               □ 
 大きさが本当に丁度いい。
 大き過ぎず、小さすぎず
 持ち上げても重くなく軽過ぎない。
               □
 なめらかで、やわらかい毛を撫でていると
 平和な気持ちにさえなれる。
 その上、キャンともほえない。
 かすかにニャーと言う位で、
 音もなく歩いてくれる。

 ネコは人間と永い間、仲良くやってきた生き物である。
 ネコはイヌよりも馬鹿なのか勝手なのか。
 イヌのように人間に愛されることや、
 役に立つことに情熱を持っていないような気がする。

 イヌは、私がタバコを買いに行くときでさえ、
 これが今生の別れかと思うほどの
 悲しげな目付きをする。

 そして、買って帰ってくると、
 南極から生き還って来た人を迎える様に嬉しがる。
 男ができたての、もてない女みたいである。

 ネコは散歩に連れて行かなくても、
 勝手に出て行くし、けものくさくない。
 いつも体中を舐め回して身ぎれいである。
 本当によく出来ている。

 私はネコのことは何一つ知らない。
 ものを言わないし、
 家に居ない時、
 ネコが外で何をしているか知らない。

 ネコは美しい形と体の動きを持っている。
 私はネコほどエレガントに歩く人を知らないし、
 ネコほど美しい瞳を持った女も知らない。
 そしてネコほど静かな女も居ない。
               □
 ネコから見たら、
 人間はドタドタと騒々しく、
 むやみにデッカイ生き物ではないだろうか。
     


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金足農 決勝進出 !

2018年08月20日 | スポーツ
 第100回、高校野球選手権大会。
 金足農が日大三に勝って、決勝へ進出した。
 〈 金足農 2-1 日大三 〉

 県立の農業高校にして、この快進撃である。
 秋田の人々の熱狂振りも半端ないと思われる。

 勝って歌う彼らの校歌も半端ない。
 胸を張って反りかって大声を出して歌う。
 その歌詞を以下メモした。
  
  可美しき郷 我が金足
 霜しろく 土こそ凍れ
 見よ草の芽に 日のめぐみ 
 農はこれ たぐひなき愛
 日輪の たぐひなき愛
  
 おおげにや この愛
 いざやいざ 共に承けて
 やがて来む 文化の黎明
 この道に われら拓かむ
  
 われら われら われら拓かむ


             □  
 アッパレ 県立金足農業高校。
 明日の決勝の相手は大阪桐蔭。
 健闘を祈る !
      

  

  
 
  
  
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これはペテンか?

2018年08月17日 | 日記
 NHKーEテレ『ヨーコさんの言葉』から引いた。
               □
 生物の宿命は自然の営みであり、
 そのように宇宙は成り立っている。
 人が歳を取るのは何の不思議も無い。

 あの人も歳ねぇ。私も歳よねぇ。
 分かっているの。
 でも、鏡を見ると「こ、これっ私、ウッソー」と。
 ペテンにかかったんじゃないか。
 崩壊は止まらない。
 ぐんぐんスピードを増してゆくのである。

 物忘れがひどくなり、
 人の名前が、すぐに出てこない。
 「あれ、あれ」「あの人、あの人」と。
 記憶力の肉が、たれてきているのだ。
 集中力がうすまり、仕事が続かない。
 精神力の肉も垂れ下がって来ている。

 その時、「えっ、嘘、嘘、知らなかった」とは思わず、
 仕方ないよなー。
 これが歳ってもんだ、と
 妙に心が静かになって来る。

 一人でいる時、
 私は一体幾つのつもりで居るのだろう。
 青い空に白い雲が流れていくのを見ると、
 子供の時と同じに世界は私と共にある。
 六十であろうと、四歳であろうと、
 「私」が空を見ているだけである。

 十代の時は、人間は四十過ぎれば大人という者になり、
 世の中を全て理解して、
 いかなる困難にも正しく対処するものだと思っていた。
 いま思うと、十代の私は自分の事しか考えていなかったのだ。
 共に生きている同時代の人達以外に、
 理解や想像力を働かせようと、していなかった。

 しかし、四十になり五十になると、
 自分の若さや単純さや、
 おろかさ浅はかさを非常に恥じるようになり、
 その歳になって、オバサン達の喜びや哀しさに共感し、
 人生は四十からかも知れないと、
 歳をとるのは喜びでさえあった。

 そして、
 四十だろうが五十だろうが、
 人は決して惑わないなどという事はない、と
 いう事に気付くと、
 私は仰天するのだった。

 何だ、九歳と同じじゃないか、
 人間、少しも利口になど、ならないのだ。
 私の中の四歳は死んでいない。
               □
 嬉しい時、
 私は自分が四歳だか九歳だか、
 六十三だかに関知していない。

 
 

 
 
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涼風(すずかぜ)至る

2018年08月09日 | 日記

 今朝、起きて新聞を取りに玄関先へ出る。
 心地よい一せんの涼風を受けた。
              □  
 一昨日のカレンダーには「立秋」とあり、
 このところ連日の猛暑だから、
 裏切られた気分でいたところだったので、
 何だか嬉しかった。
              □
 七十二候を引くと、
 「涼風(すずかぜ)至る」とある。
 季節の移ろいは正直だと感じ入った次第。
              □
 どうやら、
 この夏は熱中症にならずに済みそうだ。
   
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フネ、フツーに死ぬ

2018年08月08日 | 日記
 Eテレ『ヨーコさんの言葉』からメモった、
 以下、引用する。
               □

 医者はレントゲン写真をビューアーにはさんで、
 少し沈痛な面持ちをして言った。
 「ガンですね。一週間か、もう少しもつか」

 フネをつれて帰った。
 フネは、じっと目を閉じたままの姿勢だった。
 そばに、水をおいてスーパーへ行った。

 一番高いカンヅメを十個買った。
 白身の魚のあまりのうまさにパクパク食べて、
 ガンが騙されるかも知れん。
 レバーなんぞパクパク食べたら、
 もしかしてガンに勝つかも知れん。
 高いたって安いものだ。
 しかも奇跡は起こらないだろうとも思う。

 小さな皿にスプーン一さじをとりわけて、
 フネの鼻先に持っていった。
 匂いをかいでフネは一さじ分を食べた。
 私は、勇んで、もう一さじを入れた。
 フネは、口を閉じたまま私の目をみた。
 「ねぇ、食べな」と私は言った。

 フネは私の目をみながら、
 白身を一回だけなめた。
 私の声に一生懸命こたえようとしている。
 お前こんなにいい子だったのか。
 知らんかった。
 ガンだガンだと大騒ぎしないで、
 ただ、じっと静かにしている。
 何と偉いもんだろう。

 一週間、私はドキドキ、ハラハラ浮ついていたのに、
 フネは部屋の隅で、ただただ静かに同じ姿勢で、
 かすかに腹を波打たせているだけだった。

 二週間過ぎた。
 風呂場のタイルにうずくまるようになった。
 熱があって冷たい所に行きたいのか、
 暗い所で邪魔されたくないのか。

 ちょうど一ヶ月たった。
 フネは部屋の隅にいた。
 クエッと変な声がした。
 振り返ると少し足を動かしている。
 あーびっくりした。
 死んだかと思ったよ。
 二秒も経たないうちに、またクエッと声がしてフネは死んだ。

 私はフネの死と、人間がガンになる動転ぶりを比べた。
 この小さな生きものの、
 生きものの宿命である死を、
 そのまま受け入れているのに、ひるんだ。

 私はフネのように死にたいと思った。
 人はフネのようには死ねない。
 フネはフツーに死んだ。
 太古の昔、人はもしかしたらフネのように、
 フツーに死んだのかも知れない。
      
 
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市・県民税を余分に納税するところでした。

2018年08月06日 | 日記
 平成30年度の市・県民税の通知書が、最初に届いたのは6月中旬ごろ。
 見ると納税額が想定していたよりも高額な感じ。
 どうやら所得控除の算定額が低過ぎることに気付く。
 とりあえず、第一期分だけ納税して(納期:6月末)
 市役所の納税管理課へ出向き控除の追加を申告した。

 その結果、8月に入り、税額変更の通知書が届いた。
 何と、当初の納税額から3万円もの減額で一安心。
 もし追加申告していなかったら、大いに悔やむところでした。
               □
 これまでは、毎年、確定申告をしてきた。
 そのデーターが住民税の控除算定に反映されていたものであった。

 本年度分からは公的年金のみの所得となり、
 しかも申告の必要がないことになったので、確定申告をしなかった。
 従って、社会保険料のほか、生命保険料や地震保険料などの控除データーが
 住民税の所得控除に反映されないことになってしまったのである。
  
 来年度以降も、確定申告は対象外なので、
 市民税・県民税申告書が別に必要だと知った。
 市役所に依頼しておけば、先方から送ってもらえるとか。
 早速、お願いしておいた。
  
 確定申告をしなくても良い公的年金のみが所得の皆さま。
 確定申告の替わりに、市民税・県民税申告は、是非、必要ですぞ!
 くれぐれもお忘れなく!


        
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うちの子だけ どうして可愛いの?

2018年08月01日 | 日記
 Eテレ『ヨーコさんの言葉』からメモった。
               □
 三十歳で妊娠した。
 「子育ては俺がする。オシメも洗う。
 頼むから産んでくれ」
 夫は手をついて、タタミに頭をこすりつけた。

 これは口から出まかせだと分かるのに時間はかからなかった。
 私はむくむく太りだした。
 突然、鰹の刺し身と西瓜が食べたくなり、
 スーパーに飛び込んで買ってきた。
 台所に立ったまま、
 刺し身を食べて西瓜にかぶりついた。

 お腹がゴニョリと動いて、気味悪かった。
 恐らく、私には母性愛というものが
 欠如しているのではないかと不安であった。

 お腹はどんどんせり出して、
 二十キロ体重が増えた。
 私は、出っ張ったお腹のために、
 横になれず布団を重ねて、
 座ったまま眠り、
 ただただ早く出して楽になりたかった。

 そして、ついにその日が来た。
 私はうめきながら分娩台によじ登った。
 くるくる回転してスッポンと子供が出て来た。
 嘘のように楽になり、
 子供がオギャーと泣いた。

 その時、
 「あー私の赤ちゃん、私の赤ちゃん」という、
 言葉でない言葉が体の底から爆発して来た。
 私は、赤ん坊を見た。
 見たことも無い可愛いい赤ん坊だと思った。

 私は泪がだらだら流れてきた。
 どんなことをしても私は、この小さなものを
 守らねばならぬ、と思った。
               □
 乳児室に並べられた赤ん坊を見に行った。

 十二、三個並べられた、
 くしゃくしゃの赤ん坊の中で、
 私の赤ちゃんだけが目に飛び込んで来る。 
 際立って可愛いからだった。

 隣の赤ん坊は毛が無くて、鼻の穴が大きすぎる。
 あんな子供を産んだ親は可哀想だ。
 私のように、ニヤニヤ出来ないではないか。
  
 横に、子供を産んだ母親と、その夫が立っていた。
 「ねぇ、ねぇ、うちの子だけ、どうしてあんなに可愛いのかしら」 
 母親は小さい声で夫に言っていた。
 そして、私と同じ目と、しまらない口をしていた。
               □
 私は、自分の体に人格があるなどと思えない。

 地面とかキャベツとか、ハエとかと同等のものであり、
 私の意志でないものが、
 私を支持していたのだと思える。
  

 
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