1989年6月4日、
中国の民主化を訴えた学生たちが軍に弾圧された天安門事件。
当時、テレビに映し出された【戦車の前に立ちはだかる一人の学生】の
映像は、今でも大方の人々の脳裏に焼き付いていることだろう。
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ことの始まりは、同年4月15日、胡よく邦(前、総書記)の死去。
17日、胡の死を悼んだ北京の学生たちが、黒い腕章を付け、民主化を求めてデモ。
22日、警察当局は、学生たちに対し天安門広場からの退去を命じた。
26日、『人民日報』は社説で学生たちの行動を「反党的」と非難。
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5月3日、趙紫陽(総書記)が学生たちに平静を呼びかける。
9日、北京の報道機関を代表する千人以上のジャーナリストが、
「嘘をつくのは、もうご免だ」と書いたプラカード・デモ。
13日、学生たちが政府との対話を要求し、広場でハンガーストに入る。
18日、趙紫陽がハンストの学生たちを見舞う。
百万を超える大衆がハンスト学生に呼応して通りに出る。
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19日、李鵬首相(趙紫陽が失脚?)が戒厳令を発す。軍を北京市中心へ移動。
21日、戒厳令実施本部が声明。兵士をのせた車両が勢揃い。
23日、3人の男が広場の毛沢東の肖像画にペンキを。
30日、学生たちが天安門広場に「民主の女神像」を設置、除幕式を行う。
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6月3~4日、歩兵部隊と戦車が広場に突入。
天安門広場を完全に制圧し、「民主の女神像」を粉砕した。
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当局は、この事件の死者数を319人と発表したが、実際はより多いとみられる。
趙紫陽に代り、江沢民が総書記に就く。
江沢民は、国内の不満から目をそらさせようと、いわゆる「愛国教育」へ。
今の中国の若者たちは、この天安門事件について「信じられない。知らない」が大多数だという。