九品人の落書帖

写真をまじえ、身の回りで見聞きしたことを、つれづれなるままに!

沖縄きょう慰霊の日

2021年06月23日 | 日記

 太平洋戦争末期、20万余が亡くなった沖縄の地上戦から76年。

 1945年6月23日は日本軍の組織的な戦闘が終わった日。

 沖縄は、きょう「慰霊の日」をむかえる。

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 米軍が

 沖縄本島へ上陸したのは、1945年4月1日。

 これを迎え撃つ日本側第32軍は、この戦いを持久戦と位置づけしていた。

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 計画・立案した第32軍の作戦参謀主任の八原大佐によれば、

 「鉄(砲弾)に対して土(壕)で防ぎ、引き付けて殲滅する」という戦術、

 「短刀闇討ち、差し違い戦法」と名付け、水際作戦には撃って出ないことにした。

 第32軍司令官の牛島中将と上司の長参謀長も、これを了とした。

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 だから、嘉手納海岸から上陸した米軍は、一発の銃弾も受けないのに驚き、

 「これは、エープリル・フールか」と目をまばたき、

 「島を間違えたのではないか」と司令部に問い合わせる部隊もいたらしい。

 第32軍は、

 首里の丘に壕を造り「天岩戸戦闘司令所」の看板を建て、

 牛島司令官、長参謀長、八原大佐らが並んで、続々と上陸用舟艇で揚がってくる米軍を眺めた。

 持久戦とは言え、いざ島の中央部まで米軍に占領され、飛行場まで奪われてみると、

 攻撃を催促する指示が、上部の第十方面軍司令部や海軍筋からも出始める。

 作戦参謀主任の八原大佐は、総攻撃は消耗戦で勝ち目は無いと、自説にこだわったが、

 無理を承知で総攻撃作戦を立案せざるを得ない事態に立ち至る。

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 日本側の攻撃は米軍の圧倒的な攻勢で、ほぼ壊滅的な結果となり、損害は増大するばかり。

 やがて、首里の壕へも米軍が迫ってきて、司令所の維持も困難な事態となった。

 5月27日、首里を撤退した第32軍は、島の南端、摩文仁へ。

 摩文仁の司令所へ敵機の銃弾が飛来し始めるのが、6月19日。

 牛島司令官は参謀たちに退却を命じた。

 6月23日未明、牛島司令官と長参謀長の二人は自決。

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 八原大佐は二人が自決する前、長参謀長から“起死回生の妙薬”という丸薬と

 百円札五枚を貰い「脱出しろ」と指示される。

 私服に着替えた八原大佐は、摩文仁の壕をはなれ、やがて米軍の捕虜となる。

 終戦ののち復員した。  

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