九品人の落書帖

写真をまじえ、身の回りで見聞きしたことを、つれづれなるままに!

これはペテンか?

2018年08月17日 | 日記
 NHKーEテレ『ヨーコさんの言葉』から引いた。
               □
 生物の宿命は自然の営みであり、
 そのように宇宙は成り立っている。
 人が歳を取るのは何の不思議も無い。

 あの人も歳ねぇ。私も歳よねぇ。
 分かっているの。
 でも、鏡を見ると「こ、これっ私、ウッソー」と。
 ペテンにかかったんじゃないか。
 崩壊は止まらない。
 ぐんぐんスピードを増してゆくのである。

 物忘れがひどくなり、
 人の名前が、すぐに出てこない。
 「あれ、あれ」「あの人、あの人」と。
 記憶力の肉が、たれてきているのだ。
 集中力がうすまり、仕事が続かない。
 精神力の肉も垂れ下がって来ている。

 その時、「えっ、嘘、嘘、知らなかった」とは思わず、
 仕方ないよなー。
 これが歳ってもんだ、と
 妙に心が静かになって来る。

 一人でいる時、
 私は一体幾つのつもりで居るのだろう。
 青い空に白い雲が流れていくのを見ると、
 子供の時と同じに世界は私と共にある。
 六十であろうと、四歳であろうと、
 「私」が空を見ているだけである。

 十代の時は、人間は四十過ぎれば大人という者になり、
 世の中を全て理解して、
 いかなる困難にも正しく対処するものだと思っていた。
 いま思うと、十代の私は自分の事しか考えていなかったのだ。
 共に生きている同時代の人達以外に、
 理解や想像力を働かせようと、していなかった。

 しかし、四十になり五十になると、
 自分の若さや単純さや、
 おろかさ浅はかさを非常に恥じるようになり、
 その歳になって、オバサン達の喜びや哀しさに共感し、
 人生は四十からかも知れないと、
 歳をとるのは喜びでさえあった。

 そして、
 四十だろうが五十だろうが、
 人は決して惑わないなどという事はない、と
 いう事に気付くと、
 私は仰天するのだった。

 何だ、九歳と同じじゃないか、
 人間、少しも利口になど、ならないのだ。
 私の中の四歳は死んでいない。
               □
 嬉しい時、
 私は自分が四歳だか九歳だか、
 六十三だかに関知していない。

 
 

 
 
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