AWA@TELL まいにち

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翻訳資料や通訳が介在する授業が効果的な場合ってなんだろう

2018年06月03日 | 日本語教育
留学生が混じっている大学院の授業や学部の授業、基本的に日本語がわかるという前提で授業は進めますが、

中には、英語の資料を作って渡していらっしゃる先生もおいでのようです。

それを否定するわけじゃないのですが、

例えば、中国のモンゴル族の留学生さんの場合、日本語、中国語、モンゴル語は大丈夫でも、英語の資料はからっきしダメなことが多く、英語で案内されたり、英語で話しかけたりしても、コミュニケーションは取りづらいわけですよ。

通訳がいる授業って言っても、自分にとって外国語である日本語の授業を、同じく外国語である英語の通訳が入ってわかりやすくなるかというと、多分、何の役にも立ってないと思うの。

英語を聞き取るくらいなら、日本語を聞き取る訓練をした方が良くて、特に、日本国内で日本語を学んでいるのであれば、日本語を聞く授業を別に建てなくても、普段の授業の聞き取りで練習していけばいいように思ったり。

日本の大学や大学院教育を英語で行うということには反対の立場であるとともに、

日本語の資料をわざわざ英語に訳して示す必要性を全く感じていないのです。

英語の資料を使うな、じゃなくて、わざわざ日本語のものを英語にする必要はないということね。

まして、黒板に何かを書くときに、

 例えば、

「擬人法」という修辞技法を教えるときに、この漢字を板書して、

 「anthropomorphism」と書くことの意味ね。

 ふりがなを「ぎじんほう」と書くことの方が大切だと思うんだけどなー。

 英語で示されたって、知らない人には結局、知らないですまされるでしょうからね。

 ふりがなつけて、擬人法の解説を進めることの方が有意義だと思うけどな。


 通訳や翻訳が生きる授業って、

 学習者が同一の言語圏に所属していることが第一として、

 さて、他にどんな条件が整えば、「効果的」なんだろう?

 授業内容を全て通訳者が指示しているなら、そこで学んでいる子供達は、いつまでたっても通訳を頼っちゃうよね。

 それで終わればいいんだけど、高校入試、大学入試、企業への就職、通訳がいる前提でモノは片付かない訳だ。



今日はそんなことを考えつつ、授業を後ろから見ていました。







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