story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

何かを見つけた日

2004年12月01日 19時00分00秒 | 小説
冬の夜・・須磨から塩屋への国道を、エクゾーストノートも高らかに一台のスポーツカーが疾走していた。
車体は黒、それもつや消しの、いかにも自分で塗った色という感じの、荒れ果てたクルマだった。タイヤは異常に太く、クルマの窓は全てスモークフィルムで覆われていた。
国道もこの付近では片側1車線の普通の道だ。
スポーツカーは前の車には異常に接近し、恐怖感を与え、反対側の車線が空いた瞬間に抜きさっていく・・
JRの快速電車が国道と並行する線路に姿を現した。
黒いスポーツカーは、快速電車と競走でもするかのように、速度をあげ、反対車線にクルマがいようがお構いなしにはみ出しては、電車と併走していく。
恐怖心からか、このクルマに抜かれたクルマが、ハンドル操作を誤り、道路脇のガードレールに車体をぶつけ、横転した。
黒いスポーツカーはお構いなしに電車との競走を楽しんでいるかのように、走り去っていく。

国道を少し先に走ったところにコンビニエンスストアがあった。
駐車場にスピンして、先ほどのスポーツカーが入ってくる。駐車場でたむろしていた少年達が驚いて逃げる。
駐車場の枠など構わずに、そのクルマは斜めに停車した。
逃げた少年達が近づいてくる。
「われ!どこのもんじゃ!」
少年の一人がスポーツカーからゆっくりと降りてきた男に、怒りをぶちまけた。
「ケン、やめとけよ・・そいつにかかわるな・・」
別の少年が怯えた口調で、たしなめる。
黒い皮ジャンパー、サングラス、金髪に髪を染めた男はクルマから出ると、少年には構わずに店に入ろうとする。
「待たんかい!先に詫びろや!」
少年は男を追いながら、それでも声を荒げる。
「ケン・・やめろ・・そいつはあぶない!」
別の少年の声が上ずり、泣き声のようになる。
男が振り向いた。次の瞬間、少年の身体が吹っ飛んだ。
少年は店の前で倒れこんだが、男は意に介さず、店に入っていく。

コンビニエンスストアで男は缶ビールを数本、抱え込んだ。
レジには先客が二人、並んでいた。
男は無視して、自分の買い物をレジのカウンターに載せ、さっさと金を払っていく。誰も何も言わない、いや、言えない雰囲気のようなものが全身から溢れ出ている。
そのとき、店のドアを開けて、先ほど殴り飛ばされた少年が入って来た。
手にバールのようなものを持っている。「殺してやる!」少年は男めがけてバールを振り下ろした。
男はさっと身をよけた。
カウンター横の肉まんのケースが木っ端微塵に割れた。少年は次の瞬間には男に首を前から押さえ込まれ、店のウィンドウに押し付けられた。
「いま・・なんと・・言ったかな?」
少年はのどが押さえられ、声がでない。
「殺してやる・・か・・あまり残酷なことは言わない方が・・良いと思うよ・・」
男は少年をウィンドウに押し付けたまま低い声でそう言う。
少年はいったん、男の方に引き寄せられ、次の瞬間、思い切り、ウィンドウに叩きつけられた。
ガラスが割れる。血が吹き出る。
少年の身体が店の外にガラスまみれとなって倒れたのを見届けてから、男はレジの方を振り向いた。
レジにいたアルバイトの少女は怯えて声もでない。
「悪かったな・・救急車を呼んでやってくれ・・」
男はそのまま店を出て行ってしまった。
すぐに黒いスポーツカーが、国道の車の流れを無視して、スピンして駐車場から出て行った。
割り込まれた、国道を走っていたクルマが、慌ててハンドルを切って、反対側の歩道に飛び込んだ。

疾走するスポーツカー
クーペであることだけは判断できるが、ほとんど原形が残っていないそのクルマは、トヨタスープラを改造したものだった。
彼は、走るクルマから携帯電話をかけた。
「おう・・親父よう・・またやっちまったよ・・ちょっとコンビニで、ガキに怪我をさせてしまった・・また・・頼むよ」
「お前は!今通報が入った事件はお前か!これ以上どうしろというのだ・・」
男は電話を切った。
男の名は甲斐正志、23歳だ。
仕事はしていない。
彼の父、甲斐康正は、地元警察署の所長だった。

クルマは夜の街を疾走する。
ほとんど信号は守らない。
先ほど買い込んだ缶ビールを飲みながら、酔いが少しはいるのか正志の運転はさらに、荒く、危険極まりないものになっていく。
30分も走っただろうか・・お気に入りの漁港に着いた。
播磨灘が遠くまで見渡せる。
冬の月が澄んだ光を海面に投げかけている。
正志はさらにビールを飲んだ。
「助けてくれ・・」
そう呟く。
「助けてくれ・・何かが・・何かがしたい・・」
正志は月に語りかけている。
自分にはすることがない・・進むべき道がない・・未来が全く見えなかった。
彼とて、今のような生活で人生を終えるつもりはなく、何かが、何かがしたかった・・
涙が溢れる。今夜は海に浮かぶ船も少ない。風がなく、ちゃぷちゃぷと波が頼りなく防波堤に打ち寄せる。
つながれた漁船がゆらゆらと波に乗って動いている。

彼は優秀な子供だった。
中学での成績は抜群で、県下最高の進学校に入学した。
スポーツも万能で、背が高く、ルックスも良く、世界の全てが自分を中心に回っていると思えたほどだった。
・・けれど、どういう訳か大学受験でつまづき始めた。
一流の国立大学への受験に失敗した。
そのあと、考えうる全ての学校の受験に失敗した。
それからは成すことすべてがうまくいかず、卒業式から少しして、同級生のほとんどが進路を決めた後、彼は自分のいた学校へ出かけていった。
学校は3年生がいない分、静かで、ひっそりとしていた。
職員室へ乗り込んでいった彼を見た教師達は驚いた。
真面目で、優等生だった面影はどこにもなく、僅か数週間で彼の表情からは穏やかさは消えていた。
髪も金に染めていた。
煙草をくわえたまま、担任だった教師に近づいた。
そのとき、彼の心を占めていたものは、自分をだめにした教師や親への憎しみだった。
彼はそれまで、教師や親の言うとおりにしてきたつもりだった。特に進路には担任や指導教師のアドバイスにきちんと従ってやってきたつもりだった。
「どないしたんや・・甲斐、煙草はまだアカンで・・二十歳までは・・」
そう彼に言った教師は一瞬にして吹っ飛ばされた。
学年主任の教師が止めに入った。
すでに定年近い老教師にも、彼の一撃は容赦がなかった・・
二人を殴り飛ばしたあと、驚いて呆然としている教頭の頭をわしづかみにし、机に叩きつけた。
女性教師の叫び声が響いた。
彼は、叫んでいる女性教師にも近づいたけれど、彼女の口を手で押さえただけで、職員室から出て行った。

それからは、何があっても、彼の父親が警察幹部としてもみ消してくれた。
むしゃくしゃいている彼の気分を押さえるには、世間からごみのように思われている不良少年達を相手にすることが一番だった。
気が晴れるし、本人以外からは苦情はこない・・
彼は夜な夜な、不良少年達を探すようになった。
もっとも、彼は暴力だけで生きていた訳ではなかった。
何かが欲しい時に、金を払わずに奪うといったことは、したことがなかった。

海岸で、散々泣いた正志は、少し気分が楽になったのか、クルマに戻って、エンジンをかけた。
彼の自宅のある、神戸の郊外へとクルマを走らせた。心が穏やかになったのか、車はごく普通に、彼にしては控えめに走っていく。
先ほど、少年を殴り倒した店の近くで、山手へと道をかえた。
自転車が前を走っているのが見えた。女だ。
彼は自転車を避けようと、少しハンドルを切った。
自転車を追い越してから、ルームミラーで見ると自転車が見えない・・胸騒ぎがして車を停めた。
自転車が転倒していた。
女が倒れている。
「大丈夫か!」
女に近づいた。
気を失っている・・
「しっかりしろ!」
高校のものらしい制服の少女だった。
彼は少女を抱えて、歩道におろした。自転車も歩道に寄せた。
「大丈夫か!」
また声をかける・・少女は目を見開いた・・
「すみません・・眩暈がしてたので・・」そう言った少女は彼の顔を見ると震え出した。
「あのときの・・」
彼は少女の背を抱え、抱き起こそうとした。
少女の震えが止まらない。
「どうした?」
「怖い!」「何もしないで・・助けて!」
少女は震えている・・
「俺は何もしない・・どうして怖がるのだ・・」
「だって・・あなたは・・さっきの・・犯人・・」
正志は、ようやく理解できた。この少女は先ほど彼が暴れたコンビニエンスストアの、レジにいたあの娘だ。
「さっきはすまなかった・・驚かして悪かった。でも・・悪いのはあっちの方で、オレではない」
しばらく、少女は彼を見たままだった。
「それより、眩暈は大丈夫か?」
彼自身、他人に何年振りかで優しい声をかけていることに気がついた。
「オレのクルマがあたって倒れたのか?」
少女は首を横に振った。
「もしそうなら、怖がらずに、そうだといってくれ・・」
彼はサングラスを外し、少女の目を見た。
優しい、穏やかな目だ。
少女は少し安心したかのようだった。
「いえ・・違います。怖がって、そう言っているわけではありません・・本当に眩暈がして・・」
そう言いながら、少女は立とうとした。
「あ・・」立てなかった。膝にけがをしているらしい。何度か少女は立とうと試みたけれど、結局そのまま歩道に座り込んでしまった。
「どうしよう・・」
「俺が送るよ・・家はどこ?」
そう言ったかと思うと、正志は少女の身体を抱き上げて、彼の車の助手席に乗せた。
ハッチバックをあけて、そこに少女の自転車を積み込んだ。けれども自転車がクルマの車体からはみ出して、ハッチバックドアが閉まらなかったので、軽く上にドアを乗せるだけにした。
「ゆっくり走れば大丈夫だろう・・」
正志は運転席に乗り込みながら、少女にそう言った。
「あの・・」
「なんだ?」
「本当に送ってくださるのですか・」
「うん・・俺を信じろ・・信じろといっても無理かも知れんが・・」
彼はそう言って軽い笑みを見せた。少女は少し安心したようだった。

少女の家はそこから1キロほど山手の公営住宅だった。
「どうしてこんなに夜遅くまで、アルバイトをしているのだ?」
正志は少女に聞いた。
「大学にいきたいのです。大学にいって、幼稚園の先生になりたいのです・・私、子供の姿を見るのが好きなんです」
「大学なら、勉強さえ出来ればいけるだろう・・」
彼は心の中で舌打ちをしながら、投げるように言った。大学という言葉に彼の心は少し過敏になっている。
「うち、母子家庭でお金がないんです。大学の試験を受けるのにもお金がいります。入学前にもお金を納めなければならないでしょう・・」
「そんなに金が必要なのか・・家にその金はないのか?」
「ないんです・・お母さんも、パート、二つもしているけど、生活で一杯一杯なんです」
「そうか・・だけど、女の子が遅くまでアルバイトするのは、危ないからな・・」
公営住宅に着いた。
正志は少女をおぶって、三階の彼女の部屋まで連れて行った。
少女の母親が、驚いて、彼に何度も頭を下げた。
気の弱そうな、質素な感じの母親だった。

正志は自分の家に帰る道で、少女と自分を思い合わせていた。
大学に行くには、お金が、かかる・・自分はそんな事を考えもしなかった・・
「オレは・・何のために大学へ行こうとしていたんだろう?」
始めて考えたことだった。
ただ・・いい学校へ行きたい・・行けばいい人生がおくれる・・それがつまづいて、自分はおかしくなった。
いい人生とはなんだったのだろう・・
彼は、ぼんやりと月夜の道でクルマを走らせた。

翌朝、彼は、自宅近くの幼稚園を園庭の外から眺めていた。
小さな、四,五歳の子供たちが、若い女の先生について楽しそうにはしゃいでいる。
先生の笑顔も作ったものではなかった。
ふと、思い出した。
自分が幼稚園の頃を・・
カトリック系の幼稚園で、園長先生はシスターだった。
彼のクラスはひまわり組、きれいで、優しくて、けれど声の大きな、怒ると怖い秋子先生を思い出した。
その瞬間、当時の友達の姿をいっぺんに思い出した。
シンジ、タロウ、ケンタ、ショウちゃん、まりちゃん、ゆりちゃん・・
仲良く、園庭で、暖かい陽の光に包まれて、かけっこをしていた自分の姿が、浮かび上がった。
一輪車では誰にも負けなかった・・竹馬では女の子だのに、まりちゃんが一番上手だった・・
きらきらした陽の光に浮かび上がる秋子先生・・本当にきれいな先生だった・・
正志には、前が見えなくなった。
涙が溢れ、その場でうずくまってしまった。
「なんで・・なんで・・おれは、こんなになってしまったんだ・・」
歩道を通る人が怪訝な面持ちで、彼を眺めていく。

数日後、T警察署に正志が入っていった。
金髪、黒の皮ジャンはいつものままで、つかつかと当たり前のように警察署に入って来た彼を見て、驚いた署員が、彼に何かを聞き出そうとしたが、横にいた別の署員が耳打ちをすると、その署員は知らぬ顔で彼を通してくれた。
署長室の扉をいきなり開けた。
そこには少し驚いた表情の彼の父、康正の制服姿があった。
「どうした、正志、警察には来るなといっただろ・・」
「親父・・教えて欲しいことがある・・」
「なんだ・・珍しいじゃないか・・どうせろくでもないことだろう・・」
正志は父の前の椅子に座り込んだ。
「ろくでもないこと・・かもしれないなあ・・幼稚園の先生になるにはどうすればいいんだ?」
父、康正はしばらくそのまま黙っていた。
思いもよらぬ相談だからだ。息子が本気だとはとても思えなかった。
「しかるべき大学にいって、免許をとって、それから就職させてくれる幼稚園があればなれる」
「男でもなれるのか?」
「いまは、なれるはずだ・・雇用機会均等法というのがあっただろう・・しかし・・何故そんなことを聞くのだ?」
「その大学は、オレには入れるか?」
息子は父の顔をじっと見つめている。
「お前が、昔のような頭を、今も持っていたら・・お前なら入れるだろう・・」
「金はかかるか?金がかかるのだったら、それは出してくれるか?」
父は黙ってしまった。
二人の間に見つめあう時間だけが過ぎる。
「金は出してくれるのか?」
「なんだ・・やはり金の無心か・・」
「違う!」正志は父を睨みつけた。
「本気だ・・金は出してくれるか?」
少し間をおいてから、康正は答えた。
「お前がまともに生きていくための金なら、いくらでも出そう・・」
「本当か!親父・・ついでにもう一つ頼みだ!」
父、康正は息子を見つめた。
「二人分出してくれ!俺の友達に金がなくて、試験のためにアルバイトしているやつがいる!そいつの分も出してくれ!」
「お前の言っていることが本当で、お前が真剣にそれを考えているのなら、それくらいは訳のないことだ」
「本当か!」
「本当だ・・お前の言っていることが本当ならば・・だ」
「ありがとう!親父!」
正志は署長室を飛び出した。
車のエンジンをかけ、いつものように一気に発進させようとして、気がついた。
署長である父の顔に泥を塗ってはいけないと・・
これまで、父親の顔は泥を塗り、踏みつけるためにあったといっても良かった。
父親の言うように勉強をし、父親の言うように身体を鍛えた。
父親の言うようにして・・受験に失敗した。
彼自身の油断や、不運を考えたことはなかった。
彼は、ゆっくりと、静かに、警察署の駐車場を出て行った。
父、康正は、その頃、署長室でひとり泣いていた。男泣きに泣いていた。

警察署近くの高校
学生達が一日の授業を終えて、校門から出て行く。
正志はそれを眺めている。
生徒達は学校前に突然、現れた不気味な男に、声をひそめ、刺激しないよいうに気をつけて、ひっそりと通り過ぎていく。
やがて、松葉杖をついた少女が現れた。
「やあ!」正志が声をかけた。
先日の少女だった。
「あ・・この間は本当にありがとうございました・・お母さんがお名前も聞かずにって・・」
「いいよ・・今日もアルバイトにいくのかい?」
「いえ・・この足では自転車はこげないし、しばらくお休みさせてもらうのです」
「それは仕方がないなあ・・」
彼は少女には軽く笑みを見せた。
「送るよ・・歩くの大変だろ・・」
彼はそう言って、少女を自分のクルマに案内した。

「由香ちゃん!」
少女が振り向いた。教師が彼女を呼んでいる。
「その人は?」
「この間、助けていただいた方です!」
そう・・気をつけてね・・教師はそう言ったあとも、彼の車が動き出すまでそこで見ていた。
メモをとっているようだ。
「ナンバーをひかえているみたいだな・・あの先生」
「そりゃあ・・怖いお兄さんが迎えに来たんじゃあねえ・・」
少女はそう言ってくすくすと笑った。
「俺は怖いか?」
「怖いですよ・・ぱっと見たら・・でも本当はすごく優しい・・」
正志は少女に軽く笑みを見せた。
「もう・・バイトに行かなくていいよ」
正志が突然、何の脈絡もなく、そう言う。
「ダメですよ・・私、お金を作らないと・・」
「俺も大学を受ける・・君の分も資金を出してもらう・・俺の親父から・・」
少女は訳がわからないという顔をした。
「俺も幼稚園の先生になってみたくなった・・だから俺も君と同じ大学を受ける・・構わないだろ?」
「はあ・・」
「今から、俺も勉強する・・大丈夫だと親父も言ってくれた・・」
「はあ・・でも・・」
「なんだ?」
「私の受験するところは女子大ですから・・男の人は・・」
彼が笑い出した。
笑いながら、こんなに大声で笑うのは何年ぶりだろうと思った。
「じゃあ・・オレは別のところを受験する・・それでも君の費用は出すから・・」
「はぁ・・」
少女は怪訝な表情で運転する彼の横顔を見ている。
「今日は暇か・」
「はい・・バイトがないですから・・でも・・勉強をこんなときにしておかないと・・」
「ちょっと付き合え・・」
正志はクルマを海岸に向けて走らせた。

「由香って言うのか?」
「あ・・はい・・下村由香です」
「俺は甲斐正志ってんだ・・よろしく」
彼がいつもやってくる漁港近くの駐車場に車をとめた。
「きれいな海岸ですね・・」
「来たことがなかったのか?こんなに近くなのに・・」
「はい・・噂には聞いていましたけど・・ここに来たのは初めてです」
「降りるか?」
正志はそう言って由香を抱き上げ、外に出した。由香は、慣れない松葉杖を扱いかねるように、そろりと歩いている。
岸壁に降りそそぐ冬の日差しは、暖かく、気持ちがいい。
すでに夕方近く、短い冬の太陽はかなり水平線に近いところまで降りてきていた。

「俺・・幼稚園の先生になれるだろうか?」
くすくすと由香が笑っている。
「何が可笑しい?」
「だって・・勉強はすれば大学には入れるでしょうけれど・・」
「じゃあ・・いいじゃないか・・」
太陽の色がオレンジ色に染まり始める。
空の色が少し深くなる。
「そんなに・・怖い格好をしていたら・・子供たちが寄り付かないですよ」
そう言って由香は声を上げて笑った。
正志は始めて自分の風貌を思い浮かべてみた。
「なるほど・・そうかもしれない・・」
そう言って彼も笑った。

「正志だ!」
少年らしい声が聞こえる。
正志が振り向いた。
いつも、見かけるたびにいじめ回している少年たちだった。
少年たちは3人連れだった。
「来い!」
正志が叫んだ。
「やめて!」由香が正志の足にしがみついた。
由香の手をそっと外して、正志は猛然と少年達の方へ走った。
「俺から逃げられるはずがないだろ!」
少年達は逃げようとするが、そのうちのひとりが正志に首根っこを押さえられた。
捕まえた少年を正志は地面に押し倒した。
「やめて!」
由香の叫びが聞こえる。
正志は少年を睨みつけた。少年は勘弁したように目を瞑っていた。
あと二人は遠くから見ているだけだ。
「俺の前に、姿を見せるな・・オレはもう、お前達には構わない・・」そう言って、少年から手を放した。
少年は引きつったような表情で、正志を睨んでいる。
「消えろ!」
次の瞬間、少年は正志の足を蹴り上げた。
正志が倒れた。少年が正志に馬乗りになり、正志の顔を殴った。
少年の仲間もやってきた。
彼らは3人で、散々に正志を殴りつけ、蹴った。
正志は何もしなかった。殴られるに任せていた。
やがて、やおら立ち上がり、少年のひとりの胸倉を掴んだ。
そのまま少年の体を持ち上げる。
「もう・・気が済んだろう・・これ以上はオレは我慢しないぜ・・」
そう言って少年を睨みつけた。
正志が手を離した。
少年達は次の瞬間には走って逃げていた。

正志は少しよろけながら、由香のところへ戻った。
「大丈夫ですか・・怪我が・・」
顔中傷だらけだ。血も出ている。
「いいよ・・これぐらい・・あいつらも、いつも殴られるより、たまに俺を殴った方が気も晴れるだろ」
正志はそう言って笑った。
「あ・・その顔なら、子供がついてくるかも!」
由香が笑った。
「なんだよ・・子供は不細工な顔の方がいいってことかい・・」
正志もそう言って笑った。
ちょうど夕日が沈む頃だ。
正志は由香の顔を見た。
きれいな瞳をしている・・おれも、あんな瞳ができるようになるだろうか・・
少し風が出てきた。
「あの・・ひとつだけ・・いいですか?」
由香が正志に少し言葉を選びながら訊く。
「なんだ?」
「私・・学校に入るためのお金は自分で、用意したいんです・・」
ああ・・そのことか・・変わった娘だなぁ・・
そう思いながら、正志はかつてなかった穏やかな気持ちで、海を眺めていた。


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