story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

おやじ

2004年12月12日 14時51分40秒 | 小説
私は冬の寒い夜、自宅で焼酎のお湯割などを軽くやっているといつも、ほぼきまって、おやじのことを思い出すのだ。
おやじとは、他の誰でもない、私の、自分の父のことである。

おやじは私とは違ってウィスキーのお湯割が好きだった。
ウィスキーのお湯割を機嫌よく飲みながら、目の前にいる私達兄弟姉妹にさして面白くもない冗談を飛ばして無理に笑わせるのが好きだった・・おやじ。
私の家庭は、私が覚えている限りにおいては、ずっと貧乏だった。
時には生活保護を受けなければならない状況に追い込まれたりもしていた。
それは、みさかいなしと言っていいだろう、たくさんの子供と、おやじ自身の無計画な相次ぐ転職によるものであったけれども・・

おやじ・・満男は、昭和12年1月、東京本郷の一角で生まれた。
母親、静江と、本来の父親精一は、将来を約しあって栃木・佐野で暮らしていたが「女は若いうちは稼ぐもの」という静江の母、フデによって別れさせられていた。
静江は泣く泣く故郷を捨て、身重の身体を引きずって東京へやってきた。
大きなお腹ではいくらも働けない・・けれども静江は持ち前の明るさと、頑張りとで華やいだ世界の中でめきめき頭角をあらわし、満男の出産で数日休んだ以外は、お座敷の仕事も欠かしたことがなかった。
満男が生まれると、生まれたばかりの子供は貰い乳に出され、静江はすぐにお座敷に戻ったばかりか、当時、急速に発展しているかのように見えた満州へ稼ぎに行かされる事になった。
このときの、満州への出稼ぎがどこぞのお大尽による勧めか、それとも静江の母フデによる勧めか、はたまた静江自身の希望だったのかは、私には分からない。
とにかく、生まれてすぐ、東京の本郷で満男は祖母と二人きりになってしまったことだけは確かであった。

静江は気になるのか、満州からでも母と息子の下へ時折、仕送りもしていたし、息子が好きそうなおもちゃや着物なども送ってよこしたりはしていた。
昭和も16年ごろになると満州では時局に敏感な者は、戦争の匂いをかぎだしていた。
静江も、あるお大尽から「国へ帰るなら早めに帰ったほうがよい・・」そう忠告されたという。
そうでなくとも、彼女にも、きな臭さは伝わっていた。
静江は意を決して、満州から帰国した。
ただし、日本に帰ってきただけであって、彼女が居着いた先は息子のいる東京から遠くはなれた神戸であった。
神戸の店でお大尽に可愛がられ、けれども神戸のあまりの埃っぽさに嫌気がさし、彼女は大阪へやってきた。
当時、彼女を可愛がってくれたお大尽の一人に、高名な画家がいて、その人が大阪へ移る手助けをしてくれたそうだ。
ここで、当時鉄道マンだった草野と出会う。
草野は野心の多い人物で、鉄道に勤める傍ら、戦時で不足しがちな物資を闇に流しては金を溜め込んでいた。
けれど、商売のあくどさ以前に草野は静江には優しかった。
彼にはすでに妻もあり、小さな娘も二人あったものの、やがて、草野は妻と別れ、静江と暮らすようになる。

戦争の風は、静江の心に不安をもたらした。
大阪の町もきな臭くなっていく。
静江は息子、満男を東京から呼び、共に暮らすことにした。草野の快諾があってのことだ。
満男、まだ五歳・・甘えたい盛りの小さな息子は、母と共に暮らせることに期待を抱いて、祖母に連れられ、東海道線の長旅をして大阪にやってきた。
やっと母と共に暮らせる・・大阪駅で「お母ちゃん」と抱きついたのも、その時限り、彼には突然、二人の妹が出来ていた。
静江は優しくしたい息子には厳しかった。あえて厳しくしていた。
それは草野の二人の娘を満男よりも可愛がることで、戦時の大阪で、生き抜こうとした本能であったに違いない。
満男まだ五歳・・大阪で、ひとりぼっちだった。
甘えは許されず、母は厳しく、義父は容赦がなかった。
自分だけが妹達とは違うものを食べさせられた。
「おまえは、男だから、これくらいは我慢しなさい」母、静江のいつもの言葉だった。
草野の一家は大阪、道頓堀の片隅で生活をしていた。
鉄道を辞め、折角建てた八百屋が、空襲で跡形もなく消えてしまった。
空襲の中、満男は妹二人の手を引いて必死で逃げた。
義父や母を見失わないように必死で逃げた。
赤い空・・空襲とは、戦争とは空が赤くなること・・
一家はその後、奈良に逃れて終戦を迎えた。

戦争が終わって、平和な暮らしが帰ってきた。
食料難は草野の器用さで乗り切っていった。草野は始めは八百屋をバラックではじめ、やがて、食堂を建てた。
みどり食堂はミナミでは芸人達に愛される有名な食堂になっていった。
それは、草野よりも静江の働きが大きかった。
ある日、草野が機嫌よく外出から帰ってきた。
「みやげや!」そう言って投げてよこした風呂敷にはどこぞで貰った饅頭があった。
「おい・・食べろよ・・」草野は娘二人に饅頭を与えた。
饅頭はまだ残っている。
「僕も!」
満男が伸ばした手を、草野は振り払い、残った饅頭は自分が食ってしまった。

満男は優秀な子供だった。
勉強も良く出来たし、弁も立った。
母、静江はろくに学校も出ていなかったけれど、お座敷ではお大尽も舌を巻くほどの時勢感を持っていたが、満男もまた、静江譲りの頭の良さを持っていたのだ。
けれど、弁がたつぶん、義父草野に逆らうことも増えてくる。
如何なる場合も草野に逆らうということは、静江には許容できず、その都度、息子を思い切り叱り飛ばしていた。
満男は家を出ることを考えるようになっていった。

中学を卒業すると、満男は家を出た。
神戸の理髪店に住み込みで働きながら、理容学校へ通ったのだ。
この理髪店で、満男は同じように住み込みで働いている留美子に恋をした。二人は二十歳前にすでに結ばれていた。
やがて留美子のお腹に子供が出来る。こうなると住み込みで働くわけにも行かず、神戸、湊川のはずれ、バラック立ての二階の部屋を借りた。
小便の匂いが立ち込める、廊下には砂が散らばるアパートだったが、二人には希望の家だった。
留美子のお腹の子供は二人目まで流産した。三人目が私だ。
場所柄、アパートにはやくざ者も住んでいた。時折聞こえるピストルの音、誰も珍しく思わない血まみれの怪我人・・神戸の闇の部分を凝縮した様な場所で、二人は三人まで子供をもうけた。
生活は苦しく、それでも夢があった。
この時期、満男は様々な人間関係を作っていった。警察官、やくざの親分さん・・

理髪店では生活が成り立たなくなり、満男は転職を決意する。
神戸らしい、港湾荷役の仕事だ。
知り合ったやくざものからの勧めもあったのかもしれない。
仕事はいくらでもあった時代だ。男一人、身体一つあれば、食うには困らないはずだった。
ここで、満男は組合運動に傾倒していく。
自分が貧しいのも、不幸も全ては帝国資本主義のせいである・・満男は社会主義運動にのめりこんでいった。仕事をそっちののけで街宣車に乗り込み、街を走った。
社会主義革命目前にあり・・そう信じて走り回った。
走っても走っても革命は近づいてこず、時代は彼の思いの反対へ、帝国資本主義の方向へ進んでいく・・少なくとも満男にはそう思えた。
始めはその憂さを晴らす酒だった。
革命が、呑めば近くなる気もした。
革命が出来れば、俺達労働者の時代だ。俺達の階級の時代だ。
本気でそう考えたけれど、労働者の時代は遠のくばかり・・思いは夢に、夢は幻に、・・幻は追いかけても近づけない・・そのことには気がつかなかった。
革命はともかく、満男は子沢山になった。
4人目の子供が生まれた。続いて5人目、5人目の子供はすぐに死んでしまう。
そのあと、会社の人事異動で満男は大阪へ転勤になった。
またあの町・・少年時代に苦しんだ大阪へ行くのは気が引けたが、会社の命令とあればやむをえない。一家は神戸から大阪・築港へ引越しをした。

大阪での生活にも慣れたある日、満男の職場の同僚が自殺した。
なんと、満男の引き出しに入っていた判を使って、多額の借金を残していた。満男は会社を退職し、退職金で友人の借金を支払った。
このとき、満男は神戸、新開地で親しくなった親分さんに頼ろうかとも考えたが、まだ、その時ではないと思い直したという。
一家は路頭に迷うかに見えたけれども、誘ってくれる人もあり、以前の会社のライバル会社に入ることが出来た。
けれども、人間関係でつまづいた。
酒の量が増え、昼間から酔っ払っていることもあるようになった。
仕事は半年ももたなかった。
6人目の子供も生まれて、しばらくして死んだ。
何かが狂い始めていた。それが何かわからなかった。
自分の力を信じたかった。けれども自分には何の力もなかった。
頭のよい男だから、自分の力を、冷静に見つめることは出来た。
けれどもそれを受け入れることは出来なかった。
自分の力のなさを、思い通りに行かない人生への思いを、安物のウィスキーで紛らわせるようになったのもこの頃だ。
その会社では半年持たず、満男は流れるように、泉州の製鉄会社の下請けへ、親戚を頼って入っていった。
けれども、親戚とはいえ・・親戚であるからこそかもしれないが、人は冷たく、給料は生活することも出来ない安さだった。
酒は増える・・しまいに呑まないと仕事に行かなくなった。
酒は彼に酔いは与えたけれど、確実に彼の体を蝕んでゆき、彼の人生を狂わせて行った。
時々、血を吐くようになった。
ある日、いつものように晩酌をしていた満男のこめかみから、急に血が流れ出した。
「あれ・・あれれ・・」満男は体調の異変に気がついたが、だからといって酒の量が減ることはなく、むしろ増えていった。
そんな中で、また続けて子供が生まれた。
7人目、8人目の子供は、親の苦労があっても、すくすくと育っていった。
ある日、草野に会って欲しいと、静江が満男に伝えてきた。
草野には、もう15年も会っていなかった。
満男は、長男を連れ、入院していた草野に会いに行った。草野はすでに脳軟化症で、ものをまともに言うことが出来なくなっていた。
病床の草野に、満男は「息子です・・」そう言って、長男を見せた。
長男をしばらく見ていた草野は、突然泣き出した。
「遅いよう・・遅いよう・・ごめんよう・・ごめんよう・・」回らぬ舌で、必死にそう言いながら、大泣きしていた。

それからまもなく、昭和48年1月、満男をかつて苦しめた草野が死去した。
草野は、退院してからも、脳軟化症が良くなるわけもなく、自宅で横になりながら、時折、散歩をすることが日課になっていた。この日も、ふらりと杖をついて、いつもの散歩に出かけたのだが、道頓堀のほとりの橋の袂で、石に腰掛け、休んだ姿勢のまま亡くなっていた。
その頃には「みどり食堂」は、すっかり、静江の店になっていた。
静江の、いかにも関東者といったキップのいい人当たりと明るさは、自然に道頓堀の中で、彼女の存在を大きなものにしていった。
草野が病床にある間も、亡くなってからも、みどり食堂の経営には全く差し障りはなかった。
満男は葬式のあと、何を思ったか、彼が会いたい人々に全て会いに行くための旅をした。
名古屋、東京、佐野、会津若松・・彼は義父の死を見て、自らも死期の近いことを悟ったのだろうか?

旅行から帰ると唐突に満男は会社を辞めた。親戚がやっていた会社だ。辞めるに辞められない状況で無理に辞めた。
就職活動を始めた。けれども、郵便物を止められてしまい、連絡が来ない。
そうこうしているうちに、時間は過ぎる。
今なら、いくら会社の経営者といえど、郵便物を止めるようなことをすれば世間からの指弾もあると思うが、当時は、どうしようもない状況だった。満男は困り果てて、昔知り合った、新開地の親分さんを頼ってみることにした。

親分さんは満男を見て泣いた。
手が震え、アルコール中毒の様相を呈し、顔色は黄色く青く、肝臓がすでに、かなり悪くなったことを示していたからだ。
「ミツオ・・お前、何でもっと、早ようにワシの所へ来んかったんや・・」
泣きながら、かつての盟友の肩を自らなでた。
満男の横にはもう小学校を卒業するかという長男が(つまり私が)いた。
「子供は何人おるんや」
「この子を頭に6人です」
「あほやなあ・・お前は・・ホンマに阿呆や・・こないになるまで・・エライ目してからに」
親分さんは涙を隠さず、そばにいた私にも、いくばくかの小遣いを持たしてくれ、その場で、加古川の会社へ満男の就職を斡旋した。

加古川・・満男が留美子と暮らし始めた頃、人の勧めで、この町の片隅に小さな理髪店を出したことがあった。
けれど所詮田舎ではあるし、余所者である。
店は続かず、満男には借金だけが残った、苦い思い出のある町だった。

春の花が曇り空に揺れる加古川・別府の駅に降り立った大家族を待ち受けていたものは、満男の急激な体調の悪化だった。
苦しく、腹と胸が痛む満男は、きついウィスキーでその痛みを紛らわせた。
紛らわせてはそのまま仕事に出かけていったけれども、そんな状態でいつまでも続く筈がなかった。
4月に加古川に移り、7月を待たずに満男は倒れてしまった。
病院には行くが、入院の必要を医師から聞かされても満男は拒み続けた。
薬と酒を一緒に飲む日が続いて・・ついに大出血を起こした。
満男は救急車で姫路市の病院に運ばれ、そこで1週間ほど入院した後、この世を去った。
入院後は苦しくて暴れるか、意識が泣く昏睡しているかのどちらになってしまった。
緊急で手術をすることになったが、担当の医師は「この人は生きようとする生命力がまったくない・・まるで死に急ぐかのようだ」とつぶやいた。
亡くなる前の日、一瞬、目が醒めた満男は、見守る妻に長男はどうしているか訊いた。
「あなたの病気平癒祈願に、堺の神社へやっています」
妻がやっとそう答えると「可哀想になあ・・」そう言って、また目を閉じたという。

私はおやじの死に目には会っていない。
病気平癒祈願を済ませて、ようやく親戚と共に病室に入った私を待っていたのは、母の泣き声と、おやじの名を呼ぶ親戚の声だった。
タッチの差で、私は間に合わなかったわけだ。
それからが大変だった。
とにかく子沢山で、子供達は親戚の家に分けて預けようと、親戚達が話し合ったそうだが、私の母、留美子がそれを拒み、結局家族一同、そのままで暮らすことになったのだが、それからの母の苦労話はまたの機会に譲ろうと思う。

私もおやじに似て、酒飲みの部類に入るようになってしまった。
こうしてほぼ毎日、焼酎のお湯割などを舐めてはいるけれど、おやじのよく飲んでいた安物のウィスキーには手をつける気になれないのだ。
少なくともそれくらいは、おやじが身体を張って教えてくれているのだと自分に言い聞かせ、酔いが過ぎるほど呑むこともないように気をつけている。
おやじは確かに酒が元で、身体を壊したのだけれど、その酒は何が元であったのか・・
戦争か、戦後の不安定な時期か、それとも、なるはずのない革命か、あるいは沢山の子供か・・
子供が多いのが嫌なら、いくらでも子供をつくらずにすむ方法もあったろう・・それにおやじは心底、小さな子供に接している時が嬉しそうだったように思う。
子供は本当に沢山欲しかったのかもしれない。
それは自らが、かなえることが出来なかった人生を泳ぎきる可能性を、沢山の子供に託したかったのではないだろうか・・

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