story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

西向く侍

2010年04月21日 15時20分48秒 | 小説

本作品は拙作「武士一人」http://blog.goo.ne.jp/kouzou1960/d/20041110

「神吉城」http://blog.goo.ne.jp/kouzou1960/d/20040725

を結ぶ作品であり、両作品もあわせてごらんいただけると幸いです。

また、「十六の母・・諏訪御寮人異聞」http://blog.goo.ne.jp/kouzou1960/d/20050917にも一部関連しています。

*岡崎城*

永禄6年夏、あの桶狭間の戦いから3年が経過していた。
岡崎城本丸に呼び出された高谷秀重は、所在投げに周囲を見回す。
お呼び出しの用向きは分かっている。
だが、彼はその用向きに応えるつもりはなかった。

桶狭間の戦いで今川が敗れて以来、今川義元の馬回りだった秀重は、敗軍について駿河へ戻ることを潔しとせず、故郷、尾張の寒村で老母を手伝い、百姓をしていた。
織田を仇敵とするのだ。
今川を最後まで仇敵とした、あの桑原甚内のように・・

そうは思っても、ではどこへ行くのか・・
駿河の新しいお館である今川氏真は親の仇を討とうというほどの器量は持ち合わせていないらしい。
さらに、彼が戸惑ったのは、彼の本来の主君であるはずの松平元康のことだった。
彼の目には義元は、同じ源氏の血をひく名家として松平を認め、元康にも多大な期待をかけていたように映っていた。
その今川を立てぬどころか、元康にとっての主君の仇であるはずの織田信長と同盟を結び、今川に敵対したのが彼が絶大な信頼を寄せる元康である。

もう、侍は嫌になった・・

まだ二十三歳の若さである秀重は、本来、彼が持っている一本気の故か、そう考えるようになっていた。
だが、義元に見出され、馬回りまで勤めた秀重である。
田畑を耕していようが、お城からは何度も出仕の命が届いていた。

ついに、「火急にて城内に参内せよ」との命を受け、それを断ると彼の家族に害が及ぶやも知れぬと、彼は意を決して岡崎城に向かったのだ。

だが、かつての主君であったはずの元康に会うことには非常な懐かしさを覚えるとともに、多分、意見が違うだろう気の重さは彼を苦しめた。

「それにしてもだ・・」
秀重は呟いた。
岡崎城のこの静かな雰囲気はどうだ・・
本来の主君を迎え、これまでの気の重さを取り払ったかのような平穏さは、かつての駿府城にもなかった寛ぎに満ちていた。

開け放した戸板から、庭の光が差し込んでくる。

「待たせたな・・」
静かな声が聞こえる。
懐かしい主君の声だ。
「元康様・・」
そう言ったあとは言葉にならない。
「ずいぶん、久しぶりだった・・何度も出仕の命を出していたのだが・・御身の母上殿は息災か?」
「は・・・」
顔が上げられない。
やはり彼にとって大事な主君であり、懐かしさと申し訳なさで彼の心は占められてしまう。
「それはそうと・・わしはもう、元康ではない・・」
え・・?
秀重はその言葉にようやく顔を上げた。
「わしは、今は家康と名乗っておる・・こうして自分の家に帰ったからの・・」
「家康様・・でありますか・・」
「おう・・素直に家と康だ・・我が松平が安らかである様にな・・」

元康という名は今川義元から頂いた名前だと聞いたことがある・・殿は、その名を捨てられたのか・・秀重は暗い気持ちになった。
「それはそうと・・」
「は・・」
「今一度、わしの元に入れ」
それは入らないかという誘いではなく、入れという命令だった。
彼はまた俯き、しかし、返事をしなかった。
「嫌か・・なぜかな?」
穏やかな主君の声が耳に響く。
彼は言葉を発せられない。
「嫌というのならその訳を聞こう」
「は・・」
「わけを聞いたとて、そのわけがどうあれ、わしは御身をなんともせぬ・・安心してわけを話せ」
秀重はゆっくり顔を上げ、家康の目を見つめた。
主従は互いをじっと見つめあう。

「殿様、我らが松平は、源氏の一党でおざります」
「ふむ・・」
「駿府のお館様も、殿様を高く評価しておられたように思います」
「それはどうかな・・」
「駿府のお館様がお打たれになったとき、殿様は・・仇である織田を攻める立場にあられたのではないでしょうか・・」
「やはり、そこか・・」
「は・・」

家康は彼のほうから秀重に近づいてきた。
お互いの声はお互いにしか聞き取れない近さである。
「はっきり言おう・・」
「は・・」
「確かに、御身の言うとおりであろう・・それがごく普通の世間の見方であろう」
「は・・」
「だが・・今は戦国である」
「は・・」
「わしとてもこの乱世に誰かの下で生涯を終える気はない」
「は・・」
「今川殿の下にいる限り、わしはいつまで経っても今川の与力でしかない」
「・・・」
「わかるか・・わしは我が源氏の本拠である関東へ向かいたい」
「・・・」
「それには京へ行こうとする今川の配下であってはならんのだ」
「されど・・」
「なんだ・・」
「では、織田と手を結ぶことがそれを叶えることになるのでございますか?」
「先はわからぬ・・だが、今のところはそうなる」
「何故でございますか?」
「信長殿は都へ向かう・・わしは信長殿と背中合わせに東へ向かう」
「・・・」
「お互いに干渉はせぬ・・だが相互扶助はできる」
「・・・」
「織田殿は平家の筋だと聞く・・だったら、織田が都へ上るのは不思議ではない」
「されど、殿が東へ向かわれるということは、今川殿を超えていかれるということになるのでは・・」
「そうだ・・わしは更に武田と結んで今川氏真殿を追い落とす・・」
「それでは、義元殿の仇を討つどころかまったく真逆」
「さよう・・一応はそう見える」
「一応ですか・・」
「思えば、義元殿は方向性を見誤っていたのではないか・・我が源氏は都にいると軟弱になる」
「なんとも、拙者ごときには理解いたしかねます」
「わしは、義元殿の都かぶれが好きになれなかった」
「都かぶれでございますか・・」
「鉄漿だの蹴鞠だの・・ましてや、武士たるもの、輿に乗って行軍とは・・」
家康は吐き捨てるように言う。
「しかし、義元殿は総大将・・しかも将軍に次ぐお家柄・・」
「家柄などこの乱世には何の関係もない・・家柄だけで天下を治められるのであれば、足利将軍家は今のような混乱を招かずに済んだであろう」
「混乱は将軍の責任ですか」
「さよう・・都かぶれした武士が、貴族どもの言いなりになって浮かれているからこそ、今の乱世があるのよ」
「・・・」
「都は貴族に任せておけばよい。織田が都に行きたいというなら、それはそれでよい・・あやつはあれで、結構覚めた目で都を見ておる・・」
「・・・」
「源氏は東国で武士の棟梁たるべし・・わかるか・・秀重・・」

言いたいことを言い切ったかのように家康はふっと目をそらした。
庭の緑がまぶしい。

「それでも、わしの元へ参るのは嫌か・・」
秀重にはまだ釈然としない思いが残る。
それは殿のこじつけの屁理屈ではないのか・・
彼はそう言いたかった。

「もしも、嫌なら仕方あるまい・・ただ・・一つだけ、わしの仕事を引き受けてくれぬか」
「・・・」
「今川の食客となっておられた武田の先代、武田信虎殿が都へ向かわれる・・もう、今川は武田と手を結ばぬそうだ」
「さようでございますか」
「うむ・・今川のものどもが、遠江と三河の国境まで信虎殿を送ってこられる・・我らは信虎殿を京までお送りするのだ」
武田信虎・・あの桑原甚内を虐め、我儘放題に振舞った老武士・・その警護か・・
そう頭の中で考えるより先に、彼の口から言葉がこぼれた。
「信虎殿の都までの警護、謹んでお勤めさせていただきます」
家康は少し寂しそうな表情で、頷き、彼を見つめた。

秀重は岡崎城を辞し、彼の生家へ向かう。
城下町を離れ、田植えが終わり、稲の葉が伸びている夏の風景を見ながら、複雑な気持ちで歩いていた。
これで、都に行ったあと、俺はどうすればよいのか・・
織田を打つ・・
ならば、そこから織田の相手方へ潜り込まねばならない。

畦の端で武士が立っていた。
殺気は感じない。
「高谷殿・・」
武士が彼に声をかけた。
「まさしく、拙者は高谷秀重でありますが・・」
「お久しぶりよの・・わしが判るか」
秀重は武士を見つめた。
壮年といってよい風貌のその武士の顔に見覚えがあった。
「半蔵殿ですか・・」
「さよう・・」
「これはこれは、お久しぶりでございます」
「信虎殿のお供で都へいかれるとか・・」
「さきほど、お館様より、その命を受けました」
「では、都でまたお会い申すとしよう」
「都でですか・・」
「さよう、そのときは、貴殿もお覚悟あれ」
武士はそういってかすかに笑う。
秀重は状況を飲み込んだ。
服部半蔵は家康の影の部下である。
表向きは侍大将ということになっているが、その実態は忍者であるとも聞く。
「では、都で・・お互いそれまでは息災でいたいもの」
「さよう・・さすがに判っておられる」
半蔵はそういったかと思うと、空を指さした。
次の瞬間、彼は姿を消した。
今まで、そこに彼がいたことすら感じさせない早業だった。

*東海道*

数日後、秀重は東海道を行く少人数の先頭に立っていた。
一行は馬に乗った武士数人、それに女のものらしい輿が二丁、徒が数人である。
もう齢六十を超えるはずのこの行列の主人は馬上豊かに少人数の行軍を進めていた。
引き締まったその表情の持ち主は武田信虎その人である。
「高谷殿とやら」
「は・・」
大声で後ろから叫ばれ、秀重は馬を並べた。
「貴殿はずいぶん若いな!」
「は・・二十三でございます」
「若いのう・・うらやましい・・その若さなら何でもできるぞ」
「は・・」
「我が晴信も若いが・・あれは若いくせに老人のような男だ」
「さようでございますか・・」
「うむ・・戦や政事は老人のような男だが、女への欲情だけはわしに似ておるらしい」
「なんと申し上げてよいか・・」
「高谷!」
今度は呼び捨てである。
「お前も女を抱け!その若さならいくらでも女を抱けるぞ!」
「は・・」
秀重は苦笑しながら聞いていた。
「女と睦みあいながら、それまでの自分をきれいに流し去ってしまうのじゃ・・新しい自分がそこから生まれる」
「そのようなものでしょうか」
「そうだ!そのようなものよ!」
信虎は空に向かって大声で笑う。
秀重はこの老武者に好感を抱いた。

その夜、宿で信虎はしこたま飲んだ。
秀重もいくら飲んでも酔わない口である。
「お前は強いな」
信虎が秀重に酔った目を向ける。
「何がでございますか?」
「酒よ!」
「強いのでございましょうか?」
「強い強い・・お前の酒の飲み方はまるで水を飲むようじゃ」
「水でございますか・・水はこれほどたくさんは飲めませぬ」
そういうと信虎は豪快に笑った。
「おう、わしの若いころに似ておるぞ!」
そうはしゃぎながら、老武者は若武者に濁酒を注ぐ。
秀重と出会ってからの信虎は終始ご機嫌である。

甲斐の山野での武勇を聞かされるが、それまた秀重には興味の尽きない話であったし、信虎の目から見る今川義元や氏真、武田晴信の評もまた独特の人物感で面白く、夜が更けるまでの酒のお相手は苦痛ではなかった。
「今宵は非常に愉快である」
「それは良うございました」
「さすがに喋り疲れたわ・・これほど喋ったのは久しぶりのことよ」
上機嫌の老武者はさすがに疲労感をにじませている。
「それでは、明日も早うございますゆえ、このあたりで」
そう促すと、信虎は素直に立ち上がる。
「今宵は志乃を・・」
そう言いながら、秀重を見て、笑顔をもらす。
「今からお供のおなごを・・ですか」
「さよう!それがないと眠れぬ」
大声で笑う。
志乃と呼ばれた女が、部屋に入って老武者の手を引く。
秀重は呆れながら、また酒を口に運んだ。

武田の総帥、晴信の実父である信虎の通過には、東海道沿道の各大名も静観を持ってこれにかかわらないように気を配った。
松平家康も挨拶に伺候するなどはせず、ただ、領内の通過を認めていた。
しかし、この一行に自らの配下を加えたことで、自然、松平と武田の関係、ひいては松平と同盟を結ぶ織田と武田の関係をうかがわせ、さらに、信虎を追い出した形になっている今川の行く末を見限る噂が広まりつつあった。

そのような噂は当然、信虎にも秀重にも聞こえてきたが、信虎は一向にそれに構う気配もなく、ただ酒を飲み、女を抱きながら夏の東海道を西上するのみだった。

*京*

京に到着した夜・・
幕府要人や公家との挨拶は翌朝になるため、仮の宿で一夜を過ごすことになる。
数日続いた酒豪の夕餉も今宵限りとなり、秀重は名残惜しさを感じながら信虎のそばで食事の伴をしている。
「高谷よ・・世話になったの・・」
信虎が酔いの回ってきた目で秀重に酌をする。
「もったいなきお言葉」
秀重もこの屈託ない老武士が好きだった。
「お前はこれからどうする・・家康殿の元へ帰るか」
秀重は首を横に振る。
「では、今川か・・」
「いえ・・」
「もし、どこにも仕官をしないのであればこのまま、わしの元へ留まらぬか・・」
「ありがたきお言葉・・」
秀重は言葉を詰まらせる。
「それも気に食わぬか・・どうされる・・」
「信虎様・・」
秀重は意を決したように信虎の前で平伏した。
「なんじゃ・・」
「信虎様であるからこそ、拙者の本心を申し上げます・・拙者、織田信長を討ちたい・・」
「ほう・・」
「されど、どのようにすれば信長を討つ方に加勢できるのかわからぬのでござる・・」
「わしは、織田と誼を結んだ武田の頭首のおやじであるぞ・・」
「それは分かっております」
「確かにな・・我が息子、晴信も本気で織田と結ぶつもりなどないだろう・・今は時の流れに従っているだけじゃ」
「は・・」
「今川はまもなく倒れる・・北条も当てになどならぬ・・真っ当、織田に対抗出来うる力を持つのは西国ではないか」
「西国でございますか」
「うむ・・」
「美濃の斉藤、近江の佐々木・六角などは・・」
「話にならぬ・・斉藤は家の中でごたごたがひどいと聞く、しかも、道三入道は信長を後継者であるとまで言っておったとか・・佐々木・六角などは家柄の高さだけが誇りだ・・家柄など過去の話だ・・家柄だけで人が寄ってくると信じておる連中の頭の中は、義元殿と同じだ」
「では・・」
「西国には毛利がおろう・・毛利の息のかかった別所、波多野、宇喜田・・武士の本分を守り、地道ではあるが政事、軍令、いずれも織田を凌駕しているのではないか」
「では、それら、毛利一党の元へ走るのがよいと」
酒を一口含み、信虎は言葉を続ける。
「されど・・今の日本に織田を凌駕しうる実力と運を持ったものはおらぬ・・せいぜい、一泡吹かせるのが関の山よ・・」
「たかが、尾張の田舎大名たる信長を、そこまで評せしめるのは何でございますか」
ふっと、信虎は肩の力を抜いた。
酒をあおり、空を見据える。
「違うのよ・・何もかもが・・」
「違うと申されますと・・」
「奴は・・他の武将と違うのじゃ・・己の領内の関所を取っ払い、民百姓を味方につけ・・されど、奴はどうも・・違うのじゃ・・」
「関所を取り払うことくらいは他の大名方でもなさっておられるのではないでしょうか」
「敵を追い詰めること魔王の如し、されど、部下への情けは仏の如し・・民には善政を敷き、敵対するものには血の粛清を行う・・」
「・・・」
「わしなど、もしも息子が晴信ではなく信長であったなら、甲斐を追い出される前に殺されておろう・・」
「・・・」
「奴は、道三の意を継ぎ、まもなく美濃を平定する・・道三入道は自分の息子ではなく信長に自分の仕事を継がせたのじゃ・・」
「その仕事とは・・」
「日本の再構築ではないか・・」
「再構築?」
「さよう・・その先はわからぬ・・わしごときではな」

翌朝、秀重は簡単な挨拶だけを済ませ、信虎の元を離れた。
別れ際、信虎は名残惜しそうに、けれども、かれに重みのある皮袋をくれた。
「放浪もよかろう、御身はまだ若い・・しかし、世の中には必要なものがある・・」
そういって渡してくれた袋の中身は大量の銭といくばくかの碁石のような金だった。
それがいくらになるのか、彼には判らない。
ただ、彼が数年を働いても得られないものであることだけは確かだった。

戦乱に明け暮れた京の都は荒れてはいたが、それでも、田舎侍には珍しい光景が広がっていた。
彼は、これほどたくさんの商人や僧侶が行きかう町を見たことがない。
それに、町には女性が多かった。
きらびやかな着物を着て楽しげに歩く女性の姿は、彼にはまぶしい。
思わず自らの姿を顧みた。
武士としては申し分ないはずだ・・
そう思うが、通りを行く人々の余裕に満ちた風体には圧され気味になってしまう。

町を外れ、ようやく田畑が見えるあたりで、彼は馬を降り、路傍に腰掛け、休もうとした。
鳶の声に空を見た・・そのときだ。
「高谷殿」
男の声がした。
「半蔵殿か・・」
人の気配をまったく感じさせず、服部半蔵はいつの間にか、彼の目の前に立っていた。
「主命により御命、頂戴仕る」
「主命か・・」
「さよう、松平家康殿の命により・・」
「裏切り者を処分せよとか」
「さよう・・」
そういうなり、半蔵は斬りつけてきた。
秀重は瞬時に身体を交わし、同時に刀を抜く。
「さすがだな・・」
半蔵はつぶやきながら次の一手に及ぶ。
秀重は腰を下げ、半蔵の足元を狙い刀を払う。
半蔵は飛び上がったかと思うと彼の後ろに回りこんだ。
「しまった」
秀重がそう思ったときには彼の背中に痛みが走っていた。
それでも、秀重は身体を交わしていた。
だが完全に刀を避けるのは間に合わなかったのだ。
血の流れる感覚が秀重を目覚めさせた。
瞬時に後ろへ向き直り、半蔵の動きを察して宙に刀を振った。
飛び上がっていた半蔵は刀を避けようとして転んだ。
半蔵の喉元に剣先を突きつけ、彼は動きを止めた。

「これまでか・・」
半蔵は観念したかのように彼を見つめた。
「殿に伝えよ・・」
「なにをだ・・早く殺せ・・」
「殺さぬ・・貴様ら忍者は何があっても生きる道を選ぶだろう・・だったら俺の言葉を殿に伝えよ」
「・・・」
「裏切ったのは俺ではない・・殿のほうだと」
「・・・」
「それともうひとつ」
「なんだ・・」
「殿の、家康様の武運を祈ると」
「わかった・・」
「武士の勝負に半蔵殿は敗れた・・これ以上は俺を追ってくるな」
「追わぬ・・」
その声を聞くと、彼は刀を下げた。
半蔵はまだ動かず、彼を見つめていた。
「俺は西へ行く・・」
秀重はそう呟くと、所在投げに立っている彼の馬にまたがった。
背中、着物に浮いた血のりがじわじわと広がっていくのを気にする素振りもなく、彼はゆっくりと馬を進めた。

*播磨国湯谷*

秀重は西国街道を西へと、馬を進めていた。
夏の日差しに照らされ、背中に受けた傷が痛む。
着物は血のりで背中に張り付いたようだが、それを取る気力もなく、彼はただ、西に向かって歩いていた。
尾張とよく似たのどかな田園風景が続く。
海の見える街道筋で、彼はついに顔をしかめた。
「痛い・・痛くて動けぬ・・」
馬をとめ、路傍で苦しむ彼を、街道脇で野良仕事をしていた農夫が見つけ、駆け寄ってきた。
「お武家様・・どうされた?」
「うむ・・たいしたことはない・・」
彼はそう言って立ち上がろうとした。
しかし、そのままそこで、気を失ってしまった。

気がつくと薄暗い土間で寝かされていた。
「気が付かれたかの・・」
老人が彼を覗き込んでいる。
「これは・・ここはどこでござるか」秀重が尋ねる。
「摂津の国、大石の街道筋でござります」
「大石といえば兵庫の近く・・」
「お武家様は、たいそうな大怪我をされておられた・・しばらくはこのお方の好意に甘えて養生されるがよいと思うが」
「あなたは・・」
「わしか、わしは医者やで・・この家のものが呼んでくださったのや」
医者の横に心配そうな農夫らしい男が座っていた。
「あなたが、お医者様を呼んでくださったのですか・・かたじけない・・」
「傷が癒えるまで、ゆっくり休んでいきはったら」
「かたじけない・・されど、武者などを匿うと碌なことはござらぬ・・しばし休ませていただいた上は、どこか湯にでも入りに行こうかと思うが」
「湯なら・・有馬か湯谷がありますが・・」
老医者がそういう。
「有馬はあまりにも名が知れておろう・・湯谷とやらをご教示いただきたい」
「何かご事情がありそうじゃな・・湯谷は、ここからほんの三里ほど、多井畑を越えた先でありますが」
「事情というほどではないが・・人目につかぬほうがよいかと思ってな」
服部半蔵が摂津まで彼を追ってくるとは思えないが、それでも用心に越したことはない。

数日、彼は農家で休ませてもらい、湯谷とやらへ湯治に向かうべく、この家をあとにした。
皮袋の中から幾枚かの銭を渡すと農夫は恐縮していた。
けれど、彼は嬉しかったのだ。
行き倒れの武士とあれば、落ち武者かも知れぬと役所に届けをされてもおかしくない時代である。
いや、いきなり首を切って適当に届ければ褒美もありつけたかもしれない。
その御時世に、報酬を求めず、彼を救ってくれた農夫のその気持ちが嬉しかったのだ。
「西国にはまだ、人の善性が生きている・・」
秀重は強くそう感じた。

穏やかな形の山並みが彼を迎え入れてくれるような気がしていた。

小さな峠を越え、山とも丘ともつかぬ盛り上がりの、その谷あいを進んだところに数軒の宿がある湯治場があった。
そこが播磨の国、湯谷である。
一軒の宿に入り、彼はここでしばらく逗留することに決めた。
粗末な湯殿の、老人であふれるその湯は、無色透明な今で言うラジウム泉だろうか。
小さな泡が常に浮き上がる湯船で、秀重は傷が癒えるのを待つ。
背中の傷は数日を経ずして快方に向かっているのが彼にも判る。

海が近い故か、ここは魚や貝類、昆布の類も豊富で、湯治場の路傍で売られているそれらもまた、彼の体にとってはよい薬となった感もある。
身体に力がみなぎってきたころ、年配の武士と思しき男から声をかけられた。
「ずいぶん、ひどい傷ですね・・なにか訳でもおありなのでしょうか」
「傷のわけを他人に話すほど無用心にはなれませぬ」
「これは失礼仕りました・・このごろは乱世とは名ばかりで、まともな戦もなく、不思議に思ったものですから」
「戦傷ではないのです・・」
「さようでございますか・・ではこれ以上はお訊ねすることはいたしませぬが・・」
「話すと長い話ですから・・」
そう言って秀重は笑った。
「わたしは、播磨の国・神吉城にお勤めしております、神吉ノ藤太夫と申します」
「拙者は高谷秀重と申します・・」
「高谷様ですか・・ずいぶんな美丈夫ぶりですな・・どちら様かにお勤めでございますか?」
「勤めはあったが、今は浪々の身・・」
そう言うと、藤太夫の表情が変わった。
なにか、見つけ物をしたというような表情になったが、その場は藤太夫はそれ以上は問わず、会釈をして別れていった。

その夜である。
秀重の宿に藤太夫が訪ねてきた。
「まこと、失礼とは思いますが、今宵はお酒でもご一緒させていただこうと思いましてな」
素焼きの小瓶をいくつも抱え、油紙に包んだ魚の干物を彼の前に差し出した。
「お怪我にお酒はよくありませんが、もう、随分、お傷も癒えなさっていると見ました。お近づきに如何ですか」
「酒は久しぶりです・・かたじけない」
秀重は素直に来客を喜んだ。
都を出て以来、何かに追われているかのような気持ちが抜けず、酒にも手が出なかったのだ。
「今朝方、お勤めがないとお伺いしましたが」
酒を飲み、魚を齧りながら藤太夫が問う。
「さよう・・さるお方にお仕えしておりましたが・・都で御役御免と相成り申しました」
「お仕事が済むと御役御免とは・・これまた冷たい仕打ちでござる」
「いやいや、それは違う・・拙者のほうからお暇を頂いたのです」
「なぜにまた・・」
「深くは聞かないで頂きたい・・ただ、西へ向かいたかったのです」
「西ですか・・」
「播磨、備前、安芸・・どこでも良うござった・・今の乱世に、気骨ある西国武士のどなたかにご縁があればと考えいたしております」
ほう、と藤太夫は膝を叩く。
「実はの・・わが神吉は播磨の国、印南郡にて、その地を支配して二百年・・先ごろ、頭首がまだ若い・・さよう・・ちょうど貴殿と同じ年頃の頼定さまになられたところにござります」
「別所様の配下でござるか?」
「さよう、いまは別所様の下にあり、滔々たる加古の流れを前に、実り多き平野を領し、神吉城という、さほど大きくはございませぬが難攻不落の堅城を構えております」
ま、一杯・・とばかりに藤太夫は秀重に酒を勧める。
久しぶりの濁酒は旨く、彼の身体に染み込んでいく。
「目先の利益にとらわれ、武士としての本文も忘れた者どもには、もう飽きたのでござる」
酒の酔いからか、秀重は本心の一部をいきなり喋りだしてしまう。
「西国武士にも目先の利益にばかり目が行くものもおります・・されど、我が神吉にはそのようなものは居りませぬ・・明朗、快活、一本気な播磨の気風は貴殿にも間違いなくわかっていただけると思いますが・・」
「それはどういう意味ですか?」
「わしはの・・貴殿を一目見て気に入ったのでござる・・男の一目惚れとでも言おうか・・」
「それで?」
「わしから神吉頼定さまにご推挙させていただきとうござる・・ここで出会えたのも何かの縁・・是非にわしに附いて神吉にお越しいただきたい」
秀重はいきなり、何杯か酒を立て続けに飲んだ。
黙って飲んで、しばらくしてから藤太夫の前に平伏した。
「どこの馬の骨か判らぬ、拙者のようなものを然程に評してくださること、これほどの喜びはございませぬ・・」
「いえいえ、貴殿は馬の骨などではございませぬ・・貴殿の風貌はまさに幾多の戦を乗り越えてこられたものと察せられます」
「かたじけない・・」
「ひとつだけ・・推挙するにしても貴殿の略歴くらいは知っておく必要がございますが・・」
秀重は顔を上げた。
粗末な湯治宿の一室である。
「拙者、松平家康殿の配下で、そのご縁から今川義元殿の馬回りとしてお仕え申し上げてありました」
「なるほど・・合点がいき申した」
「桶狭間の戦で、今川義元殿を守れず、敗退し、以後、主君を守れなかった己の身を今川に戻すことができず・・」
「ああ・・そのようなことがござったか」
「此度、松平家康殿より武田信虎様ご入京のお伴を言い渡され、そのお役が終わった時点で浪々の身になったのでございます」
藤太夫は過去を語る秀重をじっと見守っていた。
「拙者、生涯の思いは織田を討つことでござる・・」
搾り出すように秀重が言う。
藤太夫は語り終えた秀重の手を取り、彼の目を見つめた。
秀重は涙を流していた。

*播磨国神吉*

数日後、播磨平野を幾人かの武士集団が歩いていた。
稲の穂は伸び、豊かな収穫が確信される・・播磨平野ののどかさの中に、こののどかさが気骨ある人々の手によって守られていることを実感する秀重である。

やがて、彼は神吉頼定にも気に入れられ、砦を守る立場になる。
よそ者であっても素直に受け容れる播磨の気風は高谷秀重に優しく、それでいて快活で、一本気な武将たちは頼もしかった。
藤太夫の勧めで、志方城主櫛橋の娘、辻姫を娶る。

「わざわざ尾張から来てくださったのですか?」
祝言を挙げたその夜、辻姫は彼に尋ねた。
「尾張から西へ西へとな・・」
「わたしに会いに?」
「そう、お前に会いに西へ西へ・・」
「じゃ、西向く侍ですね・・」
辻姫は笑った。
「なんだ、その西向く侍とは・・」
「小の月ですよ・・二十九日までの月・・二月、四月、六月、九月、十一月・・でニシムク・・」
「十一月はなぜ侍なんだ?」
「十一を続けて書くと士になります・・武士の士です・・」
「なるほど・・そのような覚え方があるのか・・」
秀重は苦笑し、辻姫を抱きしめた。
「ニシムクサムライ・・わしは小の月か・・」
そう頭の中に浮かぶ言葉に自分でもおかしく感じながら、「女を抱け」と言った信虎の言葉も頭の中に響きながら・・
秀重は辻姫と睦みあう。

二人の穏やかで仲睦まじい生活は戦国期にあってもしばらく続くことができた。
秀重と辻姫は子宝に恵まれ、男の子ばかり六人の子がいた。

彼が仇敵としていた織田との戦いはそれから十七年後に実現した。
一時は織田方の羽柴秀吉と力を合わせ、毛利を討つべく評定をしていた別所、神吉であったが、この評定の際に立場の違いから一気に織田と敵対関係となった。

もっとも、すでに織田は毛利を凌駕し、並ぶものなき強大な軍事国家となっていた。
対する毛利は、兵糧などを送ってくれるも、それも届かず、軍隊の派兵は望めなかった。
別所も神吉も、織田に敵対して勝てるはずもなかったが、神吉城の出城として、高谷秀重の砦はよく奮闘した。
しかし、いよいよ明日には落城かというその夜のことである。
篝火を焚き、警備に余念のない砦の中、高谷秀重の前に一人の男が現れた。
「高谷殿・・お久しぶりでござる」
歳をとったがその男はあの服部半蔵に間違いがなかった。
「ほう・・半蔵殿・・さすがに忍者でござるな・・かような戦場まで、難なく忍び入られるとは」
「難なくではござらぬ・・これでもかなり難儀して参ってござる」
半蔵はそういって笑った。
「用向きはなんであろうか・・降伏の使者ならお引き取り願おう」
「相変わらず、気骨は衰えておらぬな・・」
「明日は討ち死によ・・衰えるよりもあの世とやらに向かう喜びもござる」
「なるほど・・用向きというのは他でもない」
「なんだ・・」
「わが主君、徳川家康公からのお言葉である」
「家康公か・・立派になったものだな・・」
「秀重、わが元へ帰れ・・とのことでござる」
懐かしいかつての主君の顔が目に浮かぶ。
優しい主君の声までも浮かぶ気がする。
しかし、一度は彼を殺そうともした主君でもある。
「家康様に伝えてくだされ・・」
「うむ・・」
「まことにかたじけないお言葉、秀重、夢を見るようでござる・・されど、されど、拙者は織田を仇敵として最後まで戦いぬく所存だ・・殿の武運を祈るとな・・」
「わかった・・それでよいのだな」
「俺は家康様とは違う生き方をしているのだ・・よろしく頼む・・」
「承る・・」
矢の走る音が聞こえる。
そちらを見たその瞬間に半蔵の姿は消えていた。

秀重は大音声に叫ぶ。
「ものども!よく聞け!家が恋しいもの、家族が愛しいものは今すぐ、この砦を降りろ!」
寝ずに警護している兵たちは訝しがった。
「俺と、武士の意気込みをかけて死出の旅に行こうとするものだけ残れ!ここから落ちるものの咎を俺は問わない!家族を大事にしろ!」
兵たちは上気した顔を彼の言葉に向けた。
「行きたい奴は今すぐここから落ちろ!かまわぬ!」
数人の兵が動いた。
「残るものは酒を飲め!存分に飲め!」

天正六年六月二十五日・・
羽柴秀吉の神吉城攻撃に際し、その出城であった高谷秀重の砦は一足先に落城した。
落城の寸前、秀重は佐久間信盛の率いる大軍に勇んで飛び込んで戦を仕掛け、散々駆け回ったあと、自らの砦に火をかけ、そこに飛び込んだ。
「六月か・・ニシムクサムライ・・俺は所詮は小の男だったのか・・」
燃え盛る炎の中、最後の意識の中で彼は呟いた。
不思議に熱さは感じなかった。

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