story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

十六の母(諏訪御寮人異聞)

2005年09月17日 16時28分25秒 | 小説

天文九年秋、甲斐の国、古府中、躑躅ヶ崎館の、ずっと奥のほう、普段は出仕する武士の姿も稀な、その奥の薄暗い一室に、今、到着したばかりの数人の女性たちがあった。
既に今日の陽は翳り、暗い部屋は更に暗くなっていた。、
「姫・・お疲れはございませぬか?」
年配の女性が少女に声をかけている。
「艶殿・・そなたもお疲れでございましょう・・わたしの事はお気になさらず、まずはお休み下されば良いものを・・」
少女は十二、三歳であろうか・・
武家の娘であるかの証左にしっかりとした受け答えではある。
「姫・・おいたわしや・・姫をまさか、お人質になぞ・・」
艶と呼ばれた年配の女性は、少女の着物を着替える手伝いをしてやりながら涙を流している様子である。
「致し方ございませぬ・・こちら、武田の禰々姫も、ご当家にお嫁にいただいておりますれば・・」
少女は、薄暗い部屋から、さして広くない目の前の庭に目をやった。
「禰々様は、れっきとした御婚姻でございます。それも、お父上の御正室でございましょう・・ご自身の娘同然な姫を、人質になど・・信虎さまは・・」
艶がそこまで言うと、少女は少し声を大きくした。
「艶殿、いけませぬ・・・武家の家はどこにでも耳があるもの・・心してくだされませ・・」
少女は小さな身体で、艶をたしなめた。
少女の父のところに正室としてやってきたのは、少女といくらも年の変わらない武田の禰々姫だった。
少女は名を梅と言う。
梅姫は、自分にとってすぐ上の姉のように見える義母の優しく、暖かく、そして少し淋しい面影を暗くなり始めた庭の上に描いていた。

「失礼仕る!」
年配の男の声がした。
立派な武士だった。
縁側の端に威儀を正して端座し、きちんと礼を尽くしてから口上を述べる。
「お屋敷のことなどを司らせていただいております板垣と申します。陽が暮れきってしまう前に、ご挨拶など致さねばと、慌ててまかり越してござる・・何か御不自由がござりますれば、何なりと申し付けられますように・・」
「これはこれは・・ご丁寧なるご挨拶、いたみ入ります。こちらこそ、田舎者ゆえいろいろご教示いただかねばなりませぬ・・よろしくお願い申し上げます」
梅姫は静かに、凛とした挨拶を返した。
「ほう・・」
武士は感嘆したように顔をあげ、姫を見た。
「姫様には、随分お若くあらせられまするが、なかなかに見事なるご挨拶、板垣、誠に感嘆仕りもうした・・」
誉められると梅姫は、十二の少女らしく、頬を赤らめ、はにかんだ表情になった。
「また、随分、見目も良き姫様にてござりますな。当館もひときわ華やかになり申しましょう・・」
板垣と名乗った武士は、嬉しそうに立ち上がり、後ろを振り向いた。
「諏訪家のご息女様、御付きの方々に、夕餉の仕度を!」
大声でそう叫んでから、再度姫に向かい、にこやかに話し掛けた。
「御腹が空いておられましょう・・すぐに夕餉をお持ちしますゆえ、しばしお待ちくだされ・・」
「ありがたき、お心遣い、まことに嬉しく思います・・」
梅姫は板垣に礼を返しながら、張り詰めていた緊張が、この武士のお陰で解れていったことを感じていた。

よく晴れた翌日、躑躅ヶ崎館に程近い森の中で、まだ若い武士たちが剣の稽古をしていた。
稽古とは言っても実戦さながらの、武士の集まりを二組に分け、木刀で殴りあう凄まじいものだった。
武士たちは時の経つのも忘れて、傍から見ると集団の喧嘩にしか見えないような稽古に没頭している。
「晴信様!」
馬に乗った年配の武士が、集団に向かって声をかけた。
集団の中心は武田家の御曹司、武田晴信である。
武士たちは一斉に動きを止め、晴信を除いて、年配の武士に礼の体勢をとった。
「おう!板垣殿でござるか!」
板垣は下馬し、晴信の前で臣下の礼をとった。
「今より海ノ口討伐の軍議とのこと、信虎様より晴信様お呼びにございます」
晴信は稽古あとの爽やかな笑顔を一瞬にして曇らせた。
「父上が呼んでおられるか・・止むを得ぬわの・・」
投げ捨てるように晴信は言うと、板垣の馬に自分の馬を並べて、館へ向かった。
「晴信様・・・今、しばし、ご辛抱くだされませ・・」
板垣は晴信と馬を並べて進みながら、小さな声で語りかけた。
「分かっておるわ・・父上のあの御気性じゃ・・わし如きが逆ろうても、その刹那には首になっておろうよ・・」
「されど、家臣の者、大方は晴信様に期待を持っておりますゆえ、事あらば、必ずや御味方が大勢参りましょう・・」
「板垣殿・・そのようにわしに言ってくれるのは有難いが、人間など、余程でないと信じられぬもの・・下手をすると、味方かと思っておった者が、先鋒になって攻めてくるというのは、良くあることじゃ・・」
「晴信様・・されど・・拙者は晴信様の御味方にござります・・」
「左様なことは分かっておるわ・・板垣殿を疑ってしまえば、わしに味方など存在せぬわ」
「拙者のみにてはござらぬ・・馬場殿、小山田殿、穴山殿・・まだまだ晴信様の御味方をするものは・・」
「し!・・板垣殿、誰が聴いておるや分からぬ・・忍びの者も居るやも知れぬ・・」
晴信は板垣を制しておきながら、ふっと空を見上げた。
「諏訪の息女はどうだ・・美しいと聞いておったが・・」
晴信は話題を変えた。
「昨夜、着到致してござりますが、お年の割には大層、聡明な姫とお見受けしました。まだ子供の風もござりますが、いずれは素晴らしき美人に相成りましょうな・・」
「ほう・・姫はお幾つであったかな?」
「まだ十二歳とのことでござります・・」
晴信は、また空を見上げた。
「十二か・・今、しばし待たねばなるまい・・」
板垣は晴信が何を言っているか、ちょっと分からないようではある。
「何を待つのでござるか・・」
「わしが、貰うのよ・・」
晴信はそう言って大声で笑った。
板垣は苦笑し、この女好きの大将が!・・そう思った。
晴信には二人目の正室がいたし、愛妾も数人はあった。

翌年夏、諏訪と武田は連合して海ノ口城を攻めた。
両家の連携が功を奏したと言えそうだが、実際には苦戦極まる戦になり、まさに、いま少しで敗走というその段になって晴信を擁する家臣達が晴信に進言し、晴信手勢で明け方の急襲を行ない、ようやく勝ちを収めた戦となった。
この戦の功労者はまさしく晴信である。
躑躅ヶ崎に帰り、戦勝の祝宴で、信虎は珍しく上機嫌で晴信に声をかけた。
「晴信!まさに、この戦はお前によって勝てたようなものじゃ・・何か褒美をやろう!」
大杯を空けながら、濁って酔った目を晴信に向ける。
居並ぶ家臣たちも、晴信が何を言い出すか、興味を持って見ていた。
「父上!褒美は・・なんでも良うござるか・・」
「おうよ!何なりと申せ!」
しばらくの沈黙の後、晴信は思い切ったように言った。
「されば・・諏訪殿の息女・・梅姫を所望いたす・・」
祝宴の席はざわついた。
信虎の目は一瞬にして怒りに変わった。
「梅姫とな!お前には女以外の物は目に入らぬか!」
「何なりと申せとの、お言葉にてございましたので・・」
「馬鹿者!馬だとか、刀だとか、武士にとっての心がけの物を指すのが筋であろう!女だと!色呆けも程ほどにせよ!」
信虎に一喝され、晴信は黙り込んでしまった。
宴席はしらけた。

「晴信様・・何故に諏訪家の息女などを所望されたのでござるか・・」
宴席が終わり、皆が引き上げたあと、板垣は晴信に尋ねた。
「別に他意はないわ・・刀を所望しても頂けぬ事は分かりきっておる・・馬もそうじゃ・・父上は弟、信繁ならば手柄以上の褒美をお出しになるであろうが、わしには何も呉れぬで・・」
「今宵は何でも頂けそうな気配でござりましたが・・」
「そうよの・・されど、わしは、今、父上に恩を頂く気には、なれぬ・・」
「では、何故、梅姫でござるか?・・」
晴信は強張らせた表情を少し緩めた。
そして、かすかに笑顔を見せて板垣にこう言った。
「それはの・・梅姫が欲しいからよ・・美しいと言ったのは板垣殿ではないか」
そう言ったかと思うと耐え切れなかったかのように大声で笑い出した。

数日後、勝ち戦を得て安心したかのように信虎は駿河へ旅立った。
婚姻政策の一環として今川義元の嫁にやった娘に会うためであった。
「晴信、信繁、力をあわせて甲斐を守ってくれるように・・」
信虎は二人に念を押して旅に出た。
信虎が駿河へ向かい、国境を越えた日、晴信は駿河との国境を突然閉鎖した。
「今後、甲斐の国の領主はこの晴信が務める。父と共に居たい者は遠慮なく申し出るように・・」
その日、晴信は国中に触れを出させ、武田家家臣団の意思を問うた。
それと同時に信虎について駿河へ向かった家来達の家族を捕らえ、人質として、彼らを脅した。
信虎の下に残ったのはごく僅かの若い武士だけでしかなく、信虎は甲斐の支配者から一気に転落した。
手引きを進めたのは板垣、飯富といった、信虎が信頼する重臣達だったと言われている。
信虎が進めてきた諏訪との融和政策には実は家臣団の大半が反対をしていることを晴信は知っていた。
いずれ諏訪も、いや、信濃の国全ては、武田のものになるのだ・・
積極的な侵略方針は運気が上がりかけていた甲斐の国人たちの心をつかんでいた。
晴信は三日後には躑躅ヶ崎の主人であることを宣言、祝宴を開いた。

祝宴で賑わう表御殿とは同じ囲いの中にありながらも別世界の静けさを保つ違いを見せているのは人質達のいる奥の建物だった。
夜の帳が下りても灯明は少なく、月だけが煌々と明るい縁側に突然、大勢の人の気配がした。
梅姫は何事かと怯える心を押さえ、暗闇へ向けて目を凝らした。
「御館様の御成りにございます」
若い武士が、縁側の脇で端坐し、礼をする。
「御館さま?」
梅姫は躑躅ヶ崎で起こった異変の噂は聞いていた。
自分の父親をこともなく追放する非情の嫡子、晴信に彼女は会ったことはなかったが、良い印象は持っていなかった。
それは兎も角、彼女としてはこの家の新しい主人を迎えるために、褥を外し、平伏して待った。
「こちらが、諏訪家のご息女、梅姫であらせられるか・・」
若く、太い男の声がした。
「かような固い礼はいらぬ・・姫・・わしを見てくれ・・」
梅姫はその声に顔をあげ、晴信をみた。
「この度の御家督の御継承・・誠に祝着にて・・」
震える身体を押さえながら、それでもはっきりと言葉を出そうとする彼女を晴信は見つめていた。
「良いわ・・御同盟の諏訪家の姫君を人質になぞして、申し訳がなかった。晴信、父に代わりてお詫び申し上げる・・」
晴信はそう言って笑顔を見せた。
背の高い、大きな瞳の端整な顔立ちの武将の姿がそこにあった。
けれども、梅姫には晴信の視線が怖かった。
「美しい姫じゃ・・かような美しさは山国には勿体無い・・」
晴信は梅姫の全身を舐めるように見ていた。
梅姫は体が強張り、そのまま動けない。
生理的嫌悪感とでも言うのであろうか・・
「いずれ、きちんとした部屋に入っていただく。それまではしばし、ご辛抱あれ・・」
晴信は満足したように、そういうと部屋を出て行った。
梅姫は緊張の糸が解れたかのように、その場で崩れた。
「姫!」
侍女の一人が慌てて、梅姫の身体を揺すった。

翌年、夏、梅姫はとんでもない噂を聞いた。
「晴信殿が諏訪との戦火を開き、上原城へ向けて行軍をしている」
と言うものだった。
諏訪と武田は同盟の間柄のはずだ。
晴信の妹が梅姫の父に嫁いでいる。
「それは・・おかしな話・・諏訪には武田家への恨みもございませぬ・・きっと巷の悪い噂でしょう・・」
彼女はそう思い込もうとしていた。
けれども、現実に武田晴信は諏訪を攻めていた。
古府中の町には、戦場から怪我をして送り返されたものや死者の遺体が運び込まれていた。
噂が現実であることはすぐに知れ渡った。
古府中では、諏訪攻めは好意的に受け取られていた。

前年の秋、豪雨により川の堤防が決壊した。
甲斐の国は水利がさほど良くなく、元々、稲はいくらも取れない。
そこで蕎麦や黍と言った雑穀が植えられていたが、畑という畑は豪雨による洪水で荒地に変わってしまっていた。
この状況を打開するには、何処か他国を攻めて食い物を奪うのが手っ取り早かった。
諏訪も昨年は凶作であった。
けれども、諏訪は豊かな稲作地帯を有していた。
凶作であったと言うが、元々米のとれない甲斐から見れば、米が出来る平野を有する魅力は十分にある。
領民の政治への不信を除くには他国を攻め、領地を得ることが一番だと晴信は知っていた。

諏訪はすぐに陥ちた。
その噂もすぐに梅姫の元へ届いた。
さらに、こともあろうに父、頼重が古府中の寺院に人質として連れてこられたという。
同盟国を滅ぼし、その国主を人質とする非情さを彼女は憎んだ。
けれども、憎んだとて、彼女に為す術はなく、梅姫はじっと耐えるしかなかった。
十日ほど経った日、晴信からの伝言と称して、板垣が彼女の前にやってきた。
「昨日、姫様のお父上に置かれましては・・」
板垣は、そこまで言うと言葉を詰らせた。
「父上が・・・どうされたと言われるのでしょうか?」
不安が胸の中に広がり、気分が悪くなる。
「は・・お父上、諏訪頼重様に於かれましては、東光寺にて、御腹を召され・・」
梅姫はじっと板垣を見据えていた。
涙も出ない。
板垣の方が居た堪れぬ様子で、視線を反らしていた。
「姫様・・これは拙者よりのお願いにござる。この度、お父上のこと、諏訪の領民のことなど、様々に思い巡らせることもござりましょう・・されど、耐えなさいませ・・今はただ、耐えなさいませ・・」
板垣は視線をそらせたままで一気に言うと、振り切るように立ち上がり、出て行った。
梅姫は薄暗い部屋の中で、宙を睨んでいる。
白い肌、長い黒髪、あでやかな小袖の着物・・その中できちんと端坐したままの少女の目は瞋恚に燃えていた。

頼重の四十九日もようやく終わった頃、梅姫の哀しみは激情と言うような形ではなく、もっと深く、心の奥の錘のようになって残っていた。
秋の風が吹き始める夜、鈴虫の声に彼女はようやく自分を取り戻しつつあったその時、数人の武者達が縁側から駆け込んできた。
「梅姫!御館様がお呼びでございます」
武者の一人はそう言い、彼女は侍女とともに、不審気に武者についていった。
「侍女の方は、こちらよりお引き取りくだされ・・」
本館の奥の部屋の近くで、そこに居た別の武者が指図をする。
「は!されど・・・・」
侍女は武者の言葉に抗議をしようとしたが、その場の恐ろしげな雰囲気に飲まれ、おずおずと引き返していった。
「御館様!梅姫様がお見えでござります」
武者は部屋の中にいるらしい晴信に声をかけた。
「おう!遠慮なく入られよ!」
明るい声がした。
梅姫はゆっくりと晴信の前に伺候した。
「姫!晴信に堅苦しい礼儀はいらぬ・・お顔を上げてくれ・・」
梅姫は晴信の顔を見た。
「この度は、お父上、諏訪頼重殿にはお気の毒なことでござった・・されど、戦国の慣わしなれば、ご勘弁下され・・」
意外に明るく、晴信は言った。
「御館さま・・戦国の慣わし・・されど、されど、何故に父が御腹を召されたのか、わたしは未だに分かりませぬ・・」
「そうか・・そうよな・・お父上・・頼重殿に於かれては、残念ながら謀反を企てられたのよ・・」
嘘だ!
彼女はそう思った。
けれども、それをここで口に出すほど物分かりの悪い姫ではなかった。
今、彼女の前にいるのは、普通の男ではない。
彼に逆らうと言うことは、即ち死を意味した。
「この晴信も、命が惜しい・・やらねばやられる・・そこのところはご理解くだされよ」
彼女は平伏した。
「さて、今宵はそなたと、ゆるりと過ごそうと思う。近う寄れ・・」
梅姫ははっとした。
晴信が何を求めているか、はっきりと分かった。
「酒肴を持て!」
晴信が叫ぶと、他の部屋から大勢の返事が聞こえた。
やがて、酒肴が、少年達によって晴信の前に並べられる。
「注いでくれ」
晴信は杯を持ち、梅姫に近くへ来るように手招きをした。
彼女は逃げる方法が何もないことを知り、心を決めた。
本当はこのまま殺してくれた方が、ずっと楽かもしれない・・そんな思いを彼女はすぐに打ち消し、晴信の傍へ行った。
胸が高鳴り、心が重くなる。
晴信は少女の手をひいて、自分のほうへ引き寄せた。
ようやくふくらみ始めた小さな固い胸を、いかつい男の手がまさぐり始めた。

翌朝、梅姫は晴信の身の回りの世話をしている老婆に連れられて、自分の部屋に帰ってきた。
老婆は部屋に入るなり、声を大きく叫んだ。
「諏訪家の方々には、お喜びになられませ・・梅殿は昨夜、御館様のお手付きになられあそばれましたぞ」
艶はじめ、侍女たちは顔色を変えた。
もちろん、彼女達には分かっていたが、それでも、面と向かって言われてしまうと、戸惑いを隠せない。
「近々に側室に相応しい部屋に御移り頂きますゆえ、そのご用意の程を、早急になされますように」
老婆はそれだけ言うと、姫を置いてさっさと引き上げてしまった。
艶の顔を見ると、梅姫はその場に泣き崩れてしまった。
「姫様!おいたわしい・・」
侍女たちも泣き始めた。
朝の光に小鳥がさえずる中、女たちの声を押し殺したような泣き声が、低く垂れ込める雲のように部屋に満ちていた。

3年後、梅姫は懐妊し、諏訪に帰って男の子を産んだ。
丸々太った、いかにも強そうな男の子である。
彼女は十六歳になっていた。
白い肌は輝きを増し、引き締まった目鼻立ち、長い髪はあくまでも黒く、その美しさは古府中でも、諏訪でも評判になっていた。
彼女が男の子を産んだところで、正室の三条の方にも長男はじめ数人の男子があり、だから、梅姫が武田家の女の中で力を強くすることはありえなかった。
彼女の息子は四郎と称することになった。
彼女は古府中から離れ、諏訪にいることでようやく心が和むような日を過ごせるようになった。

晴信は信濃での戦の途中、諏訪に立ち寄り、息子の顔を見た。
「これは・・強そうな男の子だ・・四郎か・・」
諏訪湖を眺める館の中、上機嫌で酒盃を片手に赤子を抱く晴信に、梅姫は懇願した。
「御館様・・御願いがございます」
「何だ?」
「この子に、祖父諏訪頼重の名を継がせて下さいませ・・」
晴信は、必死で頭を下げる梅姫を見ながら、少し考え込んだ。
「諏訪の再興か・・」
そう呟いたけれども、しばらくはその後も無言だった。
ただ、腕に抱いた赤子の感触を楽しんでいるように見える。
晴信の頭にあったのは、武田の将来だった。
随分大人びてきた長男、義信がいる限り、この子は一家臣として仕えるしかない。
それならば、この子に諏訪のあとを継がせ、この地域の国人や領民を治めるためにも頼重の名を使うことは得策だと思えた。
けれども、彼は義信になんとなく不安感を感じてもいた。
もしも、義信に何かあれば・・
この子が諏訪の名を継いだ事はかえって武田の統率に障りにならないか・・

「御願いでございます」
そう、懇願を続ける梅姫の、肌の白さが気になった。
「痩せたな・・」
梅姫は顔をあげた。
「わたしでございますか?」
「そうだ・・美しくなったが、痩せた。身体に良いものを何でも食すようにしないとな・・」
晴信は彼女を見つめながらそういう。
梅姫は、晴信に優しい言葉をかけて貰ったのは、初めてのような気がした。
晴信は改めて梅姫を見た。
美しい・・あまりにも美しい・・けれどもそれは、この世のものと思われないほどに、美しすぎるのだ。
「分かった!」
晴信はいきなり叫んだ。
「四郎は諏訪の跡取よ!」
「はい!」梅姫も大きく頷いた。
「武田、諏訪四郎勝頼・・頼重に勝つのだ!頼重以上の武士になれ!」
晴信は赤子を抱き上げ、赤子に言い聞かせていた。
「ありがとうございます」
彼女は平伏する。
「わしに礼を尽くさずとも良いと言ったであろう・・」
晴信は苦笑しながら、それでも赤子を見ていた。

晴信が古府中へ向け出立したあと、梅姫は館で赤子を抱きながら諏訪湖を眺めていた。
「勝頼・・お前は、武田晴信より、もっと強い武者になっておくれ・・もっと大きな武者になっておくれ・・・」
勝頼は無邪気に母の顔を見て喜んでいる。
「わたしや、父上や、大勢の御家来衆や、大勢の領民たちが味わったような・・あんな苦しみは、もう御免・・」
晴信に似て大きな瞳の勝頼はそれでも無邪気に喜んでいる。
「武田なんかに負けないで!晴信なんかに、負けないで・・」
十六歳の少女は、諏訪湖を眺めながら、泣いていた。
自分を苦しめた男の子供を抱きしめながら・・泣いていた。

それを部屋の隅のほうからじっと見つめている老武者があった。
「梅姫・・良くぞ、良くぞ、耐えて下さいましたな・・」
武者は板垣だった。
彼もまた、少女の姿を見つめながら泣いていた。

コメント (8)
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