ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

東日本大震災 貞観地震と祇園祭(祇園御霊会)の起源ー1

2011-05-06 10:16:00 | 日本文化・文学・歴史
今回東日本を襲った大地震と、2011.3.13のブログ「東日本巨大地震 869年にも起きていた」
で紹介した貞観地震とが、三陸沖の震源域・地震の規模・広範囲の津波襲来など類似性が指摘されている。
私は京都の八坂神社で行われる祇園祭りの起源が貞観地震と関連しているのではと以前から考えていたの
で、時間軸で成立可能か?を調べてみた。

貞観地震は奈良時代から平安時代に編纂された日本の正史である『六国史(りっこくし)』中の六番目
である『日本三代実録』に漢文で記されている。

以下は当時陸奥国の国府が置かれていた多賀城を襲った貞観地震の様子を記した『三代実録』の読み下し文
です。

 (貞観11年)5月26日陸奥の国で大地震がおきました。
  稲妻が昼のように光り、人々は立っていられず伏しました。
  ある者は家の下敷きとなり、ある者は地割れに飲み込まれました。
  驚いた牛馬は暴れだして走りまわりました。
  城郭・倉・門・櫓が無数に崩れました。
  雷鳴のような海鳴りが聞こえてきて、海上が押し寄せて、たちまち海から遠くにある城下にまで達し
  ました。
  見渡す限り海となり野原も路も大海原となりました。
  船で逃げたり、山に避難することも出来ずに千人ばかりが溺れ死にました。
  あとには何も無くなりました。

今回の津波が襲ってきた時の映像と全く同じような光景が記されている。

貞観地震は清和天皇の貞観11年(869年)5月26日に起きたと記されているが、京都(平安時代の
都)の八坂神社で行われる祇園祭(祇園御霊会)の起源が何時頃か縁起を調べてみた。

  祇園御霊会の起源は、平安時代の貞観11年(869年)に全国に疫病が流行したため
  これを八坂神社の祭神・素戔鳴尊(すさのおのみこと・牛頭天皇)の祟りとして勅命に
  より6月7日全国の国数に準じて鉾66本をたて、同月14日洛中の男児が神輿を奉じて
  神泉苑に集まり御霊会を修し、除疫を祈ったことによる。

この縁起では疫病が流行し、その原因は素戔鳴尊の祟りとしている。
何故、素戔鳴尊かは後の話題にするが、たしかに853年には痘瘡が流行し死者多数と記されている。
当時権勢を誇った藤原摂関家の祖先であり、藤原鎌足の孫世代である藤原武智麻呂(737年)・房前
(737年)・宇合(734年)・麻呂(737年)の四兄弟は相次いで天然痘で無くなっているので、
都中の人々が疫病に怖れおののいたことであろう。が、853年の流行から16年後の869年になっ
てから素戔鳴尊の祟りを怖れて祭祀を始めるとはあまりに遅すぎる。
やはり直前に何か恐ろしい事件が発生したと考えるべきであろう。

貞観大地震の起きたのは貞観11年(869年)5月26日であるが、その12日後の6月7日に御霊会
を行うように勅命が下っている。「御霊(ごりょう)」とは「霊魂の尊敬語」「人に祟りをする恐ろしい
霊魂」をいい、「御霊会」とは「疫病の神や冤罪で死んだ人の怨霊を鎮めるために行う祭り」である。
当時の朝廷にとって、素戔鳴尊が怨霊として意識されていたことも重要であるが、陸奥の国で起こった
大地震と大津波の報告がわずか10日以内に京へ届かなければ私の説は成立しない。

当時の情報は馬による急使によって伝えられたが、すでに大化前代にもみられる。
これが制度化されたのは、大化改新の詔(646年)で駅馬、伝馬を置くとし、701年の大宝令により
制度的に確立された。

 駅路は七道(山陽道・東海道・東山道・北陸道・山陰道・南海道・西海道)およびその支道を通じて
 諸国の国府に至った。
 駅家は原則として30里(約16㎞)ごとに設けられ、伝馬は郡家(郡衙)に置かれた。
 一般の駅乗の他に、緊急を要する謀反以上の大事、大瑞、軍機、災異、外敵襲来などの場合は馳駅(飛駅)
 を発する。
 行程は一日八駅、馳駅は10駅以上。伝馬は一日70里(約37㎞)を原則とした。

馳駅(至急便)の実例では、836年大宰府~京都の馳駅が6~13日。
鎌倉時代の飛駅の例では六波羅(京都)~鎌倉間が最短72時間(3日)だったという。

762年に建立された多賀城碑には

   京を去ること一千五百里
   蝦夷国の界を去ること一百二十里
   常陸国の界を去ること四百十二里
   下野国の界を去ること二百七十四里
   靺鞨国の界をさること三千里

と国界との距離が刻まれているが、多賀城外前面の道路網から主要官道へのアクセスはほとんど不明であると
いうが、多賀城碑の京と多賀城間の1500里を馳駅(至急便)で走るとして単純計算ではあるが

   1500里÷30里・・・・50駅

馳駅1日の走行を10駅以上とし

   50駅÷10駅・・・・・・5日

多賀城から京へは5日で到着できる勘定となる。
道路事情を勘案しても10日以内には十分到達したと思われる。
貞観地震は多賀城より京に近い常陸国や磐城国からも大地震や大津波の災害状況を報告していると思われるので
京へは5~6日で伝わっていた可能性は高い。

陸奥国で起きた激烈な地震の知らせを受けた朝廷が、御霊会の勅令を発することは時間的に可能であった。

次回は祇園祭に鉾を立てるわけと、何故素戔鳴尊の祟りとしたかを考えます。



















  
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