ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

古代からの暗号 仁徳天皇の黒幕だった?葛城襲津彦と弓月君(秦氏)

2023-05-30 09:16:26 | 日本文化・文学・歴史

日本の古代史や歴代の天皇に関心のない人でも、世界遺産にもなり日本で一番大きな前方後円墳に葬られた天皇
として仁徳天皇の存在は知られていると思います。仁徳天皇の父は応神天皇、その母は神功皇后(気長足姫尊)
ですが、応神・仁徳の頃から都が奈良から難波へ移り天皇陵は超巨大な前方後円墳が築かれており、新しい王朝
の始祖と見られているようです。
たしかに記紀には<譲られる><替える>不思議なエピソードがあります。
 ① 応神天皇が太子時代に気比大神の名を譲られる話。
 ② 応神天皇の子と竹内宿禰(大臣)の子が同日に生まれ、産屋にに飛び込んできた鳥の名をお互いに交換して
   名付けた。応神天皇の子は<大鷦鷯>と命名され長じて<仁徳天皇>に、竹内宿禰の子は<木菟>と命名
   され長じて<平群木菟宿禰>となる。
 ③ 応神天皇は<菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)>を可愛がって日嗣の皇子として自分の跡継ぎにしようと
   したが菟道稚郎子と大鷦鷯とが皇位を譲り合って3年間も天皇がいないまま過ぎたが菟道稚郎子が自殺した
   ので大鷦鷯が皇位についた。
記紀に記す皇位の譲り合いが事実であったか否かは判断できませんが『倭人と韓人』(2003年講談社学術文庫)で
上垣外憲一氏は「現実政治の面からいえば、ワキイラツコと大サザキを支える二つの集団、渡来系氏族と大和の豪
族連合の力が相拮抗していてどちらが即位しても問題が起こりそうな情勢にあったと解される。」「『播磨国風土
記』揖保郡条には「宇治の天皇」という語があり<稚郎子>が天皇であったように語られてもいる。」と述べてい
ます。
では、仁徳天皇の世になって目に見えて変化している事を上げてみましょう。
 ① 都が大和から難波へ移った。
 ② 皇后は葛城襲津彦の娘の磐之媛命が立后した。臣下の女子立后の初例。
 ③ 天皇や后妃の御陵が奈良の佐紀盾列古墳地域から河内の古市や石津原に造成され、より巨大な古墳が作られた。
 ④ 仁徳天皇は寿陵を造ったが、造営の始めの日に起こった不思議な出来事を記している。
   「仁徳天皇は寿陵を造営しようと河内の石津原に陵地を定め、造営を始めた日に野から鹿が走り来て作業中の
    人の間に倒れ死んでしまう。その鹿の死因を探ると百舌鳥が鹿の耳を喰い破り、体内から飛び去った。
    それ故に百舌鳥耳原という。」
この説話中に走り来て倒れ込み死んでしまった鹿は石津原の地主神を表わしていると考えられていますが、具体
的には何か?を考えると、<鹿→シカ→志賀→近江国>を連想させ、琵琶湖の鳥<カイツブリ>から<蝦夷の頭>
であると思われる<息長氏>を導き出すように仕掛けられた謎解きではないかと思いました。
<息長氏>は開化天皇の皇子・日子坐王以来崇神王朝へ一族の女性たちを后妃として嫁がせ、後ろ盾として支え
ていました。息長氏の氏神・山津照神社の祭神は国常立神という日本の原初の神を祀っており、出雲系であった
のです。
仁徳天皇が新王朝を開いた可能性があるとして何事もなく王朝交替があり得るでしょうか?私はその前段が必ず
記紀に記されていると考えました。
喜田貞吉氏が「天日矛を以て秦氏族最初の日本移住者か」と考えておられたので、<天日矛>の子孫である葛城
高額比売命が崇神天皇の皇統に入り込み、息長宿禰王と結婚して息長足姫命(神功皇后)が生まれる。さらに彼
女が仲哀天皇の皇后となり品陀別命(応神天皇)が生まれる。ここで葛城氏の祖とされる竹内宿禰が登場するの
で役者は揃いました。
「品陀別命の成人祝いの時に気比大神(天日矛)から我が名を皇子の名に替えて欲しいと言われて承諾すると、
鼻の傷ついた<イルカ>を浦いっぱいに賜る。この部分は分かるようで分からないストーリーでしたが、詰る所
<品陀別命が天日矛側と手を結んだことにより志賀(鹿・息長氏)の勢力が弓で射られ(イルカ・射る鹿)多く
の死者が出て敗れた。」と解釈しました。
その結果、秦氏と葛城系(竹内宿禰の後裔氏族)の連合は息長氏の鉄採取や精錬なども手に入れて葛城系の新
王朝が始まることになり<大雀天皇>が即位しました。このような経緯から誕生した仁徳天皇ですから実質的
な政治を行ったとは思えません。葛城系一族の中から<許勢小柄>が天皇に据えられたと思います。

記記によると仁徳天皇は民を思う心優しい聖帝という評判が後世まで伝えられていますが、最大の仕事は難波
から山背にかけて大掛かりな水利事業を成し遂げています。「今眹、この国を見れば野は広く遠くして少ない。
また、川の水も逆流したり、潮が遡って泥の海に化すこともある。これらを防ぐために水利事業をせよ」と命
じて多くの土木事業(難波堀江・茨田堤・山背栗隈県の大溝・茨田屯倉・和珥池・依網池・横野堤・河内の大溝)
が書紀に記されています。
しかしながら私は記紀に記された仁徳天皇像が立派過ぎて違和感を持ちました。

5世紀頃の倭国でこれだけの土木事業を企画し、実行し、より収穫が望める田畑を増やそうとする行動力と
財力を若き天皇がやり遂げるとは到底思えません。
実際に国造りの構想を推し進められる人材と財力を揃えた集団が後ろ楯として付いていると思われ、それは
仁徳天皇の皇后・磐之媛の父・葛城襲津彦と彼が朝鮮半島から連れ帰ったとされる弓月君と120県の人民で
あろうと思いました。

応神天皇の時代から仁徳天皇の時代までの一世代間に竹内宿禰の後裔氏族である葛城・波多・平群・蘇我・
許勢・紀氏等と渡来氏族の秦氏が一国を牛耳る程の関係など有り得ないと思われる方は多いでしょう。
しかしこの二つの集団には民族発祥の地がロシアのバイカル湖やエニセイ川流域と考えられる共通性があり
ました。そして、彼らの祖先は遊牧民であったため、草地を求め移動を続けましたが、西へ移動した自称・
クルグズ族は天山山脈の北側に<キルギス国>を建国していました。そして彼らは東へ移動した同族が<日
本人>であり、彼らの<兄弟である>という伝承を持ち続けていました。
私にとっては寝耳に水のネット情報でしたが、キルギス国を地図で確認した所、キルギス国の国境から東に
約200㎞ほどの所に弓月城があり、そこは秦氏の故地と伝えられていました。クルグズ族の中国表記は<堅
昆>ですが、弓月城の北に<堅昆>という表記もありましたので、現在のカザフスタン共和国の中にもクル
グズ族の痕跡はあるのではないかと思います。私はクルグズ族の伝承は真実を述べていると思いました。

クルグズ族の民族発祥の地から東へ渡って来た人々の末裔と思われる人々の痕跡は対馬にありました。
その経緯は以下のブログに掲載しています。

 2021年9月28日  九州はくす(楠・玖珠・国栖)の国か?
 2021年10月28日 玖珠と繋がるキーワード<葛城襲津彦>
 2022年2月25日  キルギス人が日本人を兄弟という理由か?弓月城(秦氏の故地)
 2022年3月24日  日本人とクルグズ族の揺籃の地か?バイカル湖周辺の地域
 2022年4月25日  クルグズ族の足跡。対馬(つま)がキーワード?都萬神社・中妻・朝妻

最近、日本経済新聞で<ゲノム解析で「弥生人」見直し>という記事が掲載されました。
科学の力にはかないませんが、<古代人の暗号>と<私の推理力>も試されています。
9月には研究発表されるそうですが、クルグズ族も対象者になっていたら良いのですが・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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