表題からかなり離れてしまいました。この謎解きの初めからの経緯を振り返っておきます。
『万葉集』巻八に載る山上憶良詠<秋の七草>歌は日本の成立に係わった7つの民族名を
伝えようとして残された暗号歌であると私は唱えているが、この憶良の想いのつまった暗号
を後の世に伝えようと密かに行動をおこしたのは、大伴家持である。そしてこの伝えは心あ
る歌人たちによって確実に伝承され、約200年後『古今和歌集』が編まれたがその歌の正
しい解釈のためになされた「古今伝授」という秘伝の中に<三木三鳥>という新たな暗号が
仕組まれた。
古今伝授は秘伝とされたため紀貫之・藤原俊成・定家らを経て代々二条家に伝わり15世
紀後半に東常縁から飯尾宗祇に伝授されるまで世に知られる事もなかった。古今伝授を三条
実枝から預かっていた細川幽斎は武将でもあり、関ヶ原の合戦のあった1600年石田三成
の軍勢に囲まれあやうく死を覚悟する状況となった時に、それを知った後陽成天皇は勅使を
派遣して和議を講じさせた。天皇は「幽斎が討ち死にすると、古今伝授を伝える者がいなく
なるので、本朝の神道奥儀、和歌の秘密が永く絶え、神国の掟も空しくなる。」と言い、憂
えたと伝えられている。
掟とは政府または役所からそうするように定められたきまりの事なので、日本の成立あるい
は正史である『日本書紀』を編纂する時に七種の存在を伏せることにしたが、しかし暗号と
して残すことに暗黙の了解があったともうけとれる。
また和歌以外にも「伏見稲荷神符」の絵解きという形や、平安時代には源順や源為憲らに
よって字母歌の中に仕掛けられた暗号の存在が指摘されている。さらに『新古今和歌集』が
編まれた1200年代には藤原定家が「詠花鳥和歌各12ヶ月」と題する花と鳥をそれぞれ
詠み込んだ月並みの歌を残しているが、この花の中には秋の七草が含まれており、花と鳥を
セットにすることによって、暗号を解くヒントになっているのではと私は考えた。
そして「謎解き詠花鳥和歌」をスタートさせたのだった。秋の七草の<女郎花>は<百済>
と解いており、<女郎花と鵲>の組み合わせも<百済>を指していると予測できたが、誰に
も納得できるような理由づけは難しくずいぶん遠回りしてしまった。
まず私は鵲と昔脱解とをつなげ、さらに蘇我氏らの祖という武内宿禰とがつながれば<百
済>とつながると考えた。
昔脱解は倭の東北1千里の多婆那国に生まれたが、海路駕洛国に上陸を試みるが果たせず、
鶏林の東の阿珍浦に着く。渡航の目的は王になることとしており駕洛の初代の王・金首露と
戦うが果たすことは出来なかった。しかし『三国史記』によると上代の新羅の王位継承者の
第四代は昔脱解としており、その後朴氏(初代~3代も)の王が4代つづき、9代から12
代は昔氏、13代は金氏(17代以降金氏)、14代から16代がまた昔氏が王であった。
このような王位継承の例は世界に類例がなく作為されたか、この三姓の王朝が併存していた
のではとも考えられている。
古代の朝鮮半島の歴史は複雑で不明な点も多く、昔脱解は新羅王とされるが『北史』列伝、
新羅条に「その王はもと百済人にて海より逃げて新羅に入り、遂にその国に王となる」との
記述もあるので、鵲→昔脱解→武内宿禰→蘇我氏→百済とつながる可能性を述べていきたい。
*鵲と昔脱解
『三国史記』新羅本紀に
「或はいわく、この児は姓を知らず。初め箱の来たる時、一の鵲ありて飛び鳴きて之に
随う。宜しく鵲の字を省きて以て昔を氏となすべし。また箱に納めしを解きて出ず。
宜しく脱解と名づくべし。」と記されており、鵲は昔脱解の命名の基である。
*昔脱解と武内宿禰
昔 脱解の呼称は
ソク ダヘ(鳥越憲三郎)、せき だっかい(朴炳植)せき氏(岡田英弘、井上秀雄)
だっかい(平林章仁)など様々な本に様々なルビがふられている。つまり正確な呼称
は不明である。
漢字の日本語読みでは
昔 セキ シャク
脱 ダツ タツ エツ タイ
解 カイ ゲ
「せき だっかい」は一般的な日本語の音読みだが、名前の部分は「だっげ」とも読め
る。「令の義解(ぎげ)」とか「領解(りょうげ)違い」などの例がある。
「だっげ」が口承で伝わる場合には「だげ」「だけ」に変化していく可能性はあろう。
さらに旧仮名づかいの表記では濁点をふらないために「たけ」と表記する。
「たけ」の漢字表記は「丈、竹、長、茸」など
武内宿禰は「たけしうちのすくね」と呼称しており、「建内宿禰」「竹内宿禰」とも記
される。「武」は「たけし」。「建」は「たてる」。
武内宿禰に昔脱解の名前を投影させたとしたら
竹(脱解)し内(家)の宿禰。
<昔脱解 の 家系 の 宿禰>の意味で名づけられたのではないか?
武内宿禰は個人の名前ではなく蘇我氏他の系統を示す象徴的人物として作られた名前だか
ら200年も朝廷に仕えることが出来たと思われる。
古来、日本では「伽耶(駕洛)」の国を「金官伽耶」というが、初代王の「金首露」から
「金(氏)の官」と呼び「金官伽耶」あるいは「金官加羅」。
また「百済」は本来「ペクジェ、ハクサイ」と呼ぶべきを「くだら」と呼び慣わしている。
何故「くだら」か?思うに「脱解」を「竹」と譬え、「竹の官」で「管」。つまり「管羅
(くだら)」と呼ぶようになったのではないだろうか。
「新羅」は本来は「シンラ」「シルラ」と言うべきところを「しらぎ」と呼んでいる。
新羅の初代の王は朴氏。朴は「ボク、ハク、ほお」で、朴の木は早春に白い大きな花を咲か
せる木。「ハク」は「白」に通じるので
朴(白)木→シラキ→シラギ→新羅と変化したとも思われる。
「秋の七草」の藤袴では
藤袴→蘭(あららぎ)→阿羅木(あららぎ)→新羅城(あららぎ)と解いている。(参 照)
現代の私たちが慣用句として用いている呼称の中に、古代の人々が機知を働かせ、造語し、
後世に暗号として伝えようとしたと思われ、その作為のひとつに武(竹)内宿禰があり、
金官加夜があり、百済(くだら)があったのであろう。
『万葉集』巻八に載る山上憶良詠<秋の七草>歌は日本の成立に係わった7つの民族名を
伝えようとして残された暗号歌であると私は唱えているが、この憶良の想いのつまった暗号
を後の世に伝えようと密かに行動をおこしたのは、大伴家持である。そしてこの伝えは心あ
る歌人たちによって確実に伝承され、約200年後『古今和歌集』が編まれたがその歌の正
しい解釈のためになされた「古今伝授」という秘伝の中に<三木三鳥>という新たな暗号が
仕組まれた。
古今伝授は秘伝とされたため紀貫之・藤原俊成・定家らを経て代々二条家に伝わり15世
紀後半に東常縁から飯尾宗祇に伝授されるまで世に知られる事もなかった。古今伝授を三条
実枝から預かっていた細川幽斎は武将でもあり、関ヶ原の合戦のあった1600年石田三成
の軍勢に囲まれあやうく死を覚悟する状況となった時に、それを知った後陽成天皇は勅使を
派遣して和議を講じさせた。天皇は「幽斎が討ち死にすると、古今伝授を伝える者がいなく
なるので、本朝の神道奥儀、和歌の秘密が永く絶え、神国の掟も空しくなる。」と言い、憂
えたと伝えられている。
掟とは政府または役所からそうするように定められたきまりの事なので、日本の成立あるい
は正史である『日本書紀』を編纂する時に七種の存在を伏せることにしたが、しかし暗号と
して残すことに暗黙の了解があったともうけとれる。
また和歌以外にも「伏見稲荷神符」の絵解きという形や、平安時代には源順や源為憲らに
よって字母歌の中に仕掛けられた暗号の存在が指摘されている。さらに『新古今和歌集』が
編まれた1200年代には藤原定家が「詠花鳥和歌各12ヶ月」と題する花と鳥をそれぞれ
詠み込んだ月並みの歌を残しているが、この花の中には秋の七草が含まれており、花と鳥を
セットにすることによって、暗号を解くヒントになっているのではと私は考えた。
そして「謎解き詠花鳥和歌」をスタートさせたのだった。秋の七草の<女郎花>は<百済>
と解いており、<女郎花と鵲>の組み合わせも<百済>を指していると予測できたが、誰に
も納得できるような理由づけは難しくずいぶん遠回りしてしまった。
まず私は鵲と昔脱解とをつなげ、さらに蘇我氏らの祖という武内宿禰とがつながれば<百
済>とつながると考えた。
昔脱解は倭の東北1千里の多婆那国に生まれたが、海路駕洛国に上陸を試みるが果たせず、
鶏林の東の阿珍浦に着く。渡航の目的は王になることとしており駕洛の初代の王・金首露と
戦うが果たすことは出来なかった。しかし『三国史記』によると上代の新羅の王位継承者の
第四代は昔脱解としており、その後朴氏(初代~3代も)の王が4代つづき、9代から12
代は昔氏、13代は金氏(17代以降金氏)、14代から16代がまた昔氏が王であった。
このような王位継承の例は世界に類例がなく作為されたか、この三姓の王朝が併存していた
のではとも考えられている。
古代の朝鮮半島の歴史は複雑で不明な点も多く、昔脱解は新羅王とされるが『北史』列伝、
新羅条に「その王はもと百済人にて海より逃げて新羅に入り、遂にその国に王となる」との
記述もあるので、鵲→昔脱解→武内宿禰→蘇我氏→百済とつながる可能性を述べていきたい。
*鵲と昔脱解
『三国史記』新羅本紀に
「或はいわく、この児は姓を知らず。初め箱の来たる時、一の鵲ありて飛び鳴きて之に
随う。宜しく鵲の字を省きて以て昔を氏となすべし。また箱に納めしを解きて出ず。
宜しく脱解と名づくべし。」と記されており、鵲は昔脱解の命名の基である。
*昔脱解と武内宿禰
昔 脱解の呼称は
ソク ダヘ(鳥越憲三郎)、せき だっかい(朴炳植)せき氏(岡田英弘、井上秀雄)
だっかい(平林章仁)など様々な本に様々なルビがふられている。つまり正確な呼称
は不明である。
漢字の日本語読みでは
昔 セキ シャク
脱 ダツ タツ エツ タイ
解 カイ ゲ
「せき だっかい」は一般的な日本語の音読みだが、名前の部分は「だっげ」とも読め
る。「令の義解(ぎげ)」とか「領解(りょうげ)違い」などの例がある。
「だっげ」が口承で伝わる場合には「だげ」「だけ」に変化していく可能性はあろう。
さらに旧仮名づかいの表記では濁点をふらないために「たけ」と表記する。
「たけ」の漢字表記は「丈、竹、長、茸」など
武内宿禰は「たけしうちのすくね」と呼称しており、「建内宿禰」「竹内宿禰」とも記
される。「武」は「たけし」。「建」は「たてる」。
武内宿禰に昔脱解の名前を投影させたとしたら
竹(脱解)し内(家)の宿禰。
<昔脱解 の 家系 の 宿禰>の意味で名づけられたのではないか?
武内宿禰は個人の名前ではなく蘇我氏他の系統を示す象徴的人物として作られた名前だか
ら200年も朝廷に仕えることが出来たと思われる。
古来、日本では「伽耶(駕洛)」の国を「金官伽耶」というが、初代王の「金首露」から
「金(氏)の官」と呼び「金官伽耶」あるいは「金官加羅」。
また「百済」は本来「ペクジェ、ハクサイ」と呼ぶべきを「くだら」と呼び慣わしている。
何故「くだら」か?思うに「脱解」を「竹」と譬え、「竹の官」で「管」。つまり「管羅
(くだら)」と呼ぶようになったのではないだろうか。
「新羅」は本来は「シンラ」「シルラ」と言うべきところを「しらぎ」と呼んでいる。
新羅の初代の王は朴氏。朴は「ボク、ハク、ほお」で、朴の木は早春に白い大きな花を咲か
せる木。「ハク」は「白」に通じるので
朴(白)木→シラキ→シラギ→新羅と変化したとも思われる。
「秋の七草」の藤袴では
藤袴→蘭(あららぎ)→阿羅木(あららぎ)→新羅城(あららぎ)と解いている。(参 照)
現代の私たちが慣用句として用いている呼称の中に、古代の人々が機知を働かせ、造語し、
後世に暗号として伝えようとしたと思われ、その作為のひとつに武(竹)内宿禰があり、
金官加夜があり、百済(くだら)があったのであろう。
http://www.genbu.net/data/tosa/takesakamoto_title.htm