ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

字母歌に仕組まれた暗号 字母歌と誦文

2009-10-20 08:09:16 | 日本文化・文学・歴史
世に広く知られている字母歌は「いろは歌」であるが、他に「あめつち」と「たゐ
に」と呼ばれる字母歌が伝えられている。

「たゐに」は源為憲(?~1011年)が970年に成立させた『口遊(くちずさみ)』
に載っている字母歌である。
『口遊』は為憲が、藤原為光(後に太政大臣)の長男で、当時七歳だった記憶力
抜群の松雄君のために暗誦用に作った。と序文には書かれているが、かなり難解な
部分もあるという事なので他の目的があったかもしれない。私には序文に書かれた
七歳の「七」憶良の名前と同じ「記憶良し」などから、後の解読で読み取れる暗号
「山上憶良」を暗示しているように思われる。
その『口遊』に載っている「たゐに」を大正時代になって、大矢透が五七調の歌と
して解読し、世に紹介したのが以下の「たゐにの歌」である。




「あめつち」は源為憲の師である源順(したごう・911年~983年)の家集『源順集
』によって後世に伝えられたものである。



「あめつちの歌、四十八首」はその前書きによれば、藤原有忠朝臣藤六が詠んだも
のに対する返しであるとし、藤六は「あめつち」48文字を歌のはじめに置いただ
けだが、自分は歌の終りにもその文字を置き、全体を四季に分けて詠んだと述べて
いる。が、「あめつち」の作者がだれであるかはわからない。また「いろは歌」も
「たゐにの歌」も同様に作者が明らかではない。

唯一推測できるのは、名古屋の真福寺に残された『口遊』の写本に載る「たゐに」
に添えられた

 「今案 世俗誦曰阿女都千保之曽里女之訛説也 比誦為勝」

の書き込みである。
 <思うに、世俗で諳んじる所謂「あめつち」は田舎の女たちの流言であろうが、
  この誦(為憲の「たゐに」)が勝ち>と評を下していると思われる。

この書き込みから「あめつち」は世俗で口ずさまれていた誦文の可能性があろう。
また「あめつち」と比べて「たゐに」が勝ちということは、「たゐに」は為憲の作
と考えても良いだろう。

「あめつち」が世俗の誦文とかんがえる理由には、同じ題材で籐六も短歌を詠んで
いる事と、吉田兼好の『徒然草』の135段を思い出した事による。

「ある大納言がある参議中将に会った時のこと「貴君の質問ぐらいにはなんなりと
答えられないことはない」と言われた参議中将は「なんでもない言い草みたいなこ
との中で、意味の知れないことをお尋ねしましょう」というと「何がさて日本の事
柄で浅俗なことなどはなんなりと解きあかしましょう」と大納言がいうので、周囲
の者が面白がり、院の御前の前で勝負をすることになった。参議中将は「子供の頃
から聞いておりますが、意味の知れないことがございます。

 <馬のきつりょう、きつにのをか、なかくぼれいりくれんどう>

と申すことは、どういうわけでございましょうか、お聞かせくださいませ」と質問
するが「たわいもないことだから言う価値もない」と逃げてしまった大納言の負け
となった。」と言う話である。

この中の「何でもない言い草」といわれた<馬のきつりょう・・・・・・>
もいわゆる世俗の誦文の一種であろうと思われる。阿蘇育ちの姑に聞いた話の中に
も地方の伝承が誦文として残されていた。「竹原(たかわら)稲荷、波野鳩・・」
と地名と神様関連がセットになっていた。オウム騒動の頃に聞いたので波野という
地名と、夫の先祖の地のみ記憶に残っているが、しっかりと書きとめて置けばよか
ったと悔やまれる。

手習歌として人々に記憶されていたであろう「いろは歌」、里女の訛説とされる
「あめつち」、意味の判らない言い草の「馬のきつりょう」など、かつて日本には
暗号的誦文文化が存在したように思われる。







 


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