上毛野氏同祖一族であり古墳時代前期には大阪湾沿岸にあって初期大和政権を支えたと思わ
れる母体集団であったが、奈良時代以降の活躍はほとんど知られていない紀伊・和泉・大阪
湾沿岸に居住したグループがある。これらの一族の中で河内に住む田辺史伯孫(たなべのふ
ひとはくそん)という者が、面白いエピソードの主として『日本書紀』雄略天皇9年条に登場している。
河内国の田辺史伯孫が古市郡に住む娘の出産祝いに行 . . . 本文を読む
古代の氏族辞典『新撰姓氏録』によれば、上毛野氏と同祖とする貴族集団は三十六氏ほどあ
り大きく三つのグループに分けられる。
第一グループは東国六腹朝臣を中心とする東国に関係する氏族群。
第二グループは百済系を中心とする渡来系氏族群。
第三グループは紀伊、和泉、大阪湾周辺に住み続けたとみられる氏族群である。
第一グループの「東国六腹朝臣(あづまのくにむつはらあそみ)」は祟神天皇の皇子・豊城
. . . 本文を読む
群馬県の県名の由来は元国府のあった「群馬郡」(前橋市あたり)の群馬から名づけられた
という。その群馬郡の表記は以外に古く、和銅6年(713)諸国に風土記の編纂の勅が発せ
られるが其の時に国・郡・郷名は好字二字に改めよとの指示があり、「上毛野国」が「上野
国」となり「車評(くるまのこおり)」が「群馬郡」に改められる。
車評がなぜ群馬となったのか、その理由を記したものは現存しないが、5世紀台の古墳か . . . 本文を読む
大和朝廷が東国の経営に乗り出したのが何時頃であったか定かではない。
まず3世紀の半ば以降に東海地方から伽耶系(南方・海人系)の人びとが移り住み、利根川
水系の水を利用して県南部の未開の沃野の開拓をはじめた。では縄文以来の伝統的な系譜の
人々との摩擦はなかったのかと疑問を持つが、これらの樽式土器文化をになった人々は主に
西毛から北毛に居住し、隣接する東から西に広がる未開の沃野に進出することはなく、関 . . . 本文を読む