ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

詠解き詠花鳥和歌 残菊と白鳥27 秦氏と藤原氏をつなぐ糸口

2016-02-19 06:57:14 | 日本文化・文学・歴史
このところ世間を騒がせているニュースは芸能人やら政治家やら男女の不
適切な関係。しきりに出てくる「ゲス」という言葉が「ゲスのきわみ」と
いう音楽グループの名称と知って自虐的なネーミングを若い人達は受け入
れているのかしらと驚きました。
そう言えば今では友人間の笑い話になりましたが、結婚当初親の意に添わぬ
息子の嫁に対して「馬の骨」「だぼハゼ」「下げマン」などの暴言を浴びせ
かけた親が何人もいました。一般人の私たちでさえそうでしたから、皇室に
嫁がれた美智子皇后の御結婚に際しては国民の圧倒的歓迎ムードにも関わら
ず旧皇族、旧華族の一部では「粉やの娘」(実際には大会社の社長令嬢)と
陰口をたたかれ儀式の際の服装に必要な情報が伝えられなかったとうわさに
なりました。「国民は平等」とする20世紀でさえ身分という意識の壁は厚か
ったのです。

ところが今から1200年以上前に皇室の外戚ともなった貴族中の貴族・藤
原不比等の孫と渡来系秦氏の娘とが婚姻し、その子らが時の天皇の側近とな
って歴史に名を留めています。
秦朝元については藤原宇合と遣唐使船同乗という出会いと、朝元の父・弁正
が唐の玄宗皇帝(皇太子時代)から厚遇を得ておりこれがプラスに働き、ま
た朝元の資質を評価した宇合の決断があったとも思われますが、秦下嶋麻呂
は聖武天皇の恭仁宮の宮垣を築く任についた時には正八位下という下級官人
であり、その功により14段階特進して参議として太政官の一員とはなりまし
たが貴族の筆頭とも言える藤原北家の御曹司に娘を嫁がせる(当時は招婿婚
とされ婿を迎える形だった)ほどの家格であったとは思われません。歴史の
表舞台には現われない秦氏と藤原氏の関係が以前からあったのではないかと
いう疑問を持ち調べ始めました。

秦氏は漢氏とともに大和時代の有力な渡来系豪族ですが、応神天皇の時に
祖・弓月君が120県の人夫を率いて秦始皇帝の後裔と称し百済から渡来した
というが実際は新羅、伽耶方面からの渡来人集団。山城国葛野郡、紀伊郡
を本拠に開拓。農耕、養蚕、機織を軸に栄え、周辺地域にも勢力を伸ばした。
現在の広隆寺、松尾大社、伏見稲荷大社などを創建し、長岡、平安京の造営
ではその経済的基盤を支えたとみられます。

秦氏の集団は大規模であるとともに多数の氏に分化したが、氏の名に秦を含
み同族としての意識が強く、太秦氏が族長の地位にあった。794年に平安京
を都と定めてから19世紀中葉まで日本の名目上の首都だった。秦氏は首都建
設に全力を尽くし、その財力の巨大さが偲ばれます。

秦氏は漢氏と同じく、はじめは手工業、灌漑工事などに携わった技術者集団
だったのが、次第に勢力を朝廷にまで伸ばし、政治的にも大きく成長した。

秦氏は聖徳太子勢力が没落した後も政界内から離れず672年の壬申の乱には漢
氏とともに大海人皇子(天武天皇)側に属していた。

桓武天皇は長岡京を経て平安京に遷都したが生母を含め渡来系氏族との深い
関わりがあった。遷都の地の選定にあたったのは藤原小黒麻呂であり、新宮
は義父に当たる秦下嶋麻呂の地盤と思われる葛野郡字太秦に置かれるが、小
黒麻呂が初代の造宮使長官に任じられた後、秦川勝の邸宅とも伝えられる邸
を新宮として献上したという。

秦氏が有名になった機織技術のハタは秦から由来したという説があり、『日
本書紀』雄略天皇15(471)年条には秦氏の率いていた民が分散して臣連に
酷使されており秦造にゆだねられていない現状を秦造酒公が天皇に訴えた。
天皇は詔し、秦の民を集めて秦酒公に賜った。それで酒公は多くの村主(勝)
を率いるようになり、租税として作られた絹を夥しく献った。朝廷にうず高
く積みあげたことから禹豆麻佐(太秦)という姓を賜った。その翌年には桑
の栽培に適した国縣を選んで各地に桑を飢えさせた。秦酒公は180の勝部を率
いて庸調を献じている。

『日本書紀』の欽明元(540)年条によると秦人の戸数7083戸を戸籍に入れた
と記されるほどひとつの権力構造を持った豪族として独自に部民制を軸に発
展したものと見られる。
なかでも注目されるのは治水に関する伝承で、秦氏が定着した太秦、嵯峨野
一帯を桂川の氾濫によって荒廃していたが、彼らは葛野川(桂川上流)に堰
堤を造って水利の便を計った(『秦氏本系帳』)ほか淀川の氾濫を防ぐため
茨田堤と茨田三宅の造営に従事した(『古事記』仁徳紀)ことが伝えられ
ています。

秦氏が新羅系氏族だという見解は、広隆寺にたいする新羅仏教の影響、秦氏と
結託した聖徳太子勢力の親新羅政策、新羅使臣の来朝の際、秦氏一族の迎接が
多かったことなどを根拠とする。

 藤原氏が秦氏の娘を嫁に迎える事は秦氏の巨万の富に魅力を感じたからと
思われますが、その富を得るための仕組みや生産地、現代でいえば決済の手段
などほとんど不明なのが残念です。
秦氏の富の根元を紀記では養蚕や機織としているので、まず秦氏が分布し、養
蚕や機織の伝承のある地方を探してみようと思い立ちました。手許には『古代
日本の渡来勢力』(宋潤奎・2003年・街と暮らし社)がありましたので、新羅
・秦氏・養蚕にかかわる伝承地を探し出しました。

その場所は以外にも当ブログでも取り上げたことのある現在の群馬県、古代の
上毛野国。しかも2003年から4年ほど夫の転勤で娘一家が居住していた富岡市
にある上州一宮・貫前(ぬきさき)神社のかすかな伝承でした。

貫前神社はもと甘楽郡。高崎から上信電鉄(この沿線には金井沢碑・山上碑・多
胡碑がある)に乗って富岡の次の一宮駅で下車する。
祭神は経津主神と機織の神といわれる姫大神の二柱で『社伝』によると、社名の
貫前は経津主神が「鉾(ほこ)の鋒(ほこさき)を抜いた」と語義の当て字から
由来し、一名を抜鉾神社とも称するという。

経津主神は物部氏が石上神宮の祭神とし崇めていた武神で一説では藤原氏の祖神
のひとりとも。『続日本紀』天平神護2(766)年条に「甘楽郡人の磯部牛麻呂ら
四人に物部公の姓を賜う」と記されているので七世紀になって甘楽郡に住まわさ
れた百済遺民とみられる磯部氏らが物部氏と同じく経津主神を祀って尊崇したと
思われます。
貫前神社には甘楽郡に秦氏が伝えた養蚕業の由来譚として機織の神事が伝えられ
ています。

上毛野国(のち上野国になる)の甘楽郡と多胡郡は高句麗や新羅系移住民が進出し
て、開拓を進めた地域だったがその後7世紀になって百済遺民が住まわされたとみ
られる。
甘楽郡について『上野国名跡考』は「甘楽のいいは韓なり。古へ韓人を置きしと
ころなり」と記している。『倭名抄』の加牟羅と訓している甘楽には百済系氏族
が創建した神社が各地に見られます。

多胡碑のある吉井から鏑(かぶら)川の支流沿いに南へ行った吉井町大字神保に
科辛(からしな)神社という古社があり、吉井町教育委員会発行の『多胡のはな』
によると神宝の懸仏は多胡郡建郡(和同4年)にあたって惟宗(これむね)入道が
奉納したもので総鎮守として帰化人の子孫によって崇められていたという。
『名跡考』には秦宿禰から分かれた惟宗朝臣(秦氏から改姓した)の末裔とされる
神保氏が代々神主を司っており「辛科明神は韓人の斎きし廟なり」といわれるご
とく、この一帯に住みついた百済遺民によって祀られた社であろう。

惟宗氏は平安時代に秦忌寸、秦公、秦宿禰といったそれぞれ伝統の違う四氏族が
改姓し秦氏から惟宗氏を名乗るようになるが、さらに惟宗氏後継氏族として薩摩
の島津氏対馬の宋氏、市来氏、川原氏、河俣氏、神保氏、安芸氏があげられる。

江戸時代の地誌『上野国志』には神保地区の八束山は羊太夫伝説の古跡なりとあ
り羊太夫に纏わる古跡が今に語り継がれており、ちなみに羊太夫伝説の羊太夫の
父は八束城主・藤原将監勝定。羊太夫は八束羊太夫藤原宗勝と名乗っています。
伝説とはいえ八束脛の八束と藤原一族と思われる藤原を名乗っており、なにか隠
された意図があると感じています。

秦氏と新羅と養蚕の伝承の三点セットが上毛野国にありました。
貫前神社には孫娘の三歳の祝いで参拝しており、今回のテーマのヒントを得られた
事を神の恩寵のように思いました。
上毛野国には藤原不比等とつながる地縁がありました。次回に



































 















コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 謎解き詠花鳥和歌 残菊と白... | トップ | 謎解き詠花鳥和歌 残菊と白... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

日本文化・文学・歴史」カテゴリの最新記事