ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

古代からの暗号 宮中祭祀<坐摩の巫だけは都祁国造一族の娘から>

2024-02-26 09:23:39 | 日本文化・文学・歴史

 仁徳天皇の宮のあったという南渡辺には坐摩神社があります。記紀には大樹伝承があり、その大樹は朝日
の影が淡路島の岩屋神社まで、夕日の影が都祁の兵主神社まで達しており、この太陽の通る天道は北緯34度
32分の線上にありました。迎日信仰を持つ新羅からの渡来民(秦氏)が応神王朝を倒して立ち上げたのが仁
徳王朝であろうと思いました。しかし日本史上誰もが知っている仁徳天皇を簒奪王朝と主張するには確かな
証拠を示さなければ信じてはもらえない。この一か月五里霧中の中で何を探すべきか手探りで集めた情報を
記します。

 A 坐摩神社と土公神

 仁徳天皇の宮地跡に建つという坐摩神社と敦賀(角鹿)との共通項は<新羅>。難波の宮は新羅の迎日信
仰を体現していたし、敦賀市には白木(新羅)神社があり、地名のシラギは新羅人のヒボコ族が住んだ事に
よるという。その新羅王子<天日矛>を祭神とするのが<気比神宮>であるが、気比神宮の旧社地に円墳の
ような小山(現土公)があり「気比宮古殿地」とされ気比大神降臨の地であるという。

<土公神>とは陰陽道の土公紳をいう。
「春は(かまど)に 夏は門に 秋は井戸に 冬は庭にあり その地に撒けば悪しき神の 祟りなし」とされ
陰陽道では「遊行する金星の神・七殺・祟り神とあり、金星の遊行している方角を犯すとは「土を犯す」事
と考え<池を掘ったり、道普請したり、建物を築いたりすることを指しており、故に建築・土木工事・水利
工事のように「土を犯す」仕事が陰陽道に深く関わっている。
陰陽道には大将軍(12年間を1周期とする方位を巡る祟り神)がおり、「土」をつかさどる星神とする。
したがって大将軍の禁忌にふれると災いがおこると考えられていた。

現在でも大将軍神社は京都市上京区にあり、平安時代から室町時代にかけては事を為すに当たってこの神の
居る方位(金星の公転に伴い移動する)を犯せば大凶と恐れられ、一方王城鎮護の神として頼りにもされた
という。

 このような祟りを為す<土公神>を気比神社では何故守っているのでしょうか?
伝承では「気比大神降臨の地」とするが、信じ難い。
仁徳天皇の宮地に建つ坐摩神社の祭神が<祟りを為す土公紳>であったなら、<祟りを封じ込めるために
ひたすら祭祀する>以外には考えられません。

 仁徳天皇の事績を伝える日本書紀によれば<難波から山代にかけてと難波から河内にかけての大土木事業
である事>を2023年10月31日のブログで紹介しています。

 仁徳天皇条を読むと、新羅からの渡来民の新天地として許可された土地は耕作に適さない荒地だったと思
われ、彼ら自身の手で大溝を掘り、実り豊かな田畑を作りあげた様子が記されていました。
陰陽道は中国が発祥地であり、秦氏にとって「土を犯した」罰として彼らの土木事業に祟りが下される事は
最も忌むべき事であったはずです。
その為には<土公神>をひたすら<崇め奉って>災いの源を鎮めようと<敦賀の気比の宮の地>に<土公紳>
の塚を築いたものと思われます。

秦氏にとってこの様な例は他にもあり、現在は秦氏の氏神とされる<伏見稲荷大社>ですが、かつて私は
伏見稲荷神社で配布されたという<伏見稲荷神符>の絵柄を解読して、祭神とされる<宇迦之御魂神>とは
出雲大社の鎮座地・<宇迦山に坐す神>つまり<宇迦之御魂神=大国主命>である事を証明しており、秦氏
にとって祟る神であった大国主命を稲荷神としてひたすら祀っていたのです。

 B 皇室で祭祀されていた坐摩の神

 日本では天皇が代替わりされると新しい年号となるが、昭和から平成となり今年は令和6年である。
天皇の代替わりの折には、宮中祭祀で最も重要な大嘗祭が挙行された。古式にのっとり儀式が行なわれると
期待していたが、雨天の為に屋内に変更されたためか高御座に座られた天皇陛下のお姿のみ記憶している。
日本の古代文化の粋を集めた宮中装束や雅楽演奏など再現させて、国民の目を楽しませてくれる機会が
全くないのは残念に思います。

* 坐摩の神とは、いかすりの神、ざまの神といわれる宮所を守護する神。
* 神祇官西院に祀られた5柱の神の総称。
   1.生井(いくい)神
   2.福井(さくい)神
   3,綱長井(つなながい)神
   4,波比祇(はひき)神
   5,阿須波(あすは)神
  これら5柱の神は井戸の神あるいは水の神説があるが語源は未詳。
* 平安時代の宮中では神祇官西院において「御巫(みかんなぎ)」と称される女性神職、具体的には
  大御巫2人・坐摩巫1人・御門巫1人・生島巫1人により重要な神々が奉祭されていた。
* 『古語拾遺』ではこれらの坐摩の神を「大宮地の霊」と記している。
* 神祇官西院では最重要視されるのは大御巫8神であるが、坐摩の神は2番目に位置づけられている。
* 『延喜式』臨時祭の御巫条・坐摩巫条によると、他の巫は庶民から選んで良かったのに対し、坐摩
  巫だけは<都祁国造一族の7歳以上の女子から選ぶ>と規定されている。

*の情報はウイキペディア「座摩の神」から得たものです。

坐摩の神は平安時代には宮中の神祇官の西院で祀られており、その祭祀を担当するのは「女性の御巫」で
あった。西院には他の神4座もあり女性の神職(御巫)が担当していたが、<坐摩の神を祀る御巫>を
選定する祭には特別な条件があった。
  <坐摩御巫だけは都祁(都下)国造一族の7歳以上の女子から選ぶ>
と『延喜式』に記されいたのです。

仁徳天皇が皇位についた経緯は
<都祁を本貫とする星川建彦の乱によって、宇遅稚郎子は殺害され、応神王朝は倒された。
 その後難波の坐摩神社の地に宮が建てられ仁徳王朝が始まった。
 仁徳天皇の和風諡号・大雀(オオサザキ)天皇から推量すると実体は許勢小柄宿禰の可能性がある。>
史書には全く伝えられていない<星川建彦の乱>ですが<都祁>が仁徳王朝にとって忘れてはいけない
大切な場所であったのでした。




 

   



 

 

 

 

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