ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

謎解き詠花鳥和歌 残菊と白鳥 1 救世観音の摩尼宝珠

2014-08-14 13:24:45 | 日本文化・文学・歴史
奈良県明日香村の都塚古墳(6世紀後半)が高句麗の積石塚古墳の系統らしい。聖徳太子
と同じ頃の人物。いったい誰のお墓でしょうか?ワクワクします。

聖徳太子に纏わるものがなぜ西域につながっているのか?これらも隠された古代史の一端
を知る手掛かりかも知れないと思いはじめました。あいにく仏教の知識のない私なのでや
はり聖徳太子の遺品を手掛かりに謎解きを始めようと思いましたが、ヒラメキを得るには
聖徳太子の事績や人物像を知る必要があります。

聖徳太子(574年~622年)は推古天皇の皇太子(摂政)として政務を担い斑鳩宮に住まい
仏教興隆のために蘇我馬子と協力し、寺を建て、高句麗僧・慧慈、百済僧・慧聡など多く
の僧を迎え、慧慈は仏教の師、百済系覚は儒学の師、側近として新羅系渡来人・秦河勝
を重用しました。

太子の政治外交分野では
 ①600年,607年,608年、614年の4回遣隋使を送り、同行した学生、学問僧による大陸文
  化の移入に貢献した。
 ②冠位12階が制定され、家柄によって身分が決まる氏姓制度から個人の力量や才能に
  よって地位が得られる後の官人の位階制のさきがけとなった。
 ③憲法17条の制定をし官人や貴族の服務規律や道徳規範を示した。

仏教分野では
 太子の父・用明天皇が仏教帰依を表明した最初の天皇であったが、動機は病気平癒を期
 待し現世利益を求めるものであった。一方太子の姿勢には現世利益を求める傾向も、鎮護
 国家を求める呪術的な要素もなく、仏教を個人の内面的、精神的なものとの関連において
 理解しようとするものであった。

太子の言葉として
 天寿国繍帳に載せられた
 「世間虚仮、唯仏是真」(世間はこけなるも、ただ仏のみ是まことなり。)
 -虚仮」とは心の中と実体の合わないさまをいう。嘘。ー
 舒明天皇即位前紀に載る、聖徳太子の臨終の時の言葉。
 「諸悪莫作、諸善奉行」(諸々の悪しきことをばなせて、諸々の善きわざを行へ)
 -増一阿含経、涅槃経などにもある七仏通戒偈ー
 などは太子の思想を知る手掛かりです。

聖徳太子は皇位につくこと無く亡くなり、推古天皇も後継天皇を決めること無く崩御する。
太子の子の山背大兄王は皇位継承の資格はあったものの選ばれたのは田村皇子(敏達天皇の
孫・舒明天皇)であった。さらに次の天皇は舒明天皇の皇后が皇位につく(皇極天皇)。
聖徳太子一族が皇位につくチャンスは無くなり、さらに蘇我入鹿によって一族滅亡に追い込
まれる(643年)。太子一家は蘇我一族であったにもかかわらず、清廉な理想主義者だった
事や、次々に独自の政策を打ち出した事が蘇我馬子や推古天皇の意向に添わず邪魔な存在に
なっていったとみられる。

滅亡してしまった太子一家の住まいだった斑鳩宮に建てられた法隆寺は太子一家の怨霊を鎮
める寺であると一般に考えられている。

この頃の日本書紀の記事は新羅や百済の王族や僧の名、飛鳥の皇族や有力者の名が何代か前
の天皇紀に関わっていたり、大変煩雑で注記や補注をいきつ戻りつしながら目を通している
と、推古天皇14年5月条に天皇が鞍作止利に対し「仏刹(ぶっせつ)を建てむとして始め
て舎利を求む」と勅す場面があり、「仏刹」とはなにか判らず注を見ると
 「<刹>は旗竿、寺の前に宝珠火焔の形をつけた竿をたてて寺の標識とした。
 仏刹とは寺院の義。」とありました。かつて私は稲荷神符の謎解きをし、その神符には火
焔宝珠が描かれていたのでその形を覚えていました。またまた『中国新疆文物古跡大観』に
旗竿につける旗と思われ、宝珠紋の図柄のついた出土物が掲載されていました。

解説文には<「棕地摩尼宝珠紋錦巾」1983年 和田地区buzhak古墳地から出土。長さ22.5cm
巾17cm。出土時佩干死者身上。>とあるのでミイラ化した死者の上にこの旗が置かれていた
らしい。ただし、この古墳群は五代(10世紀頃)時代とあり聖徳太子より後の時代であった。


ところがこの摩尼宝珠の文様とそっくりな物が法隆寺の夢殿に坐す救世観音像の掌に載って
いました。救世(くせ)観音像とは法隆寺東院の中心をなす夢殿(738年頃、行信僧都によっ
て建立された)に祀られる秘仏である。
今は春と秋に公開されるが『聖徳太子伝私記』(鎌倉時代)を書いた顕真すら「今世ならびに
昔日にもその体(すがた)を知らず」と言っており、創建以来秘密のヴェールに包まれていた
像ですが、明治17年(1884年)アーネスト、フェノロサ(美術史家)と岡倉天心が倉庫や厨
子を開ける権限のついた公文書を持って法隆寺を訪ね、夢殿内の厨子を開くよう要求します。
寺僧は「もし戸を開扉すればたちまち神罰があり、地震がおきて全寺が壊れてしまう」と伝承
を楯にして抵抗したがそれを押し切って開扉させたと述べている。

厨子の内には木綿を幾重にも巻いた丈の高い物が顕れ、降り積もったほこりにまみれながら布
を解いていくと、長さはおよそ500ヤード(450m)もあったという。

この像は聖徳太子の現し身といわれ、身の丈178,8㎝、掌には摩尼宝珠(あるいは摩尼宝珠形
舎利容器)を持っている。

法隆寺が怨霊を鎮める寺と思われる理由には夢殿の屋根の上に露盤と宝珠が掲げられており、
これらは御霊屋の建築に用いられるものという。

その上救世観音は通常の仏像とは異なり、中身が空洞でしかも背光が後頭部に釘で打ち付けら
れている。同じ法隆寺の百済観音の背光は本体とは別仕立てで立っているので救世観音像には
相当な悪意が感じられる。

夢殿を造った行信は厭魅を得意とする怪僧であった。厭魅とは人形を作って手足をしばり釘を
打ち込んで井戸に捨てる呪いの呪詛である。私も三島に越して来たばかりの頃犬をつれて散歩
をしたが住宅地を降ると家もまばらな林や野原が多かった。小さなお堂があったので立ちよる
と床下に呪いの藁人形が落ちていた。犬が咥えないようにあわてて逃げ帰った記憶がよみがえ
った。

御霊屋とされる夢殿の厨子(棺?)の中で聖徳太子の現し身と言われる救世観音像は摩尼宝珠
を手に、まるでミイラのように木綿を巻かれて閉じ込められていました。
西域の和田(ホータン)で発掘されたミイラ化された?遺体の上にも摩尼宝珠を織りこんだ布
が置かれてありました。同じような葬送の風習がうかがえます。



























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