ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

古代からの暗号 <菟餓野の鹿>は仁徳天皇の罪科(罪科・とが)か?

2023-10-02 10:48:42 | 日本文化・文学・歴史

日本の著名な学者である水野祐氏や井上光貞氏らが崇神王朝・仁徳王朝・継体王朝の成立時、皇統の交代
があったとする説をとなえていることは知っていました。が、<星川建彦の乱>のような具体例には初めて
出会いました。しかも私は全く違うルートの謎解きで仁徳天皇の実像を星川建彦の父親という<許勢小柄>
(『続日本紀』)と考えていました。
これが史実とみなされる為には仁徳天皇陵の中から墓誌が発見されれば別ですがほぼ不可能でしょう。
しかし何かの手掛かりが残されていないか猛暑の中で考え続けて来ました。

 日本書紀の仁徳天皇即位前記の<鳥の名替えの説話>は<星川建彦の反乱>によって武内宿禰の子孫に
皇統が変わった事を暗示している部分ではないかと思いました。
仁徳天皇の和風諡号「鷦鷯(サザキ・スズメ)」の由来は、応神天皇の皇子が生まれる時、産屋に木菟(ツク・
ミミズク)が、武内宿禰の子が生まれる時には、産屋には鷦鷯(ミソサザイ・スズメ)が飛び込んできたこと
から応神天皇は<これは天つ表(しるし)なり。その鳥の名を相易えて子に名づけて<後の世の契とせむ>と
記しています。
この説話は仁徳天皇の出自を鳥の名で暗示するために設定されたもので武内宿禰の子が鷦鷯(すずめ)となり
仁徳天皇の和風諡号と合致しています。ただし、記紀では武内宿禰の後裔氏族の平群氏となっており天皇の
ようにふるまったとも伝えられています。許勢小柄宿禰・平群木菟宿禰・波多八代宿禰はみな武内宿禰の後裔
氏族であり葛城系(クルグズ族)の乗っ取り計画は成功したと思われます。

仁徳天皇の皇后には葛城襲津彦の娘である磐之媛がなり聖帝と呼ばれるほどの実績もつみましたが、仁徳天
皇35年には磐之媛が筒城宮で亡くなり、37年には乃羅山に葬られました。翌年仁徳天皇は八田皇女を立てて
皇后としました。
それから3年後に今日のテーマである<菟餓野(とがの)の鹿>の説話が『日本書紀』に掲載されました。 

 八田皇女が皇后になって7年後の7月、仁徳天皇と皇后とが高殿にいて涼みながら会話をしていました。
 現代文で紹介しましょう。
「時に毎夜<菟餓野>より鹿の鳴き声が聞こえる事がありました。その声は悲しそうに聞こえましたのでお二
人は哀れな情を抱いていました。月末になると鹿の音が聞こえなくなったので天皇は「今夜は鹿が鳴かないが
どうしたのだろう」と皇后に語りかけました。
翌日、猪名県の佐伯部から大きな食料の荷が貢上され天皇が問うと<菟餓野の牡鹿>である事を知りました。
が、内心では「自分が聞いていた鹿の鳴き声の主であろう」と思いながら皇后に語りかけました。
「私はこの頃もの思いに沈んでいる時に鹿の声を聞くと心が安まる。今、佐伯部の献上して来た鹿は、時と
 場所から察すると私たちの耳に聞こえていたあの鹿なのではないだろうか?佐伯部の者は私の心情など知る
 由もない訳だけれど恨めしい事である。佐伯部を都から遠い安芸の渟田に移してしまへ」と命じました。

上記の説話は鹿の鳴き声にかこつけた物語ではありますが、仁徳天皇は何故、鹿の鳴き声に哀れを感じ、その
鹿が佐伯部から御贄として献上されてきたと知って、都から遠い安芸国に移郷させてしまったのか?この物語
から仁徳天皇の胸中を推理したいとおもいます。

私がこの説話に注目したのは仁徳天皇の皇后となったのが八田皇女であったからです。
八田皇女は系図的には応神天皇の太子であり、星川建彦の乱によって命を失った菟遅能稚郎子の妹であり、古事
記には妹八田若郎女と記されています。
応神天皇2年条には八田皇女について、仁徳天皇は八田皇女を妃にしようとしていたが、皇后の磐之媛の反対され
た事もあり、磐之媛が薨去された後の仁徳天皇38年正月条で皇后になっています。

現代の感覚からすると異腹であっても妹を妻にするのは憚かられますが、記紀には同母の兄妹の恋愛事もありま
した。まして星川建彦の反乱によって兄を失った場合には、戦いで敗れた側が妻や娘を勝者へ献上する事が当然
のように行われており、仁徳天皇は菟遅能稚郎子の妹を娶り、皇后にすえて融和を図る事は必要な事だったと
思われます。

では仁徳天皇が<菟餓野の鹿>と聞いて動揺し、佐伯部を遠い安芸の国に移せと命じたのでしょうか?
<菟餓野の鹿>の<菟餓野>は何処の地名か調べてみましょう。

①斗賀野  仲哀記では斗賀野  
      神戸市灘区の都賀川流域とする説と
      大阪市北区兎我野町の付近とする説。
      仲哀天皇が亡きあとカゴサカ王とオシクマ王が神功皇后と皇子を待ち受けて討ち取ろうと斗賀野
      で事の成否を占うための誓約狩りをしたとする場所。
②菟餓野  日本書紀の仁徳天皇条 河内の宮殿の近くにあった場所。
③刀我野  摂津国風土記逸文には日本書紀の<菟餓野の鹿>とほぼ同様の説話が載っているが相違点もある。

仁徳天皇は<菟餓野の鹿>と聞いて佐伯部を移郷させようと命ずるほどの怒りを覚えたものの、<菟餓野>は
ある特定の地名をさしているようには見えません。では<鹿>はと考えると仁徳天皇の寿陵を着工しようとし
た日の出来事が日本書紀67年条に記されていますが、「河内の石津原に出でまして陵地を定め給う。この日に
鹿ありてたちまちに野の中より起こりて、走りて役民の中に入りて倒れ死ぬ」とあり、その鹿は地主神の象徴
と考えられている事を思い出しました。<菟餓野の鹿>を御贄として貢上した佐伯部は門号氏族として軍事面
で活躍が見えるが、倭建命が東征の帰途、捕虜とした蝦夷を伊勢神宮に献ずるがその蝦夷達が神宮の周辺で騒
ぎ朝廷に進上される。しかしそこでも騒いだために景行天皇によって畿外に追放され、これが播磨・讃岐・伊
予・安芸・阿波の佐伯部の祖と日本書紀では伝えています。鹿は列島の基層民・蝦夷と考えると、琵琶湖の鳥
<カイツブリ>を<蝦夷・頭>と考えました。つまり<鹿>は<志賀>を指していると思われます。
仁徳天皇にとって<八田皇女の兄である菟遅能稚郎子を志賀(宇治)で殺して皇位を奪い取った罪科(とが)>
を佐伯部に指摘されたと受け取った為に、佐伯部を遠ざけたのではないかと思いました。

日本書紀の編者たちは<仁徳天皇が皇位を簒奪したことは秘中の秘>であったために掛け言葉を使って歴史の
真相を伝えようとしたのではないでしょうか。 

 

 

 

 

 

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