ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

古代からの暗号 秘密を暴露する<磐余稚桜宮>伝承(1)

2023-01-20 10:04:47 | 日本文化・文学・歴史

「kotodama2009」として開設した当ブログは14年目に入りました。今年も<言霊>を信じて謎解きを
続けたいと思います。

今日のテーマは神功皇后と履中天皇の宮号として伝えられている<磐余稚桜宮>。この宮号の由来は
『日本書紀』履中天皇3年条の説話(要約)による。
「天皇、両枝船を磐余市磯池に浮かべ后妃らと遊んだ折に、膳臣余磯(あれし)が酒を献ると、その盃
に桜の花びらが舞い落ちてきた。天皇は時でもなく飛んできた桜は何処の桜かと物部長真胆連(ながま
いのむらじ)に探すように命じた。その桜は掖上室山にて探しあて献った。
天皇は季節はずれの桜を喜んで、宮の名を「磐余稚桜宮」と名付けた。そして長真胆連には稚桜部造の
姓を膳臣余磯には稚桜部臣の姓を賜った」

しかし、神功皇后は履中天皇の3代前の仲哀天皇妃なので時間軸で考えれば有り得ない事です。私は他の
意図が隠されていると感じ注目しました。

磐余とは奈良県桜井市の地名で三輪山の南、天香久山の東にあたり、大和朝廷初期の都があった地域と
されます。

 一、「磐余稚桜宮」を宮号とした神功皇后と履中天皇の関係は?

 現在の磐余地区には式内若桜神社(桜井市谷)と式内稚桜神社(桜井市池之内)の二ヶ所あり、長い
年月を経た今では宮殿の跡地さへ特定する事は困難ですが、最も知りたいことは履中天皇はともかく
神功皇后が何故に関わっているのか?なにか隠されている事情がありそうです。
この疑問を解くヒントを提供してくれたのは『飛鳥の神がみ』(平成4年・吉川弘文館)の著者・横田
健一(1916年〜2012年)氏でした。
「神功皇后と履中天皇の宮都はいずれも「磐余稚桜宮」と号した。<ワカサクラ>の号の起源説話は
膳臣余磯が履中天皇に献じた酒盃に、飛んできた桜の花びらが浮かんだことにある。ここに膳臣が関係
している。そして膳臣の本拠の一つが若狭である。するとワカサクラの宮号の起こりがワカサ、若狭の
国にあるのではないかという連想が生ずる。桜の花が浮かんだだけならば、余磯は何も若桜臣としなく
ても桜臣でよいわけである。また宮号も桜宮でよいわけである。
神功皇后が太子ホムダワケノミコトの成年式のために、なぜ敦賀の気比神社に行かせたか、なぜ神功皇
后の宮号がワカサクラの宮か、という理由が解けてくるように思われる。」

 <ワカサ>に関しては横田氏の指摘されたように、神功皇后の皇子(後の応神天皇)が成年式のため
に行った敦賀の気比神社の祭神に自分の名<イザサワケ=去来紗別尊(書紀)=伊那沙和気大神(記)>
を「皇子の名に変えてほしい」と同行していた武(建)内宿禰を通じて申し込まれ承諾した話が導入部
分と思いますが、現代でも親から子への襲名はみられ昨年は市川團十郎の名籍が引き継がれました。
では、気比大神(イザサワケ=去来紗別尊)の名がホムダワケノミコトにひき継がれたわけですがこの
名がさらに引き継がれた形跡があるかどうかを確認すると、一字は異なりますが履中天皇の諱が<イザホ
ワケ=去来穂別(書記)=伊那本和気(記)>だったのです。気比大神の諱が応神天皇→履中天皇へも継
承されていました。この正史とは全く異なる系図を成立させるには、上記三人の親子関係を証明しなけれ
ばなりません。

 二、<気比大神>の正体

気比大神→応神天皇→履中天皇へ諱のバトンタッチがなされた事はこの三人に親子関係であった可能性が
あります。しかし、記紀によれば応神天皇は仲哀天皇と神功皇后の皇子です。神功皇后が新羅征討に出立
する時には妊娠していた事が良く知られており、応神天皇の母である事は疑いようのないことですが、
仲哀天皇が不審死したこともあって、応神天皇は神功皇后と武(建)内宿禰との間に出来た不義の子とか
宇佐家の古伝では神武天皇の皇子説など巷には諸説流布しています。
正史が正しいか、うわさが真実かそれを暴くことなど無理と思われるでしょうが、この若桜宮伝承地<磐
余>に傍証できそうな物を見つけました。

 気比神社の祭神・イササワケが自分の名をホムタワケ太子に与えますが、受けてくれたお礼にと浦いっ
ぱいのイルカを贈ります。それにたいして太子は気比大神に<御食つ神>という名を贈呈します。
先に若狭では景行天皇の時から天皇の<御食事>を奉るのが磐鹿六雁の子孫(膳臣)でした。それ以降膳
臣は内膳司長官として天皇の<御食つ>を取り仕切る立場にいました。
膳臣は崇神天皇以前の欠史8代とされる孝元天皇の皇子・大彦(大毘古)の子孫です。古事記の系図では
大彦の異母兄弟の比古布都押之信命の子どもが<建内宿禰>でした。
ホンダワケノミコトが気比大神を<御食つ神>と称えたのは景行天皇が称えた磐鹿六雁の子孫であったから
でしょう。

系図を見ると大彦の子に建沼河別命がいますが、その横に<阿部(安倍)臣等之祖>と記されています。
やはり孝元天皇系膳臣の同族ですが、飛鳥周辺図(『飛鳥の神々』より)の中に<安倍寺跡。安倍文珠院>
が存在していたのです。そして磐余は安倍氏の本拠地だったのです。

仲哀天皇記に載る<気比大神>の正体は<建内宿禰>であり、応神天皇の真実の父親だったのです。
密やかにささやかれていた不義密通説はうわさではなかったようです。
次回は履中天皇の父母は誰かを推理します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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