2009年にスタートしたブログは15回目の新年を迎えましたが、元日には大地震が能登半島を襲い、
2日には日航機と海保機の衝突事故があり羽田空港の滑走路内で炎上する2機の映像に日本中が肝を
冷やしました。
こらからの1年を皆が平穏に過ごせますように!心からの願いです。
昨年来当ブログのテーマは<聖帝と言われる仁徳天皇の実像>を探ってきました。
2023年5月30日「仁徳天皇の黒幕だった?葛城襲津彦と弓月君(秦氏)」を今読み直すと日本史の
主流の見解とは異なる独自のストーリーですが、次回のブログを準備中に<仁徳王朝成立の原因は
星川建彦の乱>によるとするネット情報(sabo氏のブログ)に出会いました。しかも星川建彦は都
祁という弓月君(秦氏)を祀る地を本貫とし、古事記の系図では武内宿禰の後裔である波多臣に属
していたが、sabo氏説でも「星川建彦は許勢小柄宿禰の長子(続日本紀)」説を取っており、私の
推量とほぼ一致していました。sabo氏のブログが現れた事は嬉しいことであり、確実にそれを証明
する物を見つけたいという意欲が湧きました。
2023年3月27日のブログ「雀と名がつけられた<仁徳天皇>」
では滋賀県米原市朝妻筑摩に鎮座する筑摩神社の祭礼「鍋冠祭」について紹介しました。
私が仁徳天皇の実像と推量しているのは許勢小柄(こがら)ですが、漢字の表記では<小雀>と書
き<こがら>とよばれる鳥がおり、その姿が頭に鍋をかぶっているようなので別称として<鍋かむ
り>と呼ばれていました。
筑摩神社は息長帯比売(神功皇后)の出身地である息長氏の本拠地にあり、この祭りは「日本三大
奇祭」と言われ、妙齢の女性がそれまでの男性経験の数だけの鍋をかぶり練り歩くという奇祭です。
この祭りの趣旨は男女関係の多い女性を揶揄しているように思われるので、息長帯比売は仲哀天
皇の妻でありながら武内宿禰と男女の関係があったとか夫婦であったという説が流布している事か
ら息長帯比売を暗に指しているように見えます。
一方の武内宿禰は古事記に載る後裔系譜によると当ブログで仁徳天皇と考えている<許勢小柄>の
父親なのです。
「鍋冠祭」の<鍋>は産鉄氏族である息長氏を指す一方、仁徳天皇の宮があった地名<渡辺>から
<なべ>+<冠(天皇のしるし)>と名付けた可能性があると思いました。。
<渡辺>という苗字のような地域は、平安時代に作られた「浪華古図」(1098年)という地図では
大阪湾の上町台地の西に中島という二つの大きな島があり島をつなぐ新羅橋が架かっており、昔は
新羅船がここに着岸したという。さらに難波の海には淀川河口の南に大きな島が四つ並んでいて
古代よりこの辺りを「大江の渡し」と称したことから「渡しの辺り」が略されて「渡辺」になった
という。ここは古代難波の唯一の河港で「国府の渡し」とも呼ばれたが、ここには「高津社」や
「坐摩神社」があった。
前回のブログの「兔寸河の西に高樹があり、朝日の影は淡路島の岩屋神社まで、夕日の影は都祁の
穴師兵主神社へ届いていたことは両者が<北緯34度32分>を通る太陽の道でつながっていたのだっ
た。中心に立つ高樹は渡辺にあり、仁徳天皇の宮地もこの辺りにあった事から、天皇も新羅の迎日
信仰をを持つ集団に支えられていたと思われます。
南渡辺には坐摩神社(ざま神社または、いかすり神社)があるが『住吉大社神代記』は坐摩の神は
住吉の大神の魂」と記載しているからか、住吉の神の鎮座地は坐摩の御神の鎮座した地とも言われ
ているようです。
坐摩神社の現在の宮司は渡辺姓だが、三代前までは都下(つげ)を名乗り先祖は都下国造であっ
たという。大雀(仁徳)天皇誕生のきっかけとなった星川臣の本貫も都祁でありsabo氏のブログの
伝承は真実であったと思われる。
ただし、古事記の武内宿禰の後裔氏族には仁徳天皇の実像と思われる許勢小柄宿禰がいるが、一方
応神天皇の子に生れながら臣下の子の名を名乗る平群都久宿禰の名前もあり、単に名を替えたとい
うよりは略取され、武内宿禰の子供として育てられた可能性もありそうです。
私は旧姓を「近江」と言うけれど関西には全く縁がなく坐摩神社の名前さへ知りませんでした。
最初の疑問は坐摩神社が何故「いかすり又はいかしり」神社といわれるのだろうか?でした。
これらの疑問に答えてくれたのは
『飛鳥の神々』(著者・横田健一 1916〜2012年 吉川弘文館 1992年 )
『新羅神と日本古代史』(著者・出羽弘明 1939年〜 (株)同成社 2014年)
です。
<いかしり>とは『住吉大社神代記』中の「天の平瓮を奉る本記」に坐摩の大神を奉祭する祝(はふり)
がおり、その名が<為賀悉利祝(ゐがしりのはふり)>でした。この祝も重要な役割を担っていると
思われます。
また、坐摩神社の本質が難波ではなく、角鹿の<気比神宮>にある事がわかりました。
坐摩神社の貴重な情報は上記の本から得ていますが、これまでの気比神宮とは異なる一面があるよう
ですから重要なことを転記しましょう。
「気比神宮の本殿の隣に気比神宮の旧社地がある。周囲を瑞垣と柵で囲まれた地の中央に円墳のよう
な小山がある。「気比宮古殿地の事」と刻された石碑には
現土公は気比の大神降臨の地であり、
・・土公は陰陽道の土公神の異称で、春は竈に、夏は門に、秋は井戸に、冬は庭にありとされ、
その地に蒔けば悪しき神の祟りなしと深く信仰されている。大宝二年(702年)造営以前の気比宮は
この土公の地に鎮座され祭祀を営まれていた。
とある。
陰陽道は古代中国の天文学と密着しており、はやくから日本にも伝わったとされるが、隆盛をみたのは
天武朝である。この神は名称は異なるが摂津の坐摩神社の祭神と同じ神である。
『気比神宮略記』に「伊奢沙別命」は笥飯(けひ)の大神・御気津(みけつ)大神とも称し、二千有余
年、天筒(てづつ)の嶺に霊跡を垂境内の聖地(現在の土公)に降臨したと伝承され、今に神籬磐境の
形態を留めている。上古より海の航海安全と水産漁業の隆盛・陸の産業発展と衣食住の平穏に霊験著し
い。」
仁徳天皇と土公神はどのような繋がりがあるのでしょうか?難解そう・・・・。
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