ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

古代からの暗号 古田史学「筑紫なる飛鳥宮」の要旨

2019-11-29 10:34:49 | 日本文化・文学・歴史

 平成から令和へ改元された今年は、新天皇に伴う行事が様々行われ私たち国民の目を楽しませてくれました。
10月22日の「即位礼正殿の儀」には朝庭に於いて古式ゆかしく幡を立て儀仗の武人や雅楽の奏者も伝統の装束で
居並ぶ様を期待していましたが、雨天のためテレビでは廊下の端に座っている姿がチラリと見えただけでした。
晴れていたらどのような景色になっていたのでしょうか?即位の行事が終了した今、事前に予行演習を行ったと
思いますので映像があったら是非公開していただきたいと思います。

11月8日には東京で用事があったので午前中に正倉院展を見に行きました。ケースの周りは二重三重に人だかり、
見たいものだけ覗き見しながら会場を巡りました。聖武天皇遺愛の品々が1300年もの間大切に守られて来た事
と現代の人間国宝級の人達が試行錯誤しながら正倉院の五弦の琵琶の復元を試みたドキュメンタリー番組を見た
ばかりでしたので、その技術の素晴らしさと贅沢な材料をふんだんに取り入れて限りなく美しさを追求できた豊
かさをどうして得られたのだろうと思いました。
眼福のあと、少し休憩して玄関ホールに立つと考古学の展示スペースの表示が目に止まりました。プレートに誘わ
れて中に入ると上古からの列島の出土品が解説付きで展示されており、つい引き込まれて順路を巡ると埴輪のコー
ナーで以前のブログで(2016.7.3)「龍蛇族?巫女の埴輪の襷模様」で取り上げた群馬県箕郷町(現高崎市)上
芝古墳出土の等身大の半身像があり、知り人に出会ったように思わず微笑んでしまいました。写真でしか見た事が
なかったので頬に塗られた赤い化粧?入墨?の鮮やかさが印象的でした。

 令和の年号は筑紫太宰府の大伴旅人邸で開かれた梅花の宴に詠じられた和歌の序文にちなんで名付けられたもの
ですが、太宰府から南東へ15㎞ほど離れた小郡(おごおり)市周辺に九州王朝の都があったと主張しているのが
「古田史学会」(故古田武彦氏と門下生の研究グループ)です。前回『壬申大乱』で取り上げたのは万葉集の柿本
人麻呂歌中に詠み込まれた地名が大和ではなくて筑後川に沿った筑後平野にあると一部紹介しましたが、たしかに
全編を通じて古田氏の地名検索は詳細に行われており説得力がありました。

 古田史学会の正木裕氏がネットに公開した<「筑紫なる飛鳥宮」を探る>は古田氏の説を簡明に補足しています
ので九州王朝説のポイントを紹介します。

⊛ 日本書紀で天武天皇の都と記す「飛鳥浄御原宮」は筑紫小郡に存在した九州王朝の宮である。
  『壬申大乱』他において、万葉集の明日香皇子に関する歌や現地の遺存地名(飛鳥)、考古学的分析(小郡の
  の遺跡群等)を通じ「飛鳥の地を福岡県小郡市に比定され、飛鳥浄御原宮は同所に存在した九州王朝の宮である」

⊛ 『壬申大乱』で従来近畿での出来事とされてきた壬申の乱は九州から近畿、東国まで巻き込んだ一大決戦であり
  背後に「占領軍」たる唐の意向、天武への支援があった。

  ①白村江以降唐の軍隊が筑紫、佐賀なる「吉野」に駐留していた。指揮官は郭務宗(白村江敗戦後、唐側の使人)
   であった。
  ②天武は兵を挙げるについて、その吉野に赴き、唐の了解・支援をとりつけ、筑紫より出征した。
  ③従って近江朝の「近江京より、倭京に至るまでに、処処に候を置けり」とする。「倭京」は筑紫となる。

⊛ 筑紫小郡が「浄御原宮」の存在した地域といえるか、文献的、考古学的な検証。

  ①『書紀』で筑紫には大郡・小郡の存在が記されている。
  ②天武2年(672年)11月壬申(21日)に高麗の邯子・新羅の薩儒等に筑紫の大郡に饗たまふ。禄たまふこと各差
   あり。
  ③持統3年(689年)6月乙巳(24日)に筑紫の小郡にして新羅の弔使・金道那羅に設たまふ。物賜ふこと各差あり。

  筑紫大郡・小郡は何れも外国要人を迎えた式典の執り行われた場所だ。先述の新羅の客・金押寶等を饗した「筑紫」
  も大郡・小郡の何れかと思われ、『書紀』上も天武即位と同時期にこうした施設が筑紫小郡に存在したことが確認
  される。

⊛ 「明日香皇子」は筑紫君薩夜麻である。

  万葉集199番歌は「高市皇子尊城上殯宮時 柿本朝臣人麻呂作歌の一首併せて短歌」の詞書きを持つ長歌である。
  万葉集では高市皇子の壬申の乱での活躍を歌ったとされるが、古田氏は次のように指摘している。

  ①歌詞は「厳冬の戦い」を示し、夏の戦である壬申の乱ではありえない。
  ②高市皇子はこの戦いで戦死したわけでも行方不明になったわけでもない。
  ③百済の原で薨去もあてはまらない。

  以上から199番歌は壬申の乱を詠んだ訳ではなく、九州王朝の「明日香の宮を造った大王」。「磐隠り(崩御)し、
  もう一人勇敢に戦った皇子が「百済の原」で「神葬り(薨去)」したと歌う。但し、201番歌では皇子は「ゆくへ
  を知らに(行方不明)になったと歌う。

  明日香皇子とは百済、白村江敗戦に際し、捕虜となり唐に抑留されていた筑紫君・薩夜麻である。

⊛ 結論

  遺跡や『書紀』の記事、万葉歌、現地の地名・地勢などから総合的に判断して、筑紫の旧御原郡の小郡井上地区は
  「飛鳥の明日香」と呼ばれていたと考えられる。
  そこは高良玉垂命の皇子に由来する「あすか」地名に満ちた地域だった。しかし、九州王朝の天子・皇子の名を冠した
  明日香川や明日香山は、近畿天皇家の権力が確立した九州年号大化期、即ち700年前後に消滅させられ、阿志岐や蘆城
  悪木に変容させられた。その根拠が「大化改新詔」に見る「皇子地名抹消」だった、
  そして「飛鳥・明日香」は近畿天皇家の本拠である大和の地名や宮の名に移された。天武即位から朱鳥元年まであった
  はずの近畿天皇家の宮の名称は隠され、天武・持統の宮が始めから「飛鳥浄御原宮」であったかの如く装われたのだ。

 もっと詳しく知りたい方は<「筑紫なる飛鳥宮」を探る 川西市 正木裕>で検索すれば全文を読むことが出来ます。

『壬申大乱』(古田武彦著)は難解な万葉集の歌について詳細に地名を考証し、従来の説の解釈の破綻を指摘された労作でした。
筑紫王朝の和歌が大和王朝のこととして盗用されていた事に大変驚きました。
しかも古田氏が近畿朝廷に盗まれたとして取り上げた歌の作者はすべて柿本人麻呂でした。

 太宰府で梅花の宴を催した大伴旅人の生涯は664年〜731年頃の人で、720年には隼人討伐の総大将でした。

 暗号歌「秋の七草」の作者・山上憶良(660〜733年)は筑紫守の時に梅花の宴にも参加し、旅人と共に筑紫歌壇の中心的な
 存在でした。

 柿本人麻呂は多くの長歌が万葉集に載っていますが経歴は不明ながら憶良や家持とほぼ同時代の人物と思われます。

 万葉集の編者と思われる大伴家持(717〜785年)は旅人の子で、山上憶良の辞世歌に和して「勇士の名の振るわん事を願へ
 る歌」を残しています。

これらの万葉歌人たちは672年の壬申の乱を体験または身近に体験した人から詳しく話を聞くことが出来た世代であり、また
「古事記」(712年成立)「日本書紀」(720年成立)の記述内容を知る事が出来たと思われます。

古田史学の説のように筑紫(九州)王朝があったにも関わらずその存在を近畿王朝の事績とされ、その存在が消されていたら
真実を伝えようと考えた人々が行動を起こすことは十分に考えられます。
それが「秋の七草」の暗号歌ではないか?そして九州の謎を解く鍵が<「秋の七草」の「撫子の花」>であろうと思います。
もう一度「撫子の花」の謎解きを試みます。

 







 

 


 


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