ほとほと通信

89歳の母と二人暮らしの61歳男性の日記。老人ホームでケアマネジャーをしています。

硬い風

2012-04-10 | 苦しさ
明け方、私はベランダに面したサッシを開けた。

正面に公園のネットが張られてあるが、昇ったばかりの太陽の眩しい光が、網の目を溶かしていた。

太陽の背後から次々に雲が現れて、私の方向に進んでくる。


風が強いようだった。

風はサッシやベランダの物干し、配管パイプに当たると、それらをカタカタと鳴らした。

私の顔も風に打たれた。でも、それは何とも不思議な感覚だった。

風は「あちらの世界」から来たらしく、自然の息吹が何もない、無機質な人工物のようだった。

硬い風は、ペタペタと、子供の手のひらのように私の頬を叩いていく。


ふと見ると、濃緑の外套をまとった80歳くらいの老夫婦が、公園の脇の道を並んで歩いていた。

こういうカップルを見ると、ふだんは寂しい気持ちが浮かんでくる。

だが、このときは、まったくそうならなかった。

老夫婦は、やはり、「あちらの世界」にいて、私には何の繋がりもないからだ、


私はサッシを閉めた。

風が急に途切れると、部屋のカーテンがはためいた。

だが、カーテンももはや、私とは違う世界にいることは明らかだった。

ラックも、壁も、いびつに歪んで、どこかよそよそしい。


私はふとんの上に座り、数十錠あるクスリのシートを手に取った。

私は「やはり、勤めにいこうか?」と何度か自問した。

が、もう手遅れだと思った。

風も壁もこんなに硬くよそよそしくなってしまったのだ、

やり直すことなどできやしない。


すべてを終わりにしたい。断ち切りたい。


私は、小型のビールジョッキに水を注いで、抗うつ剤を口に含んだ。

(たくさんあるぞ?これを飲んだら、もう戻れなくなるよ)

「いいんだ」

私は、声に出して答えた。


恐怖感はなかったが、解放されるという気持ちもなかった。

「できごと」に「感情」が伴わない、のっぺりとした感覚だった。硬い風に頬を叩かれているときのように。

ただ、脳の奥底に、乾いた哀しみの塊りがあるのは感じられた。


私は、二種類のクスリを、七十錠ほど飲み続けた。




…目が覚めたのは、五十時間以上たってからだった。






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