今日は仕事はお休みでした。
洗濯、買い物、スポーツクラブ、自炊…と今日も典型的な休日を過ごしました。
昼は高菜チャーハンを作りました。
材料は、高菜、豚バラ肉、長ネギ、卵、ごはんです。
ごま油で炒めるのがポイントかも知れません。
なかなか美味しく、これからの定番メニューのひとつになりそうです。
午後からは、Yahoo!の無料動画で配信中のフェリーニの『道』を観ました。
たぶん7、8回目くらいの鑑賞でしょうが、とても感銘を受けました。
若い時に観た名作は、多分に「名作バイアス」が掛っていて、後年観ると「こんなんだったけ?」と思うことも多いのですが、『道』はいつ観ても強い感銘を受けます。
以前にも書きましたが、私が初めてこの作品に出逢ったのが中学二年生になる前の春休みでした。
それまでも映画は好きで、特に『荒野の七人』や『大脱走』と言った1960年代のアメリカ活劇を好んでいました。
でも『道』は、それらとは全く違う世界で、私はしばらく呆然としていました。
それは感動と言うより、ほとんど性的な昂奮に近いものでした。
新たに気づいたことがいくつかありました。
ザンパノは、思っていたほど粗野な男ではない。
キ印を殴り殺してしまったのは彼にとっては全くの手違いで、哀れなほど慌てています。
病気になったジェルソミーナを棄てて逃げたのは悪いけれど、毛布を掛けてお金を預け、彼女の大切なトランペットを枕元に置いて行くのですから、やはりジェルソミーナの無垢を愛していたのでしょう。
無学で酒癖の悪い大男だけれど、彼はああやって生きるしか術がなかったのだな…と思わせます。
かえって「キ印」の方がやっかいな男だ…と気づきました。
いわゆる「空気を読めない」言動をする辺りは、今でいえば「大人のADHD」でしょうか。
それでいて寂しがりやでプライドも強いから、そばにいたらさぞ大変なタイプだなア…と思いました。
ジェルソミーナは「振り回されているだけの無垢で哀れな存在」とずっと思い込んでいました。
でも彼女は、キ印から「小さな石ころにも価値がある」と言われて以来、かなり能動的にザンパノに働きかけていました。
「私が死んだら寂しい?」と聞いたり「小さな石ころでも良いから一緒に生活しよう」と言ってみたり。
あの衝撃的な事件で強いPTSDにならなければ、ザンパノでなくても、誰かと家庭を築けていたかも知れません。
ザンパノもキ印も、とうてい一般的な家庭を持てるようなタイプではありません。
言わば、生来の甲斐性なしです。
少年だった私は、彼らから自分に通じる「何か」を感じ取ったに違いありません。
ザンパノを受け入れようとするジェルソミーナや傷付いた彼女を救おうとする修道女など、『道』全編から強い母性が感じられます。
欠損ある男と包み込む母性…と言う構図が、四十数年前の私の「昂奮」の理由のひとつだったのでしょうか。
『道』に関しては、まだまだ語りたいことがあります。
でも、ゆっくりと掘り下げないと、本当に心の深いところで感じていることは書けないと思います。
でもそれは、この作品を観ていない人には興味のないことでしょう。
どうも、ご退屈さまでした。
洗濯、買い物、スポーツクラブ、自炊…と今日も典型的な休日を過ごしました。
昼は高菜チャーハンを作りました。
材料は、高菜、豚バラ肉、長ネギ、卵、ごはんです。
ごま油で炒めるのがポイントかも知れません。
なかなか美味しく、これからの定番メニューのひとつになりそうです。
午後からは、Yahoo!の無料動画で配信中のフェリーニの『道』を観ました。
たぶん7、8回目くらいの鑑賞でしょうが、とても感銘を受けました。
若い時に観た名作は、多分に「名作バイアス」が掛っていて、後年観ると「こんなんだったけ?」と思うことも多いのですが、『道』はいつ観ても強い感銘を受けます。
以前にも書きましたが、私が初めてこの作品に出逢ったのが中学二年生になる前の春休みでした。
それまでも映画は好きで、特に『荒野の七人』や『大脱走』と言った1960年代のアメリカ活劇を好んでいました。
でも『道』は、それらとは全く違う世界で、私はしばらく呆然としていました。
それは感動と言うより、ほとんど性的な昂奮に近いものでした。
新たに気づいたことがいくつかありました。
ザンパノは、思っていたほど粗野な男ではない。
キ印を殴り殺してしまったのは彼にとっては全くの手違いで、哀れなほど慌てています。
病気になったジェルソミーナを棄てて逃げたのは悪いけれど、毛布を掛けてお金を預け、彼女の大切なトランペットを枕元に置いて行くのですから、やはりジェルソミーナの無垢を愛していたのでしょう。
無学で酒癖の悪い大男だけれど、彼はああやって生きるしか術がなかったのだな…と思わせます。
かえって「キ印」の方がやっかいな男だ…と気づきました。
いわゆる「空気を読めない」言動をする辺りは、今でいえば「大人のADHD」でしょうか。
それでいて寂しがりやでプライドも強いから、そばにいたらさぞ大変なタイプだなア…と思いました。
ジェルソミーナは「振り回されているだけの無垢で哀れな存在」とずっと思い込んでいました。
でも彼女は、キ印から「小さな石ころにも価値がある」と言われて以来、かなり能動的にザンパノに働きかけていました。
「私が死んだら寂しい?」と聞いたり「小さな石ころでも良いから一緒に生活しよう」と言ってみたり。
あの衝撃的な事件で強いPTSDにならなければ、ザンパノでなくても、誰かと家庭を築けていたかも知れません。
ザンパノもキ印も、とうてい一般的な家庭を持てるようなタイプではありません。
言わば、生来の甲斐性なしです。
少年だった私は、彼らから自分に通じる「何か」を感じ取ったに違いありません。
ザンパノを受け入れようとするジェルソミーナや傷付いた彼女を救おうとする修道女など、『道』全編から強い母性が感じられます。
欠損ある男と包み込む母性…と言う構図が、四十数年前の私の「昂奮」の理由のひとつだったのでしょうか。
『道』に関しては、まだまだ語りたいことがあります。
でも、ゆっくりと掘り下げないと、本当に心の深いところで感じていることは書けないと思います。
でもそれは、この作品を観ていない人には興味のないことでしょう。
どうも、ご退屈さまでした。
私が初めて観たときも、市原悦子、小松方正、愛川欣也三氏の吹き替え版でした。吹き替え版も良かったですね。
『道』は当時、何度も繰り返しテレビ放映をしていました。フジテレビの日曜昼12時に洋画放送があり、そこでも放映しました。その枠で『甘い生活』や『自転車泥棒』も私は観ました。1970年代の地上波は、今では考えられないくらい「文芸映画」を放送していましたね。今ではそれはすっかりBS放送の役割ですが。
後年考えると、私は『道』からたくさんの影響を受けています。
たとえば『道』に現れる修道院とシスターの「受容性」が、私がカトリックの洗礼を受けた心の原風景のひとつだったことを確認した気がします。
そして、ラストのザンパノの「孤老の慟哭」は、今までいちばん痛切に感じました。
私も『道』の映画を観たことありますが、ほとほとさんほど強い影響は受けませんでしたが、じんわりとした深い映画だったという印象はあります。
ちょっとまた観たくなりましたね。
ところで、私が「カトリックの洗礼を受けた心の原風景」の映画は、『神の道化師 フランチェスコ』と『さよなら、子どもたち』です。ご存知でしょうか。
「道」に関しては細部がとても好きなのです。猥雑な太った女性たち、長く病気を患う子供のちょっとホラー風味のカット、裸の馬が脈絡なく現れるシュールで幻想的シーンなどなど、フェリーニワールドがあちこちにあり、でもそれらは主役三人の切なく叙情的物語の主旋律を乱すことはありません。雑多さと聖性の共存という意味では本当に奇跡的な作品だと改めて思いました。
マックスさんお勧めの二作品も観てみたいですね。でも、TSUTAYAにもなかなか渋い往年の名画は置いてないですね。