雲上快晴

プーさん爺じが、何の変哲もない日々を綴る

津田一真塾に来るということ

2007年07月08日 | 卓球
 ひさしぶりに、あるクラブの指導者が生徒を連れてやってきたのである。
 前回の来塾の際に、一真塾の卓球を教え込んで、「この卓球を追及する」と言って帰っていったので、どれくらい進化しているのかを楽しみにしていたのである。

 ところが、やってきた生徒に球出しをした一球目で、その期待を踏みにじられてしまった。
 前回指導した時の指導前の卓球から何も変わっていない、あれから一体何をやっていたのだ、これではうちに来る意味がないだろう、と、正直憤慨したのだけれど、聞けば、周りからの執拗なプレッシャーがあり、やりたくてもなかなかこっちの卓球をやることが出来ないということらしい。

 でも、大人の世界ではいろいろ難しい付き合いがあるかもしれないけれど、それに振り回される子供にとっては、とんだ迷惑な話ではないか。
 昨日まで、自分の所属するチームで教わっていたことを、今日全面否定されて180度違った練習をさせられ、また明日になると自チームの良しとする卓球に戻されるのである。

 大人の論理からすれば、いろんな考え方・卓球を知ることによって幅が広がるとでも言うのだろうが、子供にとってみれば、「一体どっちの卓球が正しいのよ?どっちの卓球をすればいいのよ?」と思ってしまうだろう。

 津田一真塾に来るということは、一度目は「どんな卓球理論なのか知りたい」ということもあるだろうから何も言わないけれど、再度の来塾ということであれば、この卓球を追及していなければいけないのである。

 いやいや、一回では判らないから二回・三回と来て、理解を深める必要があるのだ、というようなことを考えているならば、それは全くの論外、永遠にこの卓球を理解することが出来ない人間なのである。

 この卓球を一目見て、理屈に抜きに(理屈に適っているのだけれど)美しいと思える人間でなければ、絶対に理解することは出来ない卓球が、この卓球なのである。

 今回、再度の来塾をした子に、再度この卓球を教えたら、実に美しいフォームで、それまでのボールとは天と地ほどの差のあるボールを打ち出したのである、あのフォームとあのボールを見て、踏ん切りのつかない指導者であったら、津田一真塾への来塾は意味のないものであるから、私は受け入れない。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする