目覚めり。今日は揺れでも、緊急地震速報の電子音でもなく。
余震か。また余震が起きないのか、と「未知の活断層」はなくならないのか、とは思う。原発が作れなくなるから調査していないのでは?と疑惑の目で見たり。>時事ドットコム:未知の活断層活動か=広義の「阪神大震災余震」-淡路島中部・東北大教授 jiji.com/jc/zc?k=201304…
日経ヴェリタスは,アベノミクスで持たざるリスクを警告している。勝ち組のポートフォリオは,現金等30,日本株20,外国債券25,外国株式とREITが25だそうだ。
厩橋舞台、松嶋文楽座、新富町守田座。梅若実、植村大蔵、守田勘弥という個人がプロデューサーとして建てた劇場。それぞれ宝生九郎、豊沢団平、9代目団十郎という芸術面での同伴者を持つ。今日的「リアル」な人間を表現、という共通点。客席の「個人」と舞台の「個人」の結び付き、近代の現れ。
文明開化の明治の現代、西洋そのものを写した作品の「舞踊劇」「東京の風俗を写したもの」「翻訳劇」の3つの流れ。「西国立志編」なんてあるんだな。竹内某の訳からでは不可能な生き生きしたものだったのだろう。
東京の左団次、関西の右団次とも4代目小団次の子なのか。左団次は養子にしても。片や「団菊左」と並び賞され、片やけれんの「斎入右団次」。ここが繋がっているのは興味深い。
団菊左より前の明治歌舞伎の大立者が5代目彦三郎と4代目芝∥。
今日の上方和事は明治初期の初代延若と中村宗十郎が基礎を築いたもの。ここから初代鴈治郎、11代目仁左衛門、2代目延若に伝わり、今日に至る。
「「働くのは金のため」と冷ややかに構えつつ、「本当はそれだけではないはずなのに…」という思いが切実であるほど、却って「金のため」以外の答えの説得力について敏感になり、「金のためだけではない」という答えに対してつい冷ややかになってしまう。」
「「金になりさえすれば、何だっていいのだ」と本気で考えている人はそうはおらず、実はそうではないかも知れない、という可能性にどこかで敢えて目をつぶった上で、そう主張している」ケース。様々な苛立ち。
「自己実現のため」働く。「自己」が「実現される・されない」とはどういう状態か?の解なしに語ったって仕方がない。
「働く」は「傍(はた)を楽にする」であり、「社会・他人に何か価値を提供する」こと、という位置付けで良いと思うのだけどなあ。だから資本主義社会では付加価値の対価として報酬が得られる訳で。
内なる「自己」が存在してそれが「実現する/しない」ではなく、「棺を蓋ひて、事、定まる」。
意味への問が、手段としての有用性への問に変質しがち。「何のために働くのか」が「何のための手段か」となり、「そのための手段が他にないのか」に向かう。労働が苦役であるという現実が、苦役でしかない、黙って諦めろ、という主張と同一視される。
手段・目的の関係であれば、手段と目的は別個の事柄。
手段と目的には前後関係がある。「生きるために働く」のであれば、まず「働く」があり、「生きる」がある。では「生きる」意味は?と問うと、意味の先送り。手段ー目的関係の危険性。
働く側からではなく、働かせる側や仕組みを作る側から声高に語られる「働く喜び」。「劣悪な環境ではした金しか貰えなくても、働く喜びを発見しなさい」という言説。衛生要因と動機付け要因を踏まえれば、衛生要因を満たさずにアホなことをほざくな、という話。
ますます、教員にならないような制度設計ばっかり。好待遇&不安定ならまだ理解できるが、低賃金&不安定の資格仕事なんて誰が行くか。ただでさえ、志望者減って「質」が低下、それを養成機関のせいだ、とされ底上げしてんのにさ。