朝寝-昼酒-夜遊

日々感じたことを思いのままに書き散らすのみ。
※毎週土曜更新を目標にしています。

クラスター発生を叩くな

2020年10月19日 10時36分55秒 | 社会
「〇〇でクラスターが発生したので、1週間の業務停止」
てな記事をよく見る。
挙句、施設名を公開するとその施設や従業員が叩かれる、と云う。

しかし「クラスター発生」は、現状の検査体制では、
「運・不運」でしかなく、
明日は我が身、である。

陽性患者が偶々出る。
その患者の「濃厚接触者」として、会社・店の同僚が検査を受ける。
検査を受けると、同様に感染している。
と、その会社・店で「クラスター発生」と言われ、叩かれる。

陽性患者が出なければ、
その会社・店の同僚が検査を受けることはない、というのが
今の検査体制の特徴(問題点、とは敢えて言わない)。
もしかすると、実際には「クラスター」が発生しているのかも知れない。
それは、検査していないから分からない。
検査するかどうかは、最初に陽性患者が出るかどうか、という、
「運・不運」に大きく左右される。

そんな「運・不運」で左右されるもので、
「クラスター発生だ」と、
死者に鞭打つように叩きまくるのは不適切だろう。

明日は我が身、なんですよ。
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正義へのニヒリズムと、信仰と。

2020年10月17日 12時27分46秒 | 政治
「正義」を希求することに対して、
シニカルに捉えたり、ニヒルに捉えたりするのが格好いい、という感覚が
横行しているように感じる。

曰く、「正しいことなんか何もない、数が正義だ」「いい子ぶるな」
「タテマエでなく、ホンネが大事だ」…。

露悪的なだけなのかも知れないが、どうも「正義」「正しさ」を追い求めるのは
青臭い、カッコつけてる、恥ずかしい、といった感じ。
戦後の民主主義や啓蒙思想に対するアンチテーゼなのかも知れない。

そのくせ、一度「これが正義だ」と決まったこと、決めたことについては、無反省に、
他者に対して押し付ける。
自分で「正義だ」と決定したことを根拠として行動する。
クレームの電話を入れまくる、ネットで叩きまくる。
そこには、「自分の行動は適切なのか?」という自省はなく、
「正義だと決定したから、正義だ」という信仰になっている。

この「正義を希求する」ことに対するニヒリズムと、
いったん決めた自己の「正義」に対する信仰と。
「正義」をさして重要なものでないと感じるか、己の言動のベースとする程の重きを置くか。
本来ならば相対立するはずの二つの感覚が共存している。

それは、或いは「自己に対する自信のなさ」と「自信がないから、周囲に対して虚勢を張って見せる」の
二面性と通底するのかも知れない。
自分の(いったん打ち立てた)「正義」に自信があるからこそ、
逆に自分自身の言動や判断を疑い、「より正義」を希求できる。
自信がないから正義だと(自分自身に対しても)信じ込み、反撃に耐えるためにこちらから先制攻撃する。

でも、正義を希求し、疑い続けるのは「しんどい」し「面倒くさい」。
「何が正しいか?」「本当に正しいのか?」と考えるのはエネルギーが要るし、
流れに逆らうよりも乗っかった方が楽。

でも、安きに流れるのは「正しい」ことなのか?
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「多数=正しい」ではない

2020年10月05日 06時27分06秒 | 政治
維新などを中心に、「多数だから正しい」的な発想が見られる。
例えば、「気に入らなければ、自分たちが多数を獲れば良い」といった言説。
しかし、「多数」というのは「正しさ」を推定する一つの観点ではあるが、
それが絶対に正しい、という訳ではない。

極端な例を考えてみる。
アーリア人が8割、ユダヤ人が2割で、
アーリア人が「ユダヤ人は虐殺しても良い」と考え、
8割の多数をもって決定し、ユダヤ人を虐殺する。
これは正しいのか?
「多数だから正しい」の極限は、こういう話。

もちろん、これは「正しくない」と感じる人が(維新も含めて)「多数」だろう。
ではここで、「虐殺しても良い」は正しくないとして、
「どこまでだったら」或いは「どのような手続を踏めば」
「少数者に不利益を甘受させることが正しいのか?」を考える必要が出てくる。

そこで出てくるのが、例えば
本人の存在や安全に関わる部分は、多数決によっても侵害してはならないが、
経済的利益に関する部分については侵害しても良い。
但し、手続的に単に「多数決でOK」ではなく、
少数者の意見を十分に聴取しなければならない、
といった話。
もちろん、これも常にOKという話ではなく、
例えば代替可能な手段はないか?といったチェックは必要になってくるだろうし、
どこまでが「存在や安全に関わる部分」か?といった議論は出てくる。
# 他にも、「将来」の決定をするのに「現在」の人間の多数で決定しても良いのか、といった
 課題は存在するだろう。

いずれにせよ、
単に「多数=正しい」という価値観は危険過ぎる。
「多数」であることは「正しい」ことを原理的に意味するものではない。
あくまでも「多数」は便宜上、「正しさ」を推定するものに過ぎず、
本当に正しいか、は常に模索する必要がある。

ごく当たり前の話なのだが、改めて。
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