考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

どうしたら抽象化できる考え方に至るのか

2010年05月20日 | 教育
 授業でも何でも、生徒との話でも、勿論日常生活でもブログでも「話が通じない」と感じることに共通点がある。私の得意(?)の物理で例えると、「物体が落ちる速さは重さにかかわらず同じである」というと、必ずといって良いほど、「でも、実際にモノを落とすと、軽い羽はふわふわ落ちるのに時間がかかるし、金属の球は速く落ちるから、違っている。だから、あなたの言うことは間違っている」という返答が来ることだ。「物体は質量にかかわらず同じスピードで落ちる」という、他の要素をそぎ落とした非常に抽象的な事項を、具体的な例を持ち上げて「違う」と否定するやり方である。「三角形の内角の和は180度である。」にしても、実際に測ったら、決してそうならないことを持ち出して、「それは違う」というのも同じである。先日、書いた「高いところに靴を置くのは良くない」ということに対して「機能」を考慮せずに下足箱を例に挙げて「下足箱の上もいけないんですか?」という質問も同様である。
 
 私は、こうした思考がわからない。わからないというか、そのように言う人をどのように理解させたらよいのかがわからない。「猫」や「犬」は「ペット」であり、あるいは、「動物」という上位概念になるということをどのように理解させたらよいのかがわからないのである。授業中にはしょっちゅう生じる大きな課題である。文章読解において「何月何日に」を「いつの話か」という読み取り方をするとか、becauseを見たら、次に理由が書いていると読み取ることなどの教え方。接続詞の用法として予め教えておくのが教師としてはラクな方法であるが、それしか方法はないのだろうかと思う。人に教えて貰ってからの「これは理由」「これは順接」「これは対比」「これは比較」などの判断は、予め与えられた「理由」、「順接」などの概念に「当てはまるかどうか」だけを思考する、つまり、「与えられた分類方法で分類する」という手法でしか物事を捉えていないと言うことになる。しかし、私は、それではつまらないと思うのだ。自分で「理由」「順接」などの概念を生み出す能力はどのように育成できるのか、を問題にしたいのだ。そうでないと、結局は、自分でモノを考えることにならないと思うからだ。
 もちろん、「概念」として一つの言葉に纏めにくいものではあろう。自分の手持ちの用語になければ表現しようがないとは思う。それでも、「なんとなくだけれど、これは、あれこれで、なんとの関係になると思う」など、まどろっこしい説明であっても、具体から抽象へと思考がたどる過程こそが正しい勉強の筋道になるだろう。結局、この思考法を身に付けないことに、決して勉強が本当にはできるようにならないのである。それで、こうのように抽象と具体の間を行ったり来たリするスムーズな行き来の能力が「応用力」であり、この習得こそが勉強であろう。それで、この能力は、おそらく、「単に人に教えて貰って理解する」だけで培えるものでないと思うのだ。思考のどこかの過程で壁にぶつかって、それで、自らの力でその壁をぶち破らないことに習得が不可能だと思うのだ。
 
 (あれ、こんな結論になるするつもりではなかったのだが。)
 「わかりやすい授業」は、この意味でも生徒の学習能力を奪う、正確に言うと、自ら壁を打ち破る能力の育成を阻害するのではないか。近頃の生徒の思考力のなさは、壁にぶつかる経験のなさ、訓練不足に負うのではないか。どう見ても、勘が悪いというか、何というのか、頭が良い子たちなのに、なぜこんなに鈍いのかが私は不思議でならないのだ。
 
 それから、「わかりやすい」という表現がいやらしいと感じる。なぜ「わかる授業」と言わないのか。
 「わかりやすい」という表現は、あくまでも相対性に則った表現である。何と比べて「~やすい」のか、そこを述べずに使用する無責任さ、ずるさ。この点、「わかる」は違う。自分がわかるかわからないかのどっちかである。「わかりやすい」という、なんとも薄気味悪い用語に、生徒の学ぶ力をそぎ落とす、何だか邪悪なものを感じる。
 「わかりやすさ、断固、反対。」

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