考えるのが好きだった

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個性は実は「例外」だった

2006年10月01日 | 教育
 学校で今の40代以上の世代が受けてきた教育は、言わば、十把一絡げの教育だった。みんなが同じスピードで歩く、走る、そんな教育方法だった。だから、生来スピードが遅かったり或いは速すぎたり生徒は、ついていくのが大変だったり、退屈だったりした。しかし、それで、自分が速い方なのか遅い方なのかという、集団内での「位置付け」がわかった。が、同時に、劣等感や変な優越感というマイナス面も生んだ。

 それでも、昔は、特に小学校では、勉強ができる以外で、かけっこが速いとか、絵がうまいとか、けんかが強いとか、かなり数多くの価値尺度が存在し、何だかよくわからない基準でぐちゃぐちゃと位置付けが入り乱れていた。それで、一つの分野で劣等感を抱く者は存在しただろうが、それが全てでない価値判断がここ彼処にあった。

 それがいつの頃からか、価値尺度が「勉強」に偏ってきた。学歴が収入と関係することが明らかになってきてのことかもしれない。お金の力が増大してのことだろう。こういった価値基準の単一化が、子どもの生活の隅々に入り込み、子どもの価値が言わば「勉強」だけで捉えられがちになってきた。子どもが一つの価値尺度で一本に序列化し、「勉強ができない」ことが「劣等感」として子どもの心をむしばむと捉えられるおうになった。それが高じて集団教育のもたらす相対主義、「相対的な位置付け」が否定される方向に働き始める。
 
 しかし、価値尺度が一つでないことは誰でもわかっている。そこでたぶん出てきたのが「個性」だったのではないか。勉強だけで子どもを評価してはいけない、もっと他の能力や人間的な尺度があるはずだ、だったら、それも評価に入れるべきであると。
 社会が豊かになり、一人一人に注目できるようになったという背景もあるだろう。

 子どもの能力の違いを個性と捉える考え方は、もともと特殊教育といわれる障害児の教育にあった。当たり前だが、障害とは、一人一人で異なるため、その子に応じた教育が最善の教育で、それしか他に教育の方法がない。よって、個々の能力の違いを「個性」と捉え、個々人にあった教育を施す。十把一絡げの指導は基本的にない。その意味で、一人一人が大事に扱われる。繰り返しになるが、とにかくそれが唯一最善の教育方法で、何故それが唯一かというと、対比的な「集団教育」が基本的概念としてありえないからだということになる。
 
 実は、普通学校に「個性」という考え方が入り込んできたとき、上記の考え方がだぶるように私には思われた。
 障害は、自然界ではある意味当然起こりうるものである。よって、人間であるならば、人類全てが背負うものとして、より力のある者が保護するなり支援するなりし、時にはそこから人間だからこそ得られる「何か」を見出し、より豊かな人間社会の形成に与することがあり、その価値は尊いのである。

 しかし、凸凹はあっても天賦の能力として「普通」の能力を与えられた場合に、子どもが成長し大人になる過程で能力を最大限に引き出し、育むのに、本当に「個性重視」が必要であるのか、甚だ疑問に思う。
 なぜなら、「個性」は、あくまでも「個人としての存在」を認知する概念で、社会的動物として人間が持つべき資質や能力を育成する力を持たないからだ。人間は「社会」抜きに生存することはできない。社会の中で生き抜くには、その中での関係性、「位置付け」が不可欠であろう。どんなに自分では足が速いと思っていても、自分より足の速い者がいれば、その者に走る仕事を託した方がことがうまく進むだろうということだ。集団として有利に生き残るためには、自分の能力がどうだと言うよりむしろ、共同体の中で自分が果たすべき役割を果たす方が、その共同体の力は総合的に強くなり、個人の生存に還元される方向に働く。
 
 現代の「個性」は、個人内の能力における絶対性とでも言うか、物差しの基準が一人一人異なったままで個々の能力を評価しようとしているように思われる。自分で足が速いと思っていれば集団内でも足が速いことになるようなものである。これでは社会的には軋轢が生じて当然であろう。その結果、判断の基準はあくまでも「自分」になるため、「自分はもっとできるはずだ、こんなはずではない」、「回りがおかしい」という解釈が出てきて当然である。こういった個の集まりは、集合体とは呼べない。バラバラの個人が点在するだけの烏合の衆のようなものである。これは「社会」たりえず、集まりがあったところで個人に還元されるものはない。

 人間は「社会」を形成しないと生きられないことに反論する人はいないだろう。その社会の形成に必要なのは、何かを考えると、実は、「皆が何かの共通点を持っている」ことになる。「近所」という空間の共有、言語という共通点、風俗習慣という共通点など、さまざまだが、全く何の共通点もない者同士で社会を共有することは不可能である。
 ところが、上記の個性がもたらすものは、「点在的な様々な能力」で、共通点ではない。個性重視教育はそこで破綻するのだ。
 よって、教育の主眼は、個性重視策に置かれるべきではなく「共通点の育成」になければならないのである。それで、これを可能にするのが、集団教育であり、上で述べた「位置付け」にしても、互いの存在がバラバラではなく関係性を持つという意味で共通点の一つたり得るのである。

 「個性」とは、実は、あくまでも例外に他ならない。主たる存在があり、そこからはみ出した部分が集団扱いできない存在として「個性」と認知されるべきものではないか。
 確かに、一人として同じ存在はいない。その意味で狭義の「個性」は存在する。しかし、それを個性と捉えていたのでは、上記の理由で我々はおそらく集合体として生き抜くことはできない。

 それで、どうしてもはみ出してしまう個性としての「例外」は、時に人類の偉大な財産としておそらく歴史的にも大いなる活躍を見せてきた存在であろう。ただ、おそらくは決して主流たり得なかっただろうと言うことだ。

 子どもの才能を集団で捉え、集団として伸ばし、集団として育む。持って生まれた才能のいずれもが、誰にでも望まれる才能というわけではないだろう。一人の子どもの中にも、望ましい才能と矯正すべき才能が共存するのが通常であろう。集団教育を施す意味は、ここで、矯正すべき才能が何かよくわかること、それで、集団で過ごすことで、それをどのような方向に矯めていくべきかがわかること、ではないか。集団はそのような力学的な?構造を持って始めて集団たり得るのである。

 しかし、このように書くと、「集団教育で才能が潰れることがある」という反論が予想されるが、反駁することができる。
 集団教育で潰れるような才能は個性的な才能でも何でもない、元々がただの普通の才能にすぎなかったということである。どんなに矯めても矯めても矯めきれない才能こそが個性で、そういった個性は、僅か十数年の学校教育で潰れるものであるはずがない。それよりも、下手に個人の才能を尊ぶ空気が蔓延する方が、集団の形成が十分に行われず、成員の質が下がって総体的に重荷となり、大いなる個性が発現したとしても、それを社会全体に還元できないほどの状態に陥るのではないか。社会は、ごく少数の人間が頑張って全員を支えることなど不可能なものである。社会が豊かな社会として機能するためには、全体の底力が上がることが肝要である。これを可能にするのは何も個性ではないのだ。

 個性は異端である。おそらく、強い個性の持ち主は、自分が異端であることを自覚し、それでも自分を活かそうと努力してきたはずである。個性とは、それでやっと輝き始めるのだ。集団の中で自分を活かすのも、異端として自分を活かすのも、人間が生きていく過程はおそらく過酷で、安楽なものではない。安直な個性の捉え方は、そのまま安直な生き方に繋がるのではないか。ラクをすることが個性ではなく、おそらく個性とはかなり過激で過酷で、余程強靱な精神力と高い能力を持ち合わせるのでなければ堪らないほどのものであろう。でなければ、人と違った突出したことはできるわけがない。

 人は通常「個性的」である必要はない。集団に適応するように努力し、自立して人ができることを自分もできるようにしていくことだけで随分大変なことだからだ。それで、その一つをとっても、人と自分が違うことくらいすぐわかるはずだ。どうしても「個性」を認識したければそれで十分ではないのか。
 それで、この程度の個性とは、何のことはない、最初に述べた「集団内での位置付け」に他ならないのである。その点、今の子どもは、この位置付けができずに「自分が何に向いているのかわからない」と悩みを増やしているのが現実なのだ。


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