考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

伝統文化の良い点

2007年09月10日 | 教育
 あらゆる日本の伝統文化に共通する素晴らしい点は、美しくしかも合理的な「型」、そして、型にも通じる「礼儀作法」であろう。

 だから、教室では、椅子にきちんと座らせる。鉛筆を正しく持たせる。正しい文字を正しく書かせる。立つときは重心を両足において真っ直ぐに立つ。どこであってもきちんとした姿勢で、はっきり大きな声で挨拶をする。人の話は顔を上げて聞く。目上の人には敬語を使う。教えを請うときは礼に始まり礼に終わる。

 別になんと言うことはない。普段の学校生活で、十分に指導できることばかりである。時に指導する側も襟を正す必要があるだろう。が、そうやって指導する気があるかないかの問題だけだ。

 毎日、折り目正しい暮らしをしていれば、学習に対する姿勢だって変わってきて、自分の行為に関しては「教養が邪魔をする」だろうし、「品格」だって自ずから滲み出てくるのではないかしら?

 で、たぶん、いったん指導し始めたら、教員が生徒から学ぶことだって数多く出てくると思うけどなぁ。


2 コメント

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こんこん、こんばんわ♪ (狐)
2007-09-14 18:46:19

 ふむ。

 死なない(固まらない)程度に危険でなければ効果が無い。

 効果が見えない程度に幅広く浸すことで、成熟可能性への準備が出来るかも知れない。
お久しぶり~♪ (ほり(管理人))
2007-09-14 23:12:38
狐さん、コメントをありがとうございます。

うむ。
>死なない(固まらない)程度に危険でなければ効果が無い。

生徒を指導するとき、死ぬ思いもあるでしょうからねぇ。(って、そんな意味で書かれたのではないと思いますが。ちょっとよくわかんなくってね。笑)

>効果が見えない程度に幅広く浸すことで、

「効果」って、目に見えてはいけないものかもしれませんね。だって、「目に見える」と、皆が、「これだ、これだ。良いモノ見付けた~。」から、やがてそのうち、「これしかない」と飛びつき他にめがいかなくなる、たぶん、日本人。
でも、そうなったときには、「薬効」がなくなって、「副作用」が強く出るんじゃないのかな。

「教育方法論」って、みんなそうだったような気がする。マニュアル化がいけないということでもあるかな。

結局、自分のアタマで考えるしかないんです。教師も生徒も。共に、それを忘れて、「もっと良い方法があるはずだ」と人の脳味噌経由の「方法」に執着する。

「インターネットで何でも分かる」と言っていた人がいたけど、自分で考えることをしないからだろうなぁと思った。ネットなんて、所詮、他人の脳味噌だもの。

突然ですが(笑)、江戸時代、「寺子屋」の重要性は認識されていたのだろうか? 結果的には日本の近代化の基礎に関わったほどのものなのに、多分、そんな大層なものだという認識は、寺子屋の先生にも子どもにも親にもなかったんじゃないのかな。(←根拠のない直観)

また気楽にどうぞ~♪

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