考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

能は真ん丸

2005年09月17日 | 能楽
 能舞台は残酷である。
 
 ご存じのように、柄杓の形をした舞台の柄の部分は「橋掛かり」と呼ばれてあの世とこの世を結ぶ役割を果たし、いわゆる「舞台」に当たる四角い「本舞台」では登場人物が現世の有り様を見せるが、役者は確実に二方向から観客の視線に晒される。

 歌舞伎が「動く浮世絵」と称される平面構造--光が溢れ白塗りの役者が所作を止めて見得を切る--に対して、能が「動く彫刻」であるのはこうした舞台の構造に負うところが大きいだろう。本舞台の一番角張ったところにある目付柱は鑑賞の邪魔になる存在だが、能面をつけた役者にはなくてはならないもので、客席からは舞台の奥行きを感じやすくさせる効果がある。役者が複数方向からの視線を浴び、これほど人物が浮かび上がる構造はない。

 時には役者の人柄そのものが肌で感じられるのも能舞台の恐ろしさである。情の豊かな役者の人柄、冷淡な役者の素顔、人伝に聞くところで、そうだと判断して間違いないと思われる。

 能は水晶玉のように真ん丸だと言ったのは白洲正子だ。(著書「お能」だっと思うが、さっきから書棚を捜しても見つからない。)能でも仕舞でも、能楽堂で見るたびにそう思う。
 能は「完璧」でなければならない。わずかな疵もあってはならない。真っ白なドレスに付いた小さなシミが目立つように、能の疵は隠せない。しかし、だからこそ能は、能役者が努力に努力を重ねて完璧に近付けば近付くほど、逆説的に疵が目立ってくるのである。なぜなら能が透明な真ん丸の美しい玉だから。下手な能の疵は目立たない。ほとんど全てが疵だから、疵のない部分が美しく見えるだけである。

 先日、久しぶりに能楽堂に行った。能の家の若宗匠(←こういう言い方はホントはしないと思うけど。)の仕舞があれでは困るだろう。扇を持つ手は普通であろう。しかし、持たない方をあんなにフラフラさせてどうするのだ。意識が行ってないのは、一歩踏み出すその時から既に見えていた。

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