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考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

「知識」の「質」と「量」

2012年09月02日 | 教育
 非常に多くの勉強は、知識を得ることにある。通常、知識は「量」で捉えられるように思う。「あんなにたくさんのことを知っているなんて、すごい。」とか。一方、「なんだ、そんなことも知らないのか。」と、知識の「内容」で捉えられることもある。「これを知っていると役に立つよ。」とか。
 しかし、知識には、他に「質」という尺度で捉えられる属性があるのではないか。
 「質」は、前述の「内容」と混同されるかもしれない。が、「内容」とここで意図する「質」は異なる。
 「ラーメンとは如何なるものか」という「知識」と「哲学とは如何なるものか」という「知識」を比べると、前者は後者より、何となく(あるいは、明らかに)「質」の点で劣る気がする人がいるのではないかと想像するが、いかがだろうか。しかし、私はこの違いを「内容」と捉え、「質」の違いと思わない。
 では、「知識」の「質」とは何か? ーーー私は、他の知識との関連や関係付けの多寡や深さを「質」と考えたいと思う。同じ「ラーメン」であっても、「ラーメン」を「その昔、中華の麺料理に端を発し、日本で独自の発展を遂げ、今では多くの日本人に愛されている麺料理」というコトバだけの知識か、フーフー言いながら、胡椒を振りラー油を垂らして食べた経験のあるラーメンでは、その「質」が違おうというものだということだ。「哲学」という言葉を知っていたとしても、アリストテレスでもソクラテスでも、誰でも良いが、そうした人との関連付けがなかったりしたら、あるいは、自分自身で「哲学とはなんぞや?」と問う経験がなかったとしたら、その「哲学」という知識の「質」は劣るのではないか。

 このように考えると、今の生徒の持つ「知識」は、「量」は多くても(量の少ない生徒も多いが)「質」の点でかなり劣っているのではないか。
 新しいコトバや概念、語句を覚えたとしても、それ以上もそれ以下でもない、無機的な単語である。他のものと直ぐに代替される危険性が高いだろう。(ゆえにとんでもない間違いをする。)以前に学習した内容との関係づけが極めて薄く、また、自分自身の経験や感情に照らし合わせて得心するわけでもない、このような「知識」を我が物として使うことは無理であろう。学んだことを応用できない所以である。
 ゆえに、子供たちに「知識」を習得させる場合は、量や内容だけでなく、上記の観点での「質」を高める学習が必要であろう。
 相当に優秀な子供は、これを無意識のうちに行っているが、そうでない場合には適切な指導が必要であろうと思う。そうすれば、かなりの子供たちの知識の習得が極めて有意義になされるのではないだろうか。

 なぜこんなことを書くかというと、イマドキの教え方が、あまりにもお仕着せの暗記中心になっているからだ。「効率的な学習」の名目で、生徒をマシン扱いしているように私には見える。彼らは、ゆとりのない学習時間で小学生の時から、自分自身で何かを発見させる余裕を持たない学習方法にあまりにも慣れ親しんでいる。その悪影響は、昔の詰め込み主義どころではない。あまりに「結果」や「成果」を重視する思考法は、皆が問題視する「無駄」を排除している。しかし、「無駄」は見方を変えれば「余剰」「余裕」という豊かさである。今後伸びていかなければならない子供に必要なものである。
 ところが、今の子供の学習時の知識は、「質」があまりにも悪い低質なのである。
 これで日本の子供の学力が上がるはずがない。

2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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もっと状況は悲劇的で (わたやn)
2012-09-02 22:36:27
こどもたちは,発見することを禁じられているのだと思います。
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見えない圧力 (ほり(管理人))
2012-09-02 23:19:15
わたやnさん、コメントをありがとうございます。

発見するためには、試行錯誤が必要です。
しかし、試行錯誤の必要性や重要性を教える側がよくわかっていません。
たぶん、心配なのでしょう。ある意味、善意の愛情ゆえ、子供たちが試行錯誤の末、正しい解に到達するかどうかわからないから。
非常に多くの人は、自分の知性も子供たちの知性も信用していないのだと思います。
それが最大の原因かな?
そんな善意ゆえの見えない圧力のようなものを感じます。
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