考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

文章の格

2012年10月28日 | 教育
 ちょっとだけ必要を感じて、ある現代作家の小説と志賀直哉の小説に目を通した。現代作家の方は初めて読む。(そもそも私はトシを取ってからほとんど小説を読まない。)描かれて世界の価値観がいかにも今風である。語る言葉が何かしらまだるっこしい。もちろん、悪い文章ではないのはよくわかる。良いから小説としても体をなし、人気作家として位置しているわけだし、私だってつつがなく読み進めることが出来るのだ。(私は何であれプロフェッショナルかどうかは、「引っかかりがない」ことにあると思っている。)一方の志賀直哉は、久しぶりに読む。「久しぶり」とは中高生の時以来という意味、たぶん。数行、いや、2,3行、いや、2行読むだけであまりの言葉の明晰さに息をのむ。きびきび語られる世界は古めかしいが安定感がある。言葉が的確に用いられているのが私もわかる。読み進めると、文章のリズムだけでどきどきしてきた。
 イマドキは、志賀直哉を読む中高生なんていないだろう。描かれる世界が異質だからだろうと思う。あまりにも当たり前というか、さりげない内容をなぜ書かなければならないのか、と言ったところなのかな。それより、もっと衝撃的なわかりやすい感動の方が人の心に届きやすいのだろう。
 物語を語るのは言葉だが、言葉は情報を伝えるだけでなく、それそのものが見事に構築された音楽であり映像でもあるのだろう。(よくわからんけど、たぶん、なんだかそんな気がする。)昔には昔の音楽があり、今には今の音楽がある。古今を問わず、それなりに上手に構築されていても、残る音楽と残らない音楽があるだろう。小説だって当たり前だろうけど、そうだろう。作家本人が死んで忘れられる作品と、それこそ青空文庫に入る小説である。志賀直哉はまだ著作権が切れていないからネットで読むことは出来ないが、必ず残ると思う。格が違う、というところか。日本語がすごい、すごすぎる。なるほど「小説の神様」である。

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