考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

事務処理能力優越と創造性欠如の時代

2006年12月13日 | 教育
 人間の能力は多岐にわたっている。(当たり前だ。)で、問題にしたいのは「事務処理能力」とでもいう能力である。

 書類上の処理に関わることが多い。身体能力と言うより、知的能力に分類されるだろう。学校の勉強もこれに含まれるだろう。忍耐力がなければ出来ない能力でもあろう。分類能力でもあろう。これはこれ、あれはあれ、と判断する能力である。書類の山に関するさまざまな分野に熟達していなければできない作業である。もちろん、計算、言語能力、論理力も関わる。
 要するに、かなり高度な能力の一つと言える。入試問題で言うと、東大の問題が非常に高度な処理能力を問うていると思う。大学入試問題の中での比較に過ぎないが、他大学に比べると「思考力を問う」ものではあるが、所定の時間内にかなりの量をこなさなければならないことも含めると、例えば京大と比べるとおそらく「処理能力」を問う問題ということになる。なるほど東大は官僚養成大学である。

 この種の能力で重要なのは、計算でも字句の誤りでも分類でも論理でも、とにかく「間違わない」ことである。
 誰だって「間違わない能力」は重要だと考えるだろう。技術等が高度になればなるほど、間違える罪は重くなる。コンピュータによる事故など、典型であろう。それで、何だか今は「間違えないことがかなり優先される時代」のような気がする。
 昔からそうだった、と言われるかもしれない。しかし、あなたの周りを見回してみよう。そんなに間違いの少ない人がいるだろうか。ほとんどの人は、しょっちゅう、間違えているのではないか。それで、「お互い様」と互いにフォローしあって何とかうまくやってきた。それは今も昔もそう変わらないかもしれない。しかし「間違い」が生む失敗がおおきくなってきているのが最近の傾向ではないか。だから、間違いに大して寛容になりにくく、「間違わない」ことの重要性が反比例して大きくなってきている。

 ところで、数学コンクールというのがある。(具体的には知らない。)数学的な、通常の試験とは多少異なるが高度な数学問題に数時間に渡って取り組むもののようである。しかし、そこで良い成績を取る子は、意外にも試験の数学が良くできる、いつも高得点をとるわけでもないらしい。なぜなら、彼らは普通の試験ではけっこうケアレスミスをして点を落とすというのだ。つまり、「間違える」のである。この文脈で乱暴に言うと、彼らの事務処理能力は、大したことがない、ということである。

 ここから類推するに、「創造性」と「事務処理」は、相容れない能力ではないか。まあ、予測できないことじゃないけれど。

 例に挙げるのが数学ばかりだから説得力に欠けるが、京大の数学の先生が、近頃の答案には、変わった解き方をする者がいなくなったと何かに書いていた。また、中間点で点を稼ぐ戦略で、どの問題も中途半端になってきちんと最後まで解かないものが多いらしい。
 素人目にも嘆かわしいことであると思う。ここにおいては、数学という思考力を問う試験で、創造性に近いところに位置する京大においてさえ、「処理」のしかも「辻褄合わせ」だけが目的となっている。これは、期待されて当然である創造性が、残念にも全く発揮されなくなったということである。
 この例では、行動の目的が目的的である場合、「間違わないこと」が「なんとか辻褄を合わせる」こととして目的化されたと見て良いだろう。
 つまり、創造性を大いに発揮できる場面においてさえ、全てが処理能力に換算される。しかも、「間違わない」という価値観が「辻褄合わせ」というピンポイントのような「間違いのなさ」に集約されてしまったのである。
 (ちょっと強引かな? でも、なんだか根っこでは繋がっているような気がするのだ。) 

 これは、「創造性」が大切でありながらも、現実的に人々が価値を見出しているのが、「間違えない、問題を生じさせない能力」だいうことである。

 では、「間違えない能力」が持つ意味は何か。
 「間違えない」ためには、「正しい答え」があると考えられる。これは、そもそも「想定」がなければ「正しい答え」は存在しないということである。となると、「想定」とは、もちろん、「予めわかっていること」であるから、「創造性」とは相容れないものになる。

 どうやら答えが見えてきたかもしれない。(書くのが面倒になってきた。)

 ここにおいて、「効率の重視」と結びつく。なぜなら、「効率の良さ」とは予め想定された範囲内のことでしか為しえない。なぜなら、「無駄を出さない」ことが最高の「効率の良さ」に繋がるからだ。となると、効率よくものごとを行うとは、予め設定された目的内のことしかできないことで、「間違えない能力」との親和性が非常に高くなると考えられる。

 現代は、学校の勉強においても「効率的な学習」が重視されているほどの世である。(ちなみに、勉強、学問とは、行き先のわからないところに乗り出す果敢な行為である。決して想定されるものではないのだ。その意味で、「効率」とは全く相容れない。)今の日本は、これほど「効率重視」の世界になっていると言うことである。
 よって、想定された範囲における「間違えない能力」を重視する「事務処理能力」が重視されるのはもっともなことで、実に奇妙にリンクする。

 つまり、今は、案外に「創造性の欠片もない時代」だということだ。
 工業や先端医療などでは「創造性」がもてはやされているように見える。しかし、これは、本質的なものではない。単なる技術的なものでしかない。(と書くと、開発者の先生たちに失礼になるかもしれないけど。)なぜなら、これまでの理論や技術の応用にすぎないだろうからだ。数十年、100年も経てば「古くさい」ものでしかあるまい。全く異なる世界観を構築するものにはならない。それは創造的とは言えまい。

 それで、「間違えない能力・事務処理能力」と「創造性」の大きな違いは何か。
 前者は、「後追い・後始末の仕事」、後者は「先駆け・準備の仕事」であることだ。

 仕事には、この2種類があると考える。

 (話がヨコに逸れるけれど、今の教育は、「後追い・後始末」になっている。しかし、教育ほど「先駆け・準備」が大切なものはないだろう。
 と言っても、わかる人にはわかるだろうけれど、わからない人にはわからないだろう。しかし、たぶん、多くの教員が「先駆け・準備」と思っているやっていることのほとんどは、ただの目先の先駆けでしかなく、本質的には「後追い・後始末」にすぎないのだ。
 で、また、教員も(事務)処理能力の高い人が、能力が高いと見なされている。
 書くのが面倒になってきた。)

 それで、今の時代は、けっこう「後追い・後始末の仕事」の能力のある人が表に出てきている時代なのだろうということだ。
 要は「国家百年の計」がない時代だと言うことだ。

 そう考えると、いろいろ納得がいく。これ以上書かない。愚痴になる。(まあ、もともと愚痴ブログなんだけれど。笑)

 話がずれた。



4 コメント

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間違えるということ (森下礼)
2006-12-13 23:33:11
ほりさんのおっしゃる「数学コンクール」とは、「数学オリンピック」のことでしょう。大学入試レベルよりすこし難しい定理などを知っていると、結構解けるそうですね。(例えば「フェルマーの小定理」←例の最終定理ではありませんが、整数論では有用です。)ピーター・フランクルとか秋山仁とかが運営に関わっていました。
 東京大学と京都大学の差異は、以前ほどではなくなってきているように思います。どちらかというと「事務処理能力」がより重視されてきていて、それに習熟した学生が東京大学にも京都大学にも同様に進学しているのが現状ではないでしょうか。
 それでも、「変わったとき方をする学生が減った」という京大教授もいるのであれば、まだまだ京大も捨てたものではない、と思いますね。そんな教授がテストを採点したら、「これは筋が良い」と点をあげるでしょうね。学問の可能性というものは「事務処理能力」では測れるものではなく、事務処理ミスとして扱われる事象のなかにあるのだと思います。つまり「間違えるということ」が学問発展のキーなのだと思います。近い例で言えば、ノーベル化学賞を受賞した田中耕一さん。予定された溶剤の混ぜ合わせ方を間違え、その液を捨てずに実験してみたら大発明につながったわけですから。
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Unknown (heisan)
2006-12-13 23:58:16
> 「創造性」と「事務処理」
 点数という一元軸でもって評価されるから,その土俵のうえでは,創造性と事務処理の違いが際だたない.で,小手先のテクで点を取るには,事務処理の方で点を取る方が圧倒的に効率的・簡単である.よって,塾でも学校でも,少なくとも多数派向けには「事務処理の方で点を取れ」と指導するようになる.
 ではそういう,一元軸で評価するテストが悪いのか,はたまたそういうテストで振るいを掛けようとする大学側が悪いのかというと,そうも言えないでしょう.ペーパーテストでの足きりをやめて,会社の採用人事のように,面接重視ということにでもなれば,ただでさえ混乱・荷重気味の感のある大学の人的リソースの負担を圧迫することになるでしょう.また,面接だと,「あいつは受かったのになんで私は」というような,基準が不明確であることによる,受験殺人のようなことも起こりかねません.
 これは一部受け売りですが,私は,大学側が高校生らに課すペーパー試験について次のように理解しています.まず,大学側が採りたい人間と,ある種のペーパー試験で得点できる人間との間に或る程度の正の相関があり(ここ大事),時間的・人手的制限を踏まえた上で,現行のような制度になっているのだ,と.「採りたい人間像イコールテストで点を取るだけの人間」では無いと,ほとんどの大学の先生は言うでしょう.でも,上のような相関があることもまた事実.
 こう見ていくと,塾業界や学校業界の界隈で問題とされている事柄は,或る意味「現状が最適解」であるという皮肉な理解の結果になりますが(少なくとも私の中ではそうなっていますが),いかがでしょう.


> 案外に「創造性の欠片もない時代」
 創造性という言葉は聞こえがいいから,キャッチコピーとして多用されますが,実際に我々の生活の多くを支えている技術とかは,電気にせよ電車にせよかなり過去に創造されたものです.こういうエンジンが作れる,こういう精密機器がつくれる.それを初めて言い出せるのが創造性ですよね.でもそれだけじゃ世の中動かない.それを踏まえて,金と人手がつぎ込まれて日夜「運用」する人たちがいてこそなのです.だいたい,新しいことを創造することよりも,毎日きちんと運用することの方が,我々の生活にとっては大事なことなのです.企業や大学の研究開発職の人たちが仕事中に何かをサボったところで我々の生活は直接には打撃を被りませんが,電車の運転士が運転中に居眠りをすれば即座に我々の生活に響きます.交通機関がストップする,ネット環境がストップする,近くのスーパーやコンビニに品物が納入されない,忘年会会場に行ったら酒がない(笑)などの事態は,我々の生活を脅かすものでしょう.
 だから,なんだろう,創造性に携わる人ってのは世の中の一部で良いんですよね(爆).大多数の人々は運用に携わっているというのが健常な世の中の姿です(笑).でも,ここ十数年で,社会の経済構造も変わってきており,このこと(大多数の人々が運用に関わること)すらも変わってくるのかもしれません.ギャンブル感覚で1株持っているだけで「株主様」と呼ばれる時代ですから(半ば意味不明w).
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数学 (ほり(管理人))
2006-12-14 19:40:51
森下礼さん、コメントをありがとうございます。

数学オリンピックです。もう、今はないのですか?詳しくは知らないので。数学オリンピックに出た子供の親が書いた本とか言うのがあって、それを読んだ友人の又聞きです
。前任校で、好きな先生が、式で絵を描く数式コンクール?をやって、確かパラメーター(?・私はよくわからない)を用いてバルタン星人(懐かしいなぁ)を描いた生徒が優勝したことがありました。式はシンプルで、絵が面白く、興味深かったです。

>>つまり「間違えるということ」が学問発展のキー

世の中には、「変なことを考える人」がいます。で、そういう人たちの中に、凄い人が見いだせる可能性があると思います。

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同意 (ほり(管理人))
2006-12-14 20:04:25
heisanさん、コメントをありがとうございます。

>>まず,大学側が採りたい人間と,ある種のペーパー試験で得点できる人間との間に或る程度の正の相関があり(ここ大事),

そうそう、そうでしょう。そこの勘違いが、今の子供や親にある。「テストが出来ることが大事だ」って。
昔は、英語が入試科目になっているのは、「アタマの良さ+努力できるかどうか」が、英語という試験科目でわかるからだ、という答え方をしていたことがありました。でも、今の英語は、技術かスキルだけになってますね。
つまり、ものの見方が単純、採用人事や入試科目にせよ、「そのものでしか見ない」という考え方になっているのでしょう。

「創造性」に関する部分は、おっしゃるとおりです。実は、この記事、考えていたことの途中で、ホントは、「なぜ、事務処理能力が優越しがちなのか」を述べるつもりもありました。(時間があったら、続きを書き足します。)
かいつまんで言うと、自然界や一般の社会においては、要は、物理的なもの、既に起こってしまった物事には、事後の対処をうまくすれば行けてしまうのです。その際は、間違わないことが重要です。まさに、「だいたい,新しいことを創造することよりも,毎日きちんと運用することの方が,我々の生活にとっては大事なことなのです.」で、おっしゃるとおりなのです。
まあ、私が言いたかったのは、それがあらゆる方面に、学校の教育や学問の世界にも入り込んでいる。そのせいで、創造性を発揮して良いはずの人たちまでが、全て事務処理的になっているように感じるのですよ。その事態を危惧しました。
でも、その割には、今の生徒を見ると、「大衆」としての運用能力も低いですよね。自分で考えて掃除ができない。掃除と言えば、エアコン取り付け業者(たぶん、20代)が、ねじを平気で落としていった。まあ、不要だったのでしょうが、昔だったら、考えられない気がしたけど。

今の創造性は、「歌って踊る、絵を描く」なのかな?
NHKののど自慢なんて、みんなホント、うまい。私は、そんなところに「時代」を感じますよ。(変かな?笑)

関係ないですが、コメントがお二人とも速い!!
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