少し前、私は「あなたは全体を見ていない」と批判された。私から見ると、その人の方が全体を見ていないように見える。互いに考えが入れ違い、話が合わない。
この理由が、ずーーーっとわからなかったが、やっと予測が付くレベルまでに至った。
「全体を見る」とか「俯瞰的」と言うとき、私は鳥瞰図的に全体を上から眺める、というイメージを持つ。このとき、全体の中に含まれる個々の独自的な特性は問題にせず、個々の関係性やそこからぼわーんと浮かび上がってくる「全体像」、個々だけを見ていたのでは見つけることが出来ないものをつかもうという意図でもって行う。
しかし、例えば、次のように考える人がいることに気が付いた。
全体とは、個の集合体である。よって、「全体を見る」が、個々の事象、個々の独自的な特性をくまなく見て回る、という見方である。
この後者の見方は、それぞれの個と同じ地平に立って、見て回る、というイメージである。人間集団においては、「あの人はこういう意見で、その人はそういう意見で」という情報集めで、それぞれの意見の意図や要因、その意見がどういう理由で出てきて、今後何を求めようと、或いは何を目的としているのかを問わずに、表に現れた事項を問題にする。(選挙で、誰が誰に入れたか、みたいなものか。)
しかし、私は、常に、そこにあるものは、どこに起因し、何を目するのか、を重視する。
まずは、「集合体」が存在する所以から検討する。なぜなら、集合の成員は、烏合の衆でない限り、なんらかの特性を共通点として持つからである。よって、共有する特性が何であるかをはっきりさせれば、その集合体の特性をつかむことができようものだ。その上で、集合体としてどこに行こうとしているのか、またその集合体を含む更に大きな集合体の有無なども問い、関係性を検討する。また、個々の成員の性質についても、それぞれが何に由来し、どこに向かうのかを検討する。自分では、かなり階層的なものの見方だと思う。
だから、教育について、学校について考えるときでも、「保護者がこう思っているから」「生徒がこういう気持ちでいるから」だけで、そういった個々の要望を満たすことが良いことだとは決して思わないのだ。
生徒がそう思うことで彼らが何を意図しているのか、それが時間的社会的空間という全体像の中でどのような位置付けになるのか、「満足」以外に何が生じるか。(保護者についてもなかなか難しいが本来は同様であると思う。)
しかし、このような見方をする人が意外に少ないことに気が付いた。(気が付くのに時間が掛かった。)私が経験する多くの場合は、階層性を抜きにして同じ地平で表だっている個々の特性を一つ一つくまなくつかむことを「全体を見る」と捉えているようである。そういう捉え方をする人は、私が個々を同じ地平で細かく汲み取らないことを「全体を見ていない、視野が狭い」と評する。それで、私が階層的なものの見方をしていることを理解しない。何故理解しないかという理由は私はよくわからない。
道理で話が合わないはずである。(笑)
この理由が、ずーーーっとわからなかったが、やっと予測が付くレベルまでに至った。
「全体を見る」とか「俯瞰的」と言うとき、私は鳥瞰図的に全体を上から眺める、というイメージを持つ。このとき、全体の中に含まれる個々の独自的な特性は問題にせず、個々の関係性やそこからぼわーんと浮かび上がってくる「全体像」、個々だけを見ていたのでは見つけることが出来ないものをつかもうという意図でもって行う。
しかし、例えば、次のように考える人がいることに気が付いた。
全体とは、個の集合体である。よって、「全体を見る」が、個々の事象、個々の独自的な特性をくまなく見て回る、という見方である。
この後者の見方は、それぞれの個と同じ地平に立って、見て回る、というイメージである。人間集団においては、「あの人はこういう意見で、その人はそういう意見で」という情報集めで、それぞれの意見の意図や要因、その意見がどういう理由で出てきて、今後何を求めようと、或いは何を目的としているのかを問わずに、表に現れた事項を問題にする。(選挙で、誰が誰に入れたか、みたいなものか。)
しかし、私は、常に、そこにあるものは、どこに起因し、何を目するのか、を重視する。
まずは、「集合体」が存在する所以から検討する。なぜなら、集合の成員は、烏合の衆でない限り、なんらかの特性を共通点として持つからである。よって、共有する特性が何であるかをはっきりさせれば、その集合体の特性をつかむことができようものだ。その上で、集合体としてどこに行こうとしているのか、またその集合体を含む更に大きな集合体の有無なども問い、関係性を検討する。また、個々の成員の性質についても、それぞれが何に由来し、どこに向かうのかを検討する。自分では、かなり階層的なものの見方だと思う。
だから、教育について、学校について考えるときでも、「保護者がこう思っているから」「生徒がこういう気持ちでいるから」だけで、そういった個々の要望を満たすことが良いことだとは決して思わないのだ。
生徒がそう思うことで彼らが何を意図しているのか、それが時間的社会的空間という全体像の中でどのような位置付けになるのか、「満足」以外に何が生じるか。(保護者についてもなかなか難しいが本来は同様であると思う。)
しかし、このような見方をする人が意外に少ないことに気が付いた。(気が付くのに時間が掛かった。)私が経験する多くの場合は、階層性を抜きにして同じ地平で表だっている個々の特性を一つ一つくまなくつかむことを「全体を見る」と捉えているようである。そういう捉え方をする人は、私が個々を同じ地平で細かく汲み取らないことを「全体を見ていない、視野が狭い」と評する。それで、私が階層的なものの見方をしていることを理解しない。何故理解しないかという理由は私はよくわからない。
道理で話が合わないはずである。(笑)
私としてはたとえば、「メタ言語」ということを想起しますが、それでよろしいのでしょうか。「クレタ島の人は、みんな嘘つきだと、クレタ島の人が言った」というような、論理学的パラドクス。
ほりさんのブログの趣旨はだいたい解かるのですが、この「階層構造」の意味するところが、いまひとつ解からない私です。(←あほたれ。)
おっとぅ~。。定義なんて意識してません。すみません。
「入れ子構造」と言った方が良い部分が多いかもしれません。(なんてたって、関係詞が好きだった私・笑)「同じ」か「違う」かという視点で、どんどん「同じ」を探し出す観点でしょうか。そこに共通の因果関係や場合によっては、共通の目的という「同じ」になる観点が加わるというか。
とにかく、「あれもある、これもある」だけで話が進むのを好まないんです。「あれとこれはどういう関係(共通点と差異)があるの?」ってすぐに思うんです。
今号の「考える人」の養老先生が書いてるような、「同じ」を突き詰めていくと「絶対神」になる視点と、感覚を基盤にした差異を重視する「八百万の神」の間に見いだせるような階層関係なのかな?凄く共感するんです。
メタ言語とは、ちょっと違うような気がします。でも、私、自分の使用語彙に「メタ言語」がないので、正確にはどうなのかわかりません。
いつも熱心に読んで下さるのに、十分なお答えができず、無教養ですみません。
またよろしくお願いします。
まあ、人間の視野には限度があります。
遠くから全体を眺めるか、近くから(ごく一部分の)全てを観察するか、ですね。
全体を俯瞰できる人が、個々の問題に目を向けられる人を取りまとめる。
そんなシステムが構築できれば理想的ですけれど。
なるほど、「全体」と「全て」ですね。納得。
>>全体を俯瞰できる人が、個々の問題に目を向けられる人を取りまとめる。
個々の問題に目を向ける人は、全体を俯瞰する人の見方がわからないので、価値を認めないと思います。多くの個々の問題を捉える人は、それはそれで能力があり、自信家の人も多いので尚更です。
よって、かなりの問題は、(以前に記事に書きましたが)集団と個の概念の対立問題のように感じます。