考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

すごい先生の話から本物の勉強など

2007年08月08日 | 教育
 (実はよく知らない方だが)とても若い方だが、たぶん、きっとすごい先生だと思われる人がいる。
 部活動も授業もしっかりとするようだ。部活もめきめき成績をあげ(これは目に見えてわかりやすい。)、授業内容も話を聞く分に、これで悪いはずがないと思う。
 言うことが理に適っている。この人の言うことは、ほとんど間違っていない。(ちょっと話をすればそれくらいわかるさ。)

 私は、それなりに多くの先生を知っているが、褒めたくなる人はあまりいない、というか、ほとんどいない。(苦笑)でも、私はこの先生を(私より遙かに年下だが)尊敬する。理論も実践もそうとうなレベルに思われるからだ。
 
 この先生の良い点は、生徒の能力を軽んじていない点である。生徒を伸ばす技能(大きな意味でも小さな意味でも)も凄いと思う。で、かならず伸ばす。もちろん、限界はあろうが、限界まで伸ばそうとする。で、生徒の能力は、実はかなり高いものである。「出来ない奴」と思っても、結構な線までいくことがある。もちろん、皆が皆インターハイに出ることができたり、旧帝大などの大学に入れるわけではないが。

 最初から低い山に登ろうとするのと、とても高い山を目指すのとでは、根本が違うということだ。この先生は、どの生徒にも力の限り高い山を目指させる。
 もちろん、皆が皆その高い山に登り切れるわけではない。しかし、大事なのは、目標が違えば、やり方が異なるということが起こる。
 高い山に登ろうとすればするほど、基礎力がモノを言う。鍛え方が根本から変わる。大事なのはそこだ。

 昔、文藝春秋に、漫画家の池田理代子氏が、なぜ音大を目指したのかを書いていた。日本舞踊をやっていたとき、素人も稽古を積めば玄人のレベルになると思っていたと言う。しかし、ある若手の舞踊家が何か失敗らしきものをしたとき、素人と玄人では、目指す山が違うことを知った、と言うのだ。それまで池田氏は、素人も玄人も、同じ山をルートを違えて登っているだけだと思っていた。だから、時が経てば同じ頂上に到達できると思っていた。が、実は、素人の稽古は、最初から低い山を目指す登り方だったという。それで、彼女は玄人として声楽家をめざした。そのための音大入学だった。

 今の学校教育は、「頂上に到達させること」を目的にしている。「達成感」である。だから、山は低くなる。どんなに低くても頂上は頂上という考え方である。

 ホンモノの力をつけるためには、最初から高い山に登るつもりでいた方が良い。ホンモノの力とは、「応用力」につながるものである。
 低い山に登るのは、勉強では「ごまかし勉強」だろう。「ごまかし勉強」では、難関大学は通らないし、とにかく応用が利かない。基礎基本を身に付け、全体を概観する力をつける、樹木でたとえれば、幹から育て、葉を茂らせるホンモノの勉強をするのが大事である。「ごまかし勉強」は、葉っぱだけを育てようとするようなものだ。そんなのムリに決まっている。
 
 大事なのは、たとえ今は葉がさほど茂っていなくても、大きな幹があれば木は自分で立っていることができるということだ。時間が経てば、葉を茂らせることもできるようになるだろうということだ。
 細い幹にたくさんの葉を茂らせても、葉っぱはやがて落ちる。その後どうなるのか。自分で立っていることすら危ういかもしれない。

 高い山には目指すべき高い頂上がある。そこを目指せば良いではないか。しかし今は、低い山でも頂上に到達することを目的にする。
 なぜ、そんなに頂上に到達することばかり考えるのか。低い山の頂上から、一体何が見渡せるのだろうか。もっと高いところを目指そうにも、それ以上高いところに登ることは決して出来ないのである。残酷ではないのか。「そこで満足しろ」「君の立ち位置は、その低い山だ」と言っているのだ。
 高い山なら、今はたとえ頂上に到達できなくても、「より高いところ」をめざしことができる。一歩上がれば一歩だけ高くなるのである。(ひょとしたら、いつの日か到達することだってできるかもしれないのだ。)その一歩は、いつ何時でも歩める一歩だろう。それなのに、なぜ若いときに「ここまで」と最初から頂上を決めつけ、制限を加えなければならないのだろうか。

 私は、他の多くの先生は、実のところ、生徒の能力(あらゆる能力)を見下していると思えてならない。だから、肝心の基礎基本を大事にしない。本当に分かるのには時間が掛かる。手っ取り早く「効果的に点に繋がる」ために葉っぱだけを付けたがる。やっている当人にその意識はない。(もちろん、私も自戒しないといけないことがあると思うけれど。)


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