自分で書いた作文に驚くことがある。
「これ、誰が書いたんだ?」
とてもじゃないが、自分で書いたと思えない。読みながら、ほほーっと感心する。何でこんなに理路整然としているのだろうか。と、こんなことを言うと、「ばか」とか「あほう」という言葉が聞こえてきそうだが。
私は、「わかる」とか「できるようになる」と言う事実が不思議でしようがない。努力すればわかるようになったりできるようになったりするのは当たり前のことだから、「練習しなさい」「頑張りなさい」と人に、自分に言う。練習をするとできるようになるのは、自分の意識とあまり関係がない気がする。数学の問題でも、繰り返し勉強をするとできるようになる。ボールを蹴ったり投げたりすることでも、練習をすればできるようになる。当たり前だが、不思議である。
そもそも、何らかの仕組みがあるから、練習すれば出来るようになるということであろう。ならば、その仕組みとは何なのかということになる。
言葉を連ねることでも、繰り返し書くことで、次に書くべき言葉が出てくる。言葉を探し出すべく考えて思いつくと言うこともあるが、ほとんど無意識的に言葉が出てくるとき、とてもじゃないが自分が努力していると言う気にならない。独りでに出てきて、出てきた言葉に自分自身が驚く、という寸法である。
内田先生が、書いている自分と推敲する自分、印税を貰う自分の誰に著作権があるのか、と書いているが(「邪悪なものの鎮め方」)たくさんの自分がコラボレートして書き上げる、と書いていたが、とてもよくわかる。どこかに妙にれーせーな自分がある。書いている人とは違う気がする。ひょっとしたら、「自分の書きたいこと」を表現しようとしたがる自分と、「言葉というシステムに住む別の自分」の最低限二人の自分が存在しないと、文章は書けないのではないだろうか。それで、ボールを蹴ったりする場合も、「ボールに住む自分」を持たないことに、自分の思うところに自分の思うようにボールは届かない。
これは、推論すると、「努力」とか「練習」というのは、別の自分を、対象、つまり上記の例で言うと、言葉の世界だったり、ボールという世界に住まわせるためのものということになりそうだ。
人がものがわかるようになったり、できるようになったりするというのは、複数の自分をそれぞれの世界に住まわせることによって互いにコラボレートさせるということだろう。いかなる対象であろうと、その対象が持つシステムだったりするものが存在し、システムは、そのままではそのシステムを利用したがっている自分の意のままになるものでないのである。あくまで出来るのは、コラボレートできる自分をそのシステムに住まわせることによってしか、システムは自分の意のままにならない。
対象に住む自分は、表現をしようとする自分とはちょっと異なる存在だから、自分でけっこう満足がいく、というか、「誰が書いたんだ?」と思う作文は、「書く」とか「作る」という他動詞的な能動ではなく、コラボレートの結果、自動詞的に「出来てくる」かのように感じ、結果的に「驚く」ことになるのだろう。
「これ、誰が書いたんだ?」
とてもじゃないが、自分で書いたと思えない。読みながら、ほほーっと感心する。何でこんなに理路整然としているのだろうか。と、こんなことを言うと、「ばか」とか「あほう」という言葉が聞こえてきそうだが。
私は、「わかる」とか「できるようになる」と言う事実が不思議でしようがない。努力すればわかるようになったりできるようになったりするのは当たり前のことだから、「練習しなさい」「頑張りなさい」と人に、自分に言う。練習をするとできるようになるのは、自分の意識とあまり関係がない気がする。数学の問題でも、繰り返し勉強をするとできるようになる。ボールを蹴ったり投げたりすることでも、練習をすればできるようになる。当たり前だが、不思議である。
そもそも、何らかの仕組みがあるから、練習すれば出来るようになるということであろう。ならば、その仕組みとは何なのかということになる。
言葉を連ねることでも、繰り返し書くことで、次に書くべき言葉が出てくる。言葉を探し出すべく考えて思いつくと言うこともあるが、ほとんど無意識的に言葉が出てくるとき、とてもじゃないが自分が努力していると言う気にならない。独りでに出てきて、出てきた言葉に自分自身が驚く、という寸法である。
内田先生が、書いている自分と推敲する自分、印税を貰う自分の誰に著作権があるのか、と書いているが(「邪悪なものの鎮め方」)たくさんの自分がコラボレートして書き上げる、と書いていたが、とてもよくわかる。どこかに妙にれーせーな自分がある。書いている人とは違う気がする。ひょっとしたら、「自分の書きたいこと」を表現しようとしたがる自分と、「言葉というシステムに住む別の自分」の最低限二人の自分が存在しないと、文章は書けないのではないだろうか。それで、ボールを蹴ったりする場合も、「ボールに住む自分」を持たないことに、自分の思うところに自分の思うようにボールは届かない。
これは、推論すると、「努力」とか「練習」というのは、別の自分を、対象、つまり上記の例で言うと、言葉の世界だったり、ボールという世界に住まわせるためのものということになりそうだ。
人がものがわかるようになったり、できるようになったりするというのは、複数の自分をそれぞれの世界に住まわせることによって互いにコラボレートさせるということだろう。いかなる対象であろうと、その対象が持つシステムだったりするものが存在し、システムは、そのままではそのシステムを利用したがっている自分の意のままになるものでないのである。あくまで出来るのは、コラボレートできる自分をそのシステムに住まわせることによってしか、システムは自分の意のままにならない。
対象に住む自分は、表現をしようとする自分とはちょっと異なる存在だから、自分でけっこう満足がいく、というか、「誰が書いたんだ?」と思う作文は、「書く」とか「作る」という他動詞的な能動ではなく、コラボレートの結果、自動詞的に「出来てくる」かのように感じ、結果的に「驚く」ことになるのだろう。
文章化でも、表現をするというのは、人によって目的でも効果でもが違うのかもしれません。
バラバラになる人は、纏めるためかもしれないし、凝り固まろうとする人は、ひょっとしたら、自己を解放するため、とかいう場合もあるのかもしれませんね。
私は、文章で表現するときに自分を分割するのかなぁ。で、コラボレートできる自分をつくるというのか何というのか、よくわからない。
ま、気分良くなればそれでよし、です。
こちらのブログではときどき下手な文章を書いて失笑されていますが、なぜ書くのか、その理由はずっと放置されたままの疑問だったのです。日記にしてもレポートにしても、文章化するのは自分の考えをまとめるためだといわれるのは知っています。ほんとうは、何がまとまるのか。自分の考えとか思いか。それらをただ順序正しく適切に文字化するのが、まとめること? 言葉を使って考えたことや思ったことを整理・整頓する? 書きだす前にちゃんとした考えとか思いがすでに出来あがっている? そして書いてみると、確かにまとまる自分が意識できます。あーこうだったのか、そうだったんだ、このレベルでしかなかったのだと。何をしているんだろう、書くって・・・。
でも、すっかりわかりました。まとまるのは、バラバラだった自分のカケラなんですよね。それが再認識できました。どっかで、そうじゃないかと思っていたんです。表現は自分を取りもどすため、確かにそうです。
そうだったんだなー。いろいろ書くのは、毎日毎時間、バラバラになっていく自分のカケラをもう一度すこしでもまとめ上げようとする再生の努力だったんだなー。ああ、すっごく納得できましたよ、ほり先生。表現するって、自分のPCにデフラグ走らせるのと同じ。バラバラになっていく人ほど効果があります(笑)。