考えるのが好きだった

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「なぜ私が怠け者を養わなければならないのか?」

2012年10月20日 | 教育
 内田先生は、接する若者を見て、日本は大丈夫、とおっしゃっているけど、ホントかな、と思う。内田先生の周りにいる人たちが大丈夫なだけであって、他はどうだろうか?

 私も、ある意味、大丈夫だとも、思う。ただ、「大丈夫」の定義の仕方がどんなのだ?というだけだ。
 その昔なら、たとえば、医療がまだまだ貧弱だった時代、今なら失われなくていい命だって数多くあったはずだ。それは「不幸」である。しかし、それが当たり前だった。皆が、「そういうものだ」と納得していて、それなりに対処していたはずだ。失われる命を惜しみながらも「悲しみをいかにして癒やすか」などが次の幸せを求める生き方につながっていたのではないか。人々の知恵の多くが費やされたのは「命をいかにして失わずに済ませるか」という事前の策でなく、「癒やし」という事後の策に費やされていたのではないか。「友は悲しみを半分にしてくれる」みたいなのと同様に。(想像だけね。)だから、その意味で、「大丈夫」だった。どんな不幸に見舞われても、生き抜いてきた。そんな人たちが必ずいた。我々は皆、そうした「生き残り」の子孫である。そのようにして、人類は今、こんなにも繁栄、つまりは、数を増やして存在する。
 悪意に受け取られるのは困るが、今、「在宅医療」が言われている。自宅で、現在の優れた医療を受け、自然な環境で最期を迎えることだってあるようだ。(私はテレビ番組で知る程度。)でもこの状況って、昭和30年代(数字の具体性は30でないかもしれないが、たぶん、高度成長に入る前の時代)と、そんなに変わらないのではないか。もちろん、医療の水準は格段に異なる。「身体的なつらさ」は、たぶん、現在の方が軽減されているだろう。その違いが非常に大きいとは思う。それが文明の発展の恩恵だろうと思う。だけど、考え方の基本は昭和30年代に「戻った」感じがする。

 「人間の幸せ」を決める最大の要因は、私は「納得する」ことなのではないかと思う。納得していたら、誰も文句は言わない。「憂さ晴らし」もしない。怒ることもない。

 内田先生が「大丈夫」というのは、その意味で、「納得して生活をする」という観点なのだろうかとも想像する。(わからないけど。)そこに、これまでの「経済成長」は関与しない。
 「服が好きだからデザイナーになりたい」と言っていた生徒がいた。「一流デザイナーを目指すのではなくて、インディーズブランドのデザイナー」と言っていた。安くても気に入ってくれた顧客に服を作りたいというのだろう。それで食べていけるかどうかは別だが、こうした流れがじわじわと根付いているのが現状だ。経済成長はなくても、それで納得して幸せなのだ。

 しかし、養老先生がおっしゃることだが、人間が生きていくうえで重要なのは、やはり、「エネルギー」である。「食う」ための問題だ。(もちろん、ここでは、「食う」に食料の需要供給の重大問題だけでなく、「食う寝る遊ぶ」のすべてに費やされるエネルギーを含む。)
 若者は、自分自身がエネルギーあふれる存在だから、ホントのところ、エネルギーはあまり必要としないものではないか。(と、今、ふと思った。)
 若者はたらふく食う、としても、働き手として有能だから、畑を耕しても漁をしても、自分の食う分以上を獲得するだろう。暑さや寒さにも強い。遠くに行きたかったら歩けば良いのだ。誰だって、若い頃は、電車の1駅2駅どころかそれ以上を歩いた経験があるはずだ。しかし、あれから数十年経てば、他の助けを借りる(つまり、交通機関を使う、)か、そこに行くのを諦めるかのどちらかになる。つまり、若者とは、実質的には、たいしたエネルギーの消費者になりえないのだ。だから、何が起ころうと、若者はたくましく「大丈夫」に見える。
 問題は、そんな彼らが、年をとったときに、自分に欠けてきたエネルギーをどこから補うかである。
 内田先生の周りの若者は、いわば、共同体形成力(←造語)における「強者連合」である。能力も高い。だったら当面大丈夫だろう。国家が瓦解したら、(反論されるだろうが、)能力から言って国外逃亡だってしようと思えばできる人たちである。
 しかし、その能力がない若者がかなりいる。これは疑う余地がないだろう。内田先生も少し前に書いていたと思うが、「個性重視」の名の下に、「連帯」など、人とつながる能力の育成を徹底的にぶちこわしてきたのが近年の教育であり環境だからだ。その人たちが水面下に大勢いるという事実は、共同体形成力を持つ人たちをしのぐだろう。社会全体を広く見た場合、こうした人たちの存在こそが重要ではないかと思う。内田先生の語調は、同時発生的な「共同体」の萌芽を言祝いでいるようだが、同時に、弱者を大切にしない共同体は滅びる、以外、それが出来ない人たちについての暖かい言葉がないか乏しいように私は感じてしまう。

 もちろん、私が言うまでもなく、上で述べた水面下の若者の存在を問題視している方は、大勢見えるだろう。しかし、自分とは関係がないと思っている人も多いはずだ。
 結論は、「養える人たちが養う」しか他に方法がないだけだが。弱者を大切にするのはそういうことだ。

 若い人とそんな話になったとき、一定の収入がある若者が、「なぜ、私がそんな怠け者の面倒を見なければならないのか」と反応した。しかし、これは同時に、何億も稼ぐ人が、「なぜ私が自分が汗水垂らして働いた中から多額の税金を納めなければならないのか」と言うのと同じである。その税金は、その金持ちに何の恩恵ももたらさない事項に費やされるに決まっている。自分よりも遙かに能力が低く、劣っている人たちの勝手気ままを許すために自分のお金が費やされるのである。上記の若い人も、そうした大金持ちから見たら、「自分よりも遙かに劣っている人間」で「怠け者」と同義である。しかし、その若い人は自分がそうだとは考えない。
 このような思考をする人がけっこう多いのではないか。
 だって、理不尽だもの。自分が働いているのは、自分より「怠け者」(念のために書くが、「怠け者」は精神構造ゆえだけを指してのことではない。)のためだなんて。気分が悪くなる。(私だって。)

 でも、「そーゆーものだ」と思うしかない。
 ーーーだれだって、きっと「怠け者」なんだよ。

 「高校」というところは、旧態依然の時代遅れの場所に見えて実は時代の先端を行くところである。数年後に社会に出る「次世代社会人」の巣窟だからだ。
 私は長年そこに身を置き、そこそこ能力が高く、共同体形成力を持ち、人間的にも決して劣ったところのない生徒集団を見ている。彼らは、言ってみれば、「怠け者」を養っていくべき存在であろう。彼らには、そのための十分な資質があると私は思っている。でも、このまま行くと、日本はやはり、まずいんじゃないのか、と思う。
 最大の理由は、彼らはしょっしゅう、納得させられているだからだ。
 しかし、納得のレベルが非常に浅い気がしてならない。浅い納得は、すぐに諦めに転じるように思う。それで事後の策であれなんであれ、諦めが次の納得を生めば「大丈夫」である。(あるいは、最悪の結果を招く。しかし、これはそれ以上の「事後」がないかそれ固有の案件としては問題にされない。)しかし、諦めに至らないとき、表面的な納得は、「納得」でなくなる危険性を併せ持つ。そのとき、「不満」がくすぶり出てくるような気がしてならない。それも、「特定の誰か」ではなく、ほとんどの若者に。
 「誰のために勉強をするのか?」と問うと、その昔、生徒は「人のため」と答えた。しかし今は、生まれた時から「自己責任」を耳にして育ち、絶えず「あなたは何がしたいのか?」と問われて「目的成就のための勉強」という動機付けで勉強に追い立てられた子供たちは、同じ問いには必ず「自分のため」と答える。そのようなメンバーからなる社会集団は、言ってみると、非常に恐ろしくないか。どのような形で出てくるかはわからないが、優れた者はきっと次のように言うだろう。
 「なぜ私が怠け者を養わなければならないのか」
 若者が自分の能力を高めれば高めるほど、また、価値観がほぼ均質な中で育った彼らは同じ度量衡で互いを測り、常に自分以下のものと比較してそのように言うだろう。こうした思考法で「助け合い」はできるまい。

 「社会」は、「個人」のレベルの付き合いと、個人のレベルでは目に入らない「大きな組織」の付き合いで成り立つ。
 上記の「在宅医療」は、医学部なり医療関係の会社なり工場なり流通なり何なりの「大きな社会的な組織」があってこそ成立する。内田先生のおっしゃることは、「組織」がそれなりに機能した上での「個人」レベルの社会的付き合いの「大丈夫」ではないか。しかし、社会のマジョリティを構成する、私が接する生徒、つまり、未来の社会を構成するメンバーの意識下に「大きな社会的な組織」はこれっぽっちもない。内田先生が若手政治家のビジョンのなさを嘆くが、今の若者には「自分の目に入らない人たち」に対する想像力の欠如しているのである。(これは、「勉強は自分のためにする」意識にも見ることができよう。)「なぜ私が怠け者を養わなければならないのか」も、「大きな組織」に思いを馳せることができない想像力の欠如に起因するのと同じである。

 これまでの日本の社会は、「大きな組織」の恩恵を受けてきた。しかし、「あるのが当たり前」の状況で、有り難さがわからなくなってしまった。「大きな組織」を作ったり維持したりする仕事は「雪かき仕事」なのだろう。誰かが必ずしなければならない仕事である。おそらく今の難しさは、「大きな組織」が「悪さ」をするようになっていることだろう。(村上春樹のスピーチの「システム」であろうか。)「悪さ」を最小限にとどめ、しかし、維持していくことの難しさは、「個人」の付き合いが活性化して生活を維持していくことと全く別次元の話ではあるまいか。この点で、「大きな組織」に関わる思考が、根底からどんどんやせ細っている現実を、私は、教員という仕事上「生活感覚」として感じる。
 「なぜ私が怠け者を養わなければならないのか」は、フラクタルのように「連鎖」し、やがて、社会の「大きな組織」の存在意義すらをも蝕むことにならないかと思う。

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